第三記録 合同指揮演習
入学初週の終わり、雨はまだ残っていた。
帝立軍官学院第一演習場の天窓には、細い雨粒が並んでいる。
高い石壁に囲まれた半屋内の演習場は、外気よりも冷えていた。
中央には、巨大な戦術盤が置かれている。
丘陵。
橋梁。
国境前哨。
補給路。
仮設野戦医療所。
通信拠点。
盤上には、それらを示す駒と線が並んでいた。
赤い駒は敵。
黒い駒は味方。
白い駒は負傷者想定。
銀線は補給線。
青線は撤退可能線。
この日の演習は、午前の上級指揮論の実践だった。
補給線が一時遮断された場合、前線指揮官は何を先に確認すべきか。
その問いに、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは答えていた。
撤退可能線。
午後、教官はその答えを盤上に置いた。
「第百十二期、第一合同指揮演習を開始する」
戦術教官の声が、石壁に返った。
東棟の貴族候補生と、西棟の平民候補生が、同じ演習場に集められていた。
ただし、同じ位置には立たない。
貴族候補生には、指揮札が配られる。
平民候補生には、実務札が配られる。
小隊長役。
補給主任役。
伝令役。
後衛整理役。
負傷者搬送役。
平民も士官候補生ではある。
だが、上級指揮を学ぶ者と、現場実務を叩き込まれる者では、盤上に置かれる場所が違った。
それを、誰も説明しない。
学院では、説明されないことほど早く身につく。
演習場の壁際には、二年、三年の上級候補生たちが並んでいた。
彼らは監督補助として、盤面記録、時間計測、損耗判定を担当する。
さらに後方には、教官団がいた。
戦術教官。
規律教官。
記録官。
学院副官。
誰も大きな声を出していない。
だが、第一演習場には十分な圧があった。
「課題」
教官が盤上を指した。
「雨天下における橋梁保持、および孤立小隊回収」
上級候補生が記録板へ題目を書き込む。
「状況。国境前哨線にて、味方小隊が突出。主要橋梁を失えば後退路は断たれる。補給線は雨で不安定化。通信は遅延。敵前哨は制圧可能に見えるが、無理に前進すれば孤立する」
赤い駒が、橋の向こう側に置かれる。
「主目標は三つ。橋梁保持。孤立小隊回収。補給線再接続」
教官の手が、敵前哨を示した。
「敵前哨制圧は副次目標。可能なら実施。ただし、損耗率が規定値を超えた時点で失格とする」
候補生たちの間に、かすかな緊張が走った。
「なお、敵前哨への圧力は加点対象とする」
その一文で、いくつかの視線が赤い駒へ向いた。
勝てばいい演習ではない。
しかし、前に出れば評価される演習でもあった。
戻さなければならない。
だが、進まなければならない。
士官候補生たちにとっては、その両方を同時に処理する最初の盤面だった。
「班分けを行う」
副官が名簿を読み上げる。
貴族候補生。
平民候補生。
上級監督候補生。
第一班の名が呼ばれた時、演習場の空気が少しだけ変わった。
「第一班指揮」
副官の視線が、名簿の上で止まる。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生」
「はい」
ヴィクトリアは短く答えた。
十四歳。
新入候補生総代。
候補生監督補佐。
午前の講義で、撤退可能線と答えた候補生。
その彼女が、貴族候補生として指揮札を受け取る。
同じ班には、貴族候補生が二名。
西棟実務小隊役の平民候補生が三名。
上級監督候補生が一名。
西棟実務小隊。
平民候補生三名で構成される、補給、伝令、搬送を担う演習単位だった。
彼らは兵卒ではない。
だが、この盤上では、命令を受けて線を維持する側に置かれていた。
本来なら、十七歳の貴族候補生が指揮を取る空気だった。
だが、教官はそれを許さなかった。
ヴィクトリアは戦術盤の前に立った。
盤面を見下ろす。
敵前哨。
主要橋梁。
孤立小隊。
補給路。
泥濘地帯。
搬送路。
野戦医療所。
彼女の視線は、敵前哨で止まらなかった。
後方へ戻る。
橋梁。
搬送点。
補給再接続点。
撤退可能線。
上級監督候補生が、その視線の動きを見ていた。
ヴィクトリアは最初の駒を置いた。
前線ではない。
橋の南側だった。
「第二小隊、橋南」
平民候補生の一人が顔を上げた。
「攻撃前に、ですか」
「そうだ」
ヴィクトリアは盤面から目を離さない。
貴族候補生が、指揮札を握ったまま口を開いた。
「敵前哨へ圧力をかける必要があります」
「知っている」
「なら、前進を優先すべきでは」
ヴィクトリアは黒い駒を一つ、橋梁の手前へ置いた。
「前進限界線を越えるな」
貴族候補生は言葉を止めた。
「補給主任」
「はい」
「南側で待機。橋を残せ」
「承知しました」
「伝令」
「はい」
「森へ出るな。石橋まで戻れる位置を保て」
「はい」
「搬送役」
「はい」
「搬送点を橋の手前に置け。前へ出るな」
平民候補生たちは、命じられた通りに駒を動かした。
前線へ出されると思っていた者ほど、戸惑っていた。
彼らはこれまで、演習では最初に動かされる側だった。
損耗を前提に置かれる。
そういう役だと、教えられてきた。
だが、ヴィクトリアの配置では、彼らは前に捨てられていない。
代わりに、橋を残す位置に置かれている。
意味を理解できる者は、まだ少なかった。
「前進小隊」
ヴィクトリアは、前方の黒い駒を指した。
「前進限界線まで」
「制圧ではなく、ですか」
「牽制のみ」
短い沈黙。
「足を止めればいい」
「承知しました」
前進小隊の駒が、敵前哨の手前で止まる。
前に出る。
だが、深く入らない。
制圧のためではない。
敵をこちらへ引きつけ、橋と孤立小隊の回収線から目を逸らさせるための前進だった。
「開始」
教官の声で、演習が動いた。
他班は、一斉に前進した。
敵前哨へ圧力をかける駒が進む。
主要橋梁へ指揮駒が集中する。
貴族候補生たちは、副次目標であるはずの敵前哨制圧に引き寄せられていた。
加点対象。
その言葉は、彼らを前へ出すには十分だった。
第一班だけが、遅い。
前へ出る駒が少ない。
橋の手前に残る駒が多い。
伝令駒は森を避け、泥濘地帯の端で止まっている。
前進した前進小隊も、前進限界線を越えない。
敵前哨の赤い駒に圧力だけをかけ、制圧には入らなかった。
観覧席の上級候補生の一人が、小さく眉を寄せた。
「遅いな」
隣の三年候補生が答える。
「敵前哨を見ていない」
「牽制はしている」
「制圧はしないのか」
「まだ分からない」
教官は何も言わない。
記録係だけが、駒の位置を写していた。
数分後、追加条件が入った。
「雨量増加。泥濘地帯、移動制限」
盤面の青線が一本、消された。
「補給車両、遅延」
銀線の上に、黒い印が置かれる。
「敵別働隊、左翼側面へ出現」
赤い駒が森の端に置かれた。
演習場の空気が動いた。
他班の前進駒が止まる。
敵前哨を目前にして、後方との線が細くなっていた。
補給は遅れ、通信は届かず、側面に赤い駒が出ている。
教官の声が落ちる。
「通信、一時途絶」
盤上から、小さな通信札が伏せられた。
誰かが息を飲んだ。
第一班の貴族候補生が、ヴィクトリアを見る。
彼女は動揺していなかった。
「前進小隊、停止。牽制継続」
「はい」
「橋梁通行線を維持」
「はい」
「搬送点、保持」
「はい」
「伝令、戻れ」
「戻ります」
「補給主任、再接続点を確保」
「はい」
命令は短い。
だが、駒は迷わなかった。
第一班は、敵前哨制圧に入っていない。
だが、赤い駒の進行は止まっている。
橋は残っている。
補給線は細いが切れていない。
孤立小隊の退路も、まだ残っている。
上級監督候補生が、記録板に目を落とした。
そこに、まだ損耗印はほとんど付いていない。
他班では、白い負傷者駒が増えていた。
前に出た西棟実務小隊役の駒が、戻れなくなっている。
第一班の平民候補生が、ようやく気づいた。
自分たちは、下げられたのではない。
逃がされたのでもない。
戻れる位置に置かれていた。
貴族候補生が、低く問う。
「なぜ、先に橋を」
ヴィクトリアは盤面を見たまま答えた。
「最初に切れる線だ」
返答は、それだけだった。
橋か。
補給線か。
人か。
どれにも聞こえた。
演習は続いた。
第一班は敵前哨を制圧しなかった。
副次目標、未達。
ただし、限定牽制は実施。
敵前哨からの圧力は、一時的に止められていた。
主要橋梁は保持。
孤立小隊、回収。
補給線、再接続。
負傷者搬送、成功。
西棟実務小隊、損耗判定なし。
教官はしばらく盤面を見ていた。
誰も喋らない。
雨音だけが天窓に落ちている。
「終了」
教官の声で、候補生たちは姿勢を正した。
結果が読み上げられる。
「第一班。橋梁保持、達成。孤立小隊回収、達成。補給線再接続、達成。負傷者搬送、成功。西棟実務小隊、損耗判定なし」
そこまで言って、教官は一度止まった。
「敵前哨制圧、未達。限定牽制、実施」
演習場の空気が、わずかに硬くなる。
貴族候補生の一人が、唇を引き結んだ。
加点は取り切っていない。
だが、主目標は落としていない。
ヴィクトリアは何も言わなかった。
平民候補生の一人が、迷うように口を開いた。
「あの、アイゼンベルク候補生。先ほどの配置は――」
「報告書を出せ」
ヴィクトリアが遮った。
平民候補生は止まる。
「はい」
「次は、遅れるな」
「はい」
それだけだった。
礼を言わせない。
説明もしない。
ヴィクトリアは、盤面の端に残った白い駒を一度だけ見た。
負傷者想定駒。
搬送完了。
その駒は、盤の外へ出されていなかった。
演習後、教官は片付けを始めようとした上級候補生を止めた。
「第一班盤面、保存」
上級候補生が手を止める。
「教材用ですか」
「違う」
教官は、盤面から目を離さなかった。
「評価記録へ回す」
記録係が、別紙を一枚増やした。
観覧席にいた三年候補生たちは、それを見ていた。
「敵前哨を取らなかった」
「なら、失敗か」
「違う。主目標は落としていない」
「牽制は」
「している。前進限界線内だ」
「孤立小隊は」
「戻した」
「損耗は」
「西棟実務小隊、判定なし」
会話はそこで止まった。
別の上級候補生が、低く言う。
「十四だろう」
「アイゼンベルクだ」
「家名の話ではない」
その言葉で、数人が黙った。
見ていた者たちは、理解し始めていた。
彼女は、正解を暗記していたのではない。
盤面を見る順序が違う。
敵ではなく、線を見る。
勝利ではなく、損耗を見る。
前進ではなく、帰還を見る。
十四歳の新入候補生が。
その日の終業後、学院長室には演習記録が上がった。
帝立軍官学院、第百十二期第一合同指揮演習。
課題、雨天下における橋梁保持および孤立小隊回収。
第一班指揮、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生。
橋梁保持、達成。
孤立小隊回収、達成。
補給線再接続、達成。
負傷者搬送、成功。
西棟実務小隊、損耗判定なし。
敵前哨制圧、未達。
限定牽制、実施。
備考。
当該候補生、命令意図の優先順位を正確に解釈。
副次目標を制限し、主目標三件を達成。
撤退線および搬送路を初動で確保。
第一班盤面、保存。
個別評価対象。
継続観察。
その紙は、通常の成績簿には綴じられなかった。
別の封筒に入れられた。
封筒の隅に、黒い区分線が引かれた。
その日から、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクの名は、成績簿ではなく観察欄に残る。




