第二記録 東棟と西棟
翌朝も雨は止まなかった。
帝立軍官学院の中庭には、夜のうちに落ちた水が薄く溜まっていた。石畳の継ぎ目を、黒い線のように水が走っている。
東棟と西棟の候補生は、同じ鐘で起床する。
だが、点呼は別だった。
第百十二期候補生は二百四十六名。
そのうち東棟所属は三十八名。
西棟所属は二百八名だった。
数だけを見れば、差は明白だった。
だが卒業後に許される高さは、その比率ほど平等ではない。
東棟では、候補生たちが白い回廊に整列していた。
制服の襟は整い、手袋の縫い目まで乱れがない。家名を持つ者たちは、まだ任官前でありながら、自分が立つ場所を疑わない顔をしていた。
西棟では、点呼の声が少しだけ大きかった。
平民候補生たちは、雨に濡れた靴を気にしながら列を作る。
彼らにとって学院は、家名を守る場所ではない。
家の外へ出るための、ほとんど唯一の道だった。
誰かが落ちれば、その席はすぐに詰められる。
西棟の廊下では、前日の入学式の話がまだ残っていた。
「昨日の総代、見たか」
「アイゼンベルク、と呼ばれていた」
「それは聞いた。何の家だ」
「戦場の英雄の家だろう。新聞で見たことがある」
「十四歳だという話だ」
「本当か」
「知らん。東棟の誰かが言っていた」
「噂だろ」
「でも、昨日のあれを見たらな」
短い沈黙が落ちた。
「十四には見えなかった」
誰かが小さく言った。
そこで、誰も続けられなくなった。
平民候補生たちは、アイゼンベルク家の名を知らないわけではない。
帝国の戦場で名を残してきた家。
国境作戦や北方戦線の記事で、ときおり見かける家名。
勲章授与式の新聞に載る、軍事貴族の名。
その程度は、彼らにも分かる。
だが、その家名が学院の中で何を意味するのかまでは知らなかった。
なぜ東棟の候補生たちが声を落とすのか。
なぜ教官が、あの候補生の名前を読む時だけ一拍置いたのか。
なぜ十四歳の候補生が、十七歳前後の候補生たちの前に立っていたのか。
知らないから、ざわつく。
候補生たちは窓の外を見た。
雨の向こう、東棟の回廊は静かだった。
同じ頃、東棟では、同じ名が違う温度で扱われていた。
「アイゼンベルク家長女だ」
「知っている」
「父に、距離を取れと言われた」
「私もだ」
「戦場の英雄の家だろう。何をそこまで」
短い沈黙が落ちた。
東棟の候補生たちは、平民候補生より多くを知っていた。
知っているからこそ、軽く扱わない。
あの家は、ただ戦場で名を上げた家ではない。
軍功が発言権になる家。
元帥府に届く家。
監察と距離を持つ家。
帝国が戦場で何かを失った時、その損耗欄に名が出る家。
そして、その長女が通常より早く学院へ入った。
それは名誉だけではない。
何かが、既に決まっているということだった。
東棟の奥で、扉が開いた。
会話は自然に止まった。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクが出てきた。
黒い候補生制服。
銀縁の高襟。
低く束ねた淡金の髪。
片側の細い編み込み。
白い手袋。
装飾はない。
彼女は誰にも視線を留めず、東棟の廊下を歩いた。
軍靴の音は、湿った石床に短く響く。
候補生たちは道を空けた。
命じられたわけではない。
ただ、空いた。
ヴィクトリアは、廊下の掲示板の前で止まった。
そこには、初日講義の割付が掲示されている。
貴族候補生。
第一講義室。上級指揮論基礎。帝国政治史。軍政概論。
平民候補生。
第三講義室。前線記録実務。補給基礎。小部隊規律。
合同。
大講堂。軍規講義。
午後。第一演習場。基礎戦術盤。
ヴィクトリアの名は、貴族候補生の欄にあった。
その下に、赤い小さな印が付いている。
候補生監督補佐。
別紙照会あり。
候補生の一人が、それを見て小さく息を飲んだ。
新入候補生が、初日から監督補佐。
しかも、赤印つき。
少し離れた位置にいた貴族候補生が、声を落とした。
「総代なら、東棟の代表格ということですか」
誰へ向けた問いだったのか、曖昧だった。
だが、ヴィクトリアは掲示板から視線を外さずに答えた。
「総代ではある」
候補生たちの背筋がわずかに伸びる。
「意味は違う」
雨音が、窓の外で細く続いていた。
「ただの配置だ」
それだけだった。
ヴィクトリアは掲示を一度見ただけで離れた。
誰も、続きを聞かなかった。




