第一記録 新入候補生総代
帝立軍官学院の朝は、雨で始まった。
帝都北区、軍学区画。
黒い鉄柵の向こうに、尖塔を持つ石造校舎が並んでいる。式典用の軍旗は雨を含み、白い壁灯は昼にもかかわらず消されていなかった。
候補生の生活棟は、二つに分かれている。
東棟。
貴族士官候補生のための棟。
西棟。
平民士官候補生のための棟。
同じ学院だった。
同じ軍服だった。
同じ軍規を暗唱し、同じ皇帝の名に敬礼する。
だが、教室は同じではない。
貴族候補生は、東棟側の講義室で上級指揮論、軍政、参謀課程、帝国政治史を学ぶ。
平民候補生は、西棟側の講義室で前線実務、補給記録、小部隊指揮、規律維持を叩き込まれる。
合同になるのは、式典、基礎試験、演習、軍規講義の一部。
そして、記録に残る時だけだった。
平民は、這い上がるために学院へ来る。
貴族は、既に与えられた席を守るために学院へ来る。
卒業後に許される高さは、入学時点でほとんど決まっていた。
東棟の玄関前には、雨に色を深めた赤い絨毯が敷かれていた。
古い家紋を持つ馬車が列を作り、従者たちは声を落として候補生の外套についた雨粒を払っている。
西棟では、候補生たちが自分で鞄を持っていた。
靴底についた泥を石段の端で落とし、濡れた襟を直しながら、まだ慣れない敬礼を互いに確認している。
その二つの棟の中央に、式典用の大講堂があった。
大講堂の中では、東棟と西棟の候補生が同じ軍旗を見上げる。
ただし、席順はすでに決まっていた。
ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルクは、東棟の入口で馬車を降りた。
十四歳だった。
周囲の新入候補生は、十七歳前後だった。
三年の差は、軍官学院では小さくない。
体格、声、歩幅、視線。どれも違う。
だが、彼女を子供として見る者はいなかった。
黒い候補生制服。
銀縁の高襟。
濡れた外套。
乱れのない手袋。
長い淡金の髪は低く束ねられている。
装飾はない。
彼女の背後で、馬車の扉が閉まった。
黒塗りの扉には、アイゼンベルク家の鷹紋が沈むように刻まれていた。
ヴィクトリアは振り返らない。
正門前の軍旗へ向き直り、右手を上げた。
敬礼。
速くも遅くもない。
角度も、指先も、視線も、規定通りだった。
東棟の玄関前にいた候補生たちの会話が、わずかに止まる。
アイゼンベルク家。
その名を知らない者はいない。
帝国軍事貴族の名門。
雷系術式の継承家系。
元帥府、中央軍、監察、前線。どこを開いても、その家名は記録に残っている。
そして今年、その長女が学院へ入る。
三年早く。
それだけなら、まだ噂で済んだ。
入学前試験の結果は、すでに学院内へ回覧されていた。
身体。
戦術。
法規。
術式基礎。
野外状況判断。
全区分、上限値。
採点欄に減点はない。
ただ、確認欄の余白に、採点官の筆跡だけが残っていた。
――年齢、再確認。
候補生たちは、それを声に出さなかった。
ヴィクトリアは前だけを見て歩いた。
視線を気にする様子はなかった。
軍靴が石畳を打つ。
雨水が、足元の溝へ流れていく。
東棟へ入る直前、学院長付副官が近づいた。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生」
「はい」
声は低かった。
十四歳のものにしては、余分な揺れがなかった。
「学院長室へ。入学式前に確認事項がある」
「承知しました」
短い返答だった。
付き添いの従者は、一歩下がる。
そこから先は、家の者では入れない。
学院の廊下は冷えていた。
壁には歴代卒業生の肖像画が並んでいる。
将官、参謀、監察官、戦死者。
帝国軍に名を残した者たちの目が、雨の朝にもかかわらず暗く光っていた。
その下を、十四歳の候補生が通る。
学院長室の扉の前には、二人の将校が立っていた。
一人は学院長。
もう一人は、帝国軍大将アレクシス・フォン・アイゼンベルク。
ヴィクトリアの父である。
だが、廊下に親子の空気はなかった。
ヴィクトリアは三歩手前で停止し、敬礼した。
「ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク候補生、出頭いたしました」
アレクシスは娘を見た。
父親の目ではない。
帝国軍大将の目だった。
「試験結果を確認した」
「はい」
「全区分、上限値だ」
「はい」
それだけだった。
褒められてもいない。
誇りもしない。
謙遜もしない。
ヴィクトリアは、結果を報告された候補生として立っていた。
学院長が、わずかに視線を落とす。
手元には封蝋を切られた入学書類があった。書類の端には、アイゼンベルク家の鷹紋が赤く残っている。
アレクシスは一拍置いた。
「本日、貴官は新入候補生総代として宣誓を行う」
「承知しております」
「加えて、入学後ただちに候補生監督補佐に任ずる」
学院長付副官が、記録板に一行を書き足した。
候補生監督補佐。
通常、新入候補生に与えられる役ではない。
候補生全体の規律補助。整列確認。演習時の統制補助。違反記録の一次確認。教官への報告。
指揮権ではない。
懲罰権でもない。
だが、対象は一年次候補生に限られない。
上級候補生を含む全候補生が監督対象となる。
名誉ではある。
だが同時に、候補生の中で最も教官に近い位置でもあった。
ヴィクトリアは一瞬も迷わなかった。
「拝命いたします」
アレクシスは頷いた。
「家名は考慮される」
「はい」
「保護ではない」
「承知しております」
返答は短い。
そこで終わった。
学院長は、何かを確認するようにヴィクトリアの顔を見た。
深い紺碧の瞳だった。
光を受けても、底までは見えない。
アレクシスは最後に言った。
「務めろ」
「はい、閣下」
お父様、とは呼ばなかった。
学院長室を出ると、廊下の向こうで数人の候補生が目を逸らした。
東棟の者も、西棟の者も混じっている。
彼らは、ヴィクトリアが何を命じられたのかまでは知らない。
だが、何かが決まったことだけは察していた。
候補生たちの視線は、敬意より先に距離を作った。
大講堂の鐘が鳴った。
入学式が始まる。
新入候補生二百四十六名が、列を組んで講堂へ入った。
前方右列には貴族候補生。
左列には平民候補生。
中央通路だけが、二つを同じ式典に収めていた。
同じ宣誓をするための列だった。
だが、同じ未来へ進むための列ではなかった。
ヴィクトリアは最前列中央に立った。
背後には、年上の候補生たちが並んでいる。
彼らの軍靴の音は、まだわずかに揃っていなかった。
上官席には、学院長、教官団、監察将校、軍医局の観察官、元帥府関係者が座っていた。
アレクシス・フォン・アイゼンベルク大将の姿もある。
拍手はなかった。
帝国軍の式典では、拍手は少ない。
候補生総代として名を呼ばれた時、講堂の空気が一段落ちた。
「新入候補生総代。ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク」
「はい」
ヴィクトリアは壇上へ進んだ。
その場で最も若かった。
だが、歩幅は乱れない。
壇上に上がる直前、彼女は一度だけ講堂全体を見た。
候補生。
教官。
上級将校。
記録官。
位置を確認する視線だった。
宣誓書が渡される。
彼女は両手で受け取った。
「宣誓」
声が、石造の講堂に通った。
「我ら帝立軍官学院第百十二期候補生は、帝国軍人たる誇りを持ち、軍規を守り、上官の命に従い、帝国の安寧と存続のため、身命を賭して職務を全うすることを誓います」
言葉は、正確だった。
震えも、力みもない。
そのせいで、かえって若さが見えなかった。
「新入候補生総代、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク」
署名。
宣誓書の末尾に、彼女の名が入る。
その瞬間、講堂後方の記録官が別紙へ何かを書き込んだ。
候補生名簿。
式典記録。
術式適性照会票。
監察観察対象一覧。
同じ名前が、いくつもの紙に残されていく。
ヴィクトリアは、それを知らない。
壇上から降りる時、雨音が強くなった。
講堂の壁灯が、かすかに揺れる。
候補生たちは、彼女を見ていた。
十四歳。
三年早い入学。
入学前試験、全区分上限値。
アイゼンベルク家長女。
新入候補生総代。
候補生監督補佐。
それだけで十分だった。
誰も、彼女に話しかけなかった。
式典後、学院長室には一枚の記録が残された。
帝立軍官学院、第百十二期入学記録。
新入候補生総代、ヴィクトリア・フォン・アイゼンベルク。
年齢、十四。
入学前評価、全区分上限値。
身体能力、上級候補生基準を超過。
軍事理解、実務課程相当。
所属区分、貴族士官候補生東棟。
追加配置、候補生監督補佐。
対象範囲、全候補生。
最後に、学院長の筆跡ではない一行があった。
備考。
当該候補生、術式適性および指揮適性について継続観察を要す。
その紙に、祝福の言葉はなかった。
ただ、記録だけが残った。




