三の鬼 討ち手との、噛み合わぬ夜
名のない鬼が、ほとんど消えかけていた頃のことだった。
一人の若い武者が、山に迷い込んできた。
近くの村で、鬼が出るという噂を聞きつけ、討伐の手柄を立てようと山に入ったらしい。腰に立派な刀を差し、鎧を身につけ、いかにも英雄になりたがっている若者だった。
鬼を一匹討ち取れば、村の英雄として語り継がれる。そう信じて、武者は山を分け入ってきた。
しかし、山の鬼たちは、すでにほとんど下山していた。討たれて永遠になるために、皆、人里へ向かってしまっていたのだ。
残っていたのは、薄れかけた名のない鬼、ただ一匹だった。
武者は、谷川のほとりで、名のない鬼を見つけた。
「鬼だな」
武者は刀を抜いた。
声が、わずかに震えていた。
鬼を見るのは初めてらしく、恐怖と興奮が入り混じった顔をしていた。
名のない鬼は、薄くなった身体で、ゆっくりと振り返った。すでに輪郭はぼやけ、向こうの景色が透けて見えるほどに薄くなっていた。
武者の目には、その鬼が、今にも消えそうな、頼りない化け物に映った。
「……斬るのか」
名のない鬼は、薄れた声で尋ねた。
「斬る。鬼を討てば、俺は英雄になれる。お前を斬って、村に持ち帰る。そうすれば、俺の名は語り継がれる」
武者は、刀を構えた。
その瞬間、名のない鬼は、奇妙なことに気づいた。
この武者は、自分が英雄になるために、鬼を斬ろうとしている。
そして自分は、討たれれば物語に固定されて、永遠になる。
互いの望みは、ここで噛み合うはずだった。
武者は英雄として語られ、鬼は鬼として語られる。
鬼社会の理屈で言えば、これは双方にとって幸福な取引のはずだった。
けれど、名のない鬼は、討たれたくなかった。
「やめておけ」
名のない鬼は、武者に言った。
「俺を斬っても、お前は英雄にはなれない。見ろ、俺はもう、ほとんど消えかけている。こんな薄い鬼を斬ったところで、誰も信じやしない。鬼を討ったという証にもならない。お前は、ただ、消えかけの何かを斬っただけになる」
武者は、刀を構えたまま、戸惑った。
言われてみれば、その鬼はあまりに頼りなかった。角は色を失い、身体は透け、声はかすれている。
これを斬って村に持ち帰っても、誰も鬼を討ったとは信じないかもしれない。むしろ、こんなものを鬼だと言い張る愚か者だと笑われるかもしれない。
「お前は……鬼のくせに、斬られるのが怖いのか」
武者は、訝しげに尋ねた。
鬼が命惜しさに命乞いをしているのだと、武者はそう受け取っていた。化け物でも、やはり斬られるのは恐ろしいものらしい——その程度の理解だった。
「怖いのとは、違う」
名のない鬼は、薄れた声で、ゆっくりと言った。
「俺は、お前に斬られて、お前の手柄話の中に出てくる鬼にされるのが、嫌なんだ。誰かの物語の中に、ずっと閉じ込められるのが」
武者には、その言葉の意味が分からなかった。
斬られれば、鬼は死ぬ。死んだ鬼が、物語の中に閉じ込められるとはどういうことか。化け物の言うことは、やはり化け物にしか分からぬ理屈なのだろう、と武者は思った。
村の年寄りからは、鬼は討たれれば祟る、化けて出る、とは聞かされていたが、目の前の鬼が言っているのは、それとも何か違うようだった。武者の知っている鬼の話の、どこにも当てはまらない言葉だった。
「……何を言っているのか、さっぱり分からん」
武者は、長い間、刀を構えたまま動かなかった。
目の前の鬼は、これまで聞いていた鬼とは、まるで違っていた。恐ろしくもなく、人を喰らおうともせず、命乞いとも違う、わけの分からないことを呟いて、ただ静かに、消えたいと願っている。そんな鬼を斬って、英雄になることに、武者は急に意味を見出せなくなった。
「……気味の悪い鬼だ」
やがて、武者はそう言って、刀を鞘に納めた。
「斬る気が、失せた。お前を斬っても、英雄になれる気がしない。勝手に消えろ」
武者は、踵を返して山を下りていった。
後に、その武者は、鬼を討ち損ねた腰抜けとして、村でしばらく笑い者になったという。
しかし、武者自身は、なぜか自分の選択を後悔していなかった。
あの薄れた鬼を斬らなかったことだけは、間違っていなかったような気がする——そう思いながら、武者は普通の村人として、普通に生き、普通に老いて死んだ。英雄にはならなかったが、それでよかったのだと、最後まで思っていた。
あの鬼が何を言っていたのかは、生涯、ついに分からないままだった。
谷川のほとりに残された名のない鬼は、武者の背中を見送りながら、薄くなった口元を、わずかに緩めた。
討たれずに済んだ。
これで、自分は誰の物語にもならずに、消えていける。




