二の鬼 薄れゆく身体と、責める仲間
季節が巡るたびに、名のない鬼の身体は薄くなっていった。
最初に薄れたのは、指の先だった。次に、角の先端の色が抜けた。声は、以前ほど通らなくなり、仲間に話しかけても、聞き返されることが増えた。
鬼の身体が薄れていく過程は緩やかで、痛みはない。ただ、世界との間に薄い膜が一枚ずつ重なっていくような、静かな隔たりだけが増していった。
山の鬼たちは、薄れていく名のない鬼を、奇異の目で見るようになった。
討たれたがらない鬼というだけでも変わり者だったのに、その変わり者が実際に薄れ始めたのである。
鬼たちにとって、薄れることは恥であり、恐怖だった。立派に討たれることもできず、ただ消えていく鬼の姿は、彼らが最も見たくないものだった。
「なぜ討たれない」
鬼たちは、顔を合わせるたびに名のない鬼を責めた。
「まだ間に合う。今ならまだ、その角に少しは色が残っている。早く下りて、討たれて来い。そんなに薄れてしまう前に、せめて間抜けな鬼でもいいから、物語に残れ。消えてしまうくらいなら、笑われる役でもいいだろう」
「俺は、笑われる役にもなりたくない」
名のない鬼は、薄くなった声で答えた。
「役になりたくないんだ。濃い鬼にも、薄い鬼にも、強い鬼にも、間抜けな鬼にも。俺は、何者にもなりたくない。ただ、消えるなら消えるで、それでいい」
「そんな鬼は、聞いたことがない」
鬼たちは、吐き捨てるように言った。
その言葉は正しかった。
鬼の長い歴史の中で、討たれることを拒んで自ら薄れていった鬼など、一匹もいなかった。すべての鬼は、討たれて永遠になることを望んだ。
それが鬼という種族の、生まれ持った願いだったからだ。
名のない鬼は、その願いを持たない、ただ一匹の異物だった。
ある夜、山の長老の鬼が、名のない鬼を訪ねてきた。
長老は、すでに数百年を生きた濃い鬼だった。
若い頃に一度、人間に深手を負わされて物語の端に名を残し、その語りによって薄れずに生き続けていた。
鬼社会で最も尊敬される、賢い鬼だった。
「お前の考えは、間違っている」
長老は、静かに言った。
「鬼は、討たれて初めて鬼になる。語られて初めて存在する。それが、我らの理だ。お前は、その理から外れようとしている。だが、理から外れた鬼に待っているのは、ただの消滅だ。意味も、名も、何も残らない。お前がどれほど立派な考えを持っていようと、消えてしまえば、その考えごと無に還る。誰にも知られず、誰にも語られず、お前がいたという証さえ残らない」
「それで、いいんです」
名のない鬼は答えた。
「証が残らないことが、俺の望みです。酒呑童子は、千年も酒を飲んで首を斬られ続けている。あれは、酒呑童子という役を演じ続けているだけで、酒呑童子自身は、もうとっくにいないんじゃないですか。物語に固定されるとは、本当の自分が死んで、役だけが残ることなんじゃないですか」
長老は、長い間、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……そう考えたことが、ないわけではない」
名のない鬼は、驚いて長老を見た。
「わしも、若い頃に一度だけ、そう思ったことがある。討たれて物語になるくらいなら、消えた方がましだと。だが、わしには、お前のような勇気がなかった。消えるのが、ただ恐ろしかった。だから討たれ、名を得て、こうして生き延びている。生き延びてはいるが、わしはもう、わし自身がどんな鬼だったか、よく覚えていない。物語の中の役を演じているうちに、本当のわしは、薄れてしまったのかもしれん。お前とは、逆の薄れ方だ」
長老の声には、薄れていく名のない鬼とは違う種類の、深い疲れがあった。
「お前は、わしにはできなかったことをしようとしている。それを、間違いだと責める資格は、わしにはない。だが、ひとつだけ言っておく。お前が消えれば、お前という鬼がいたことは、誰の記憶にも残らない。お前の考えも、お前の願いも、すべて消える。それでも、お前は消えることを選ぶのか」
「はい」
名のない鬼は、迷わずに答えた。
長老は、それ以上は何も言わず、静かに山を下りていった。
その背中は、数百年を生きた濃い鬼のものでありながら、どこか、薄れていく名のない鬼と同じ寂しさを纏っていた。
その夜、名のない鬼は、自分の身体がまた一段、薄くなったことに気づいた。
手のひらの向こうに、月が透けて見えた。




