終の鬼 消えた鬼と、これを書く者
名のない鬼が完全に消えたのは、その年の冬の初めだった。
最後の数日、鬼はもう、ほとんど何も見えず、何も聞こえなくなっていた。
世界との間に重なった膜が、限界まで厚くなり、自分の身体がどこからどこまでなのかも、分からなくなっていた。それでも、苦しみはなかった。むしろ、長く背負ってきた重いものを、ようやく下ろせるような、静かな安らぎがあった。
鬼は、谷川のほとりの、かつて幼馴染と魚を捕った岩のそばで、最後の時を過ごした。
他の鬼たちは、もう誰も山にいなかった。
皆、討たれて物語の中へ旅立っていた。酒呑童子のように、茨木童子のように、桃太郎の鬼たちのように、それぞれの物語の中で、永遠の役を演じ続けている。
山に残ったのは、討たれることを拒んだ、この名のない鬼ただ一匹だった。
消える間際、鬼は、ふと考えた。
自分が消えれば、自分という鬼がいたことは、誰の記憶にも残らない。
長老が言った通りだ。名も、考えも、願いも、すべて無に還る。
自分は、何者にもならずに、ひとつの役にも縛られずに、完全に自由なまま消えていく。それは、鬼が生まれて初めて手に入れた、本当の自由だった。
誰にも語られないということ。
それが、この鬼の、たったひとつの望みだった。
そして、その望みは、叶った。
名のない鬼は、冬の初めの朝、谷川のほとりで、空気に溶けるように消えた。
最後の輪郭がほどけ、最後の色が抜け、声にならない声が風に紛れて、それきり、何も残らなかった。
岩のそばには、鬼がいた痕跡など、何ひとつなかった。
鬼は、誰にも知られず、誰にも討たれず、ひとつの役にもならずに、完全に消えた。
その死を、看取った者はいない。
その存在を、覚えている者もいない。
鬼が望んだ通り、名のない鬼は、この世界のどこにも、痕跡を残さなかった。
——だが。
ここに、一人だけ、その鬼を見ていた者がいる。
誰でもない、これを書いている者だ。
わたしは、その鬼が山を下りずに薄れていく様を、最初から最後まで見ていた。
幼馴染を見送る背中を見た。
仲間に責められても揺らがない姿を見た。
長老と交わした言葉を聞いた。
討ち手の武者を追い返す薄れた声を聞いた。
そして、谷川のほとりで、空気に溶けるように消えていく、その最後の瞬間を見届けた。
その鬼は、誰にも語られたくなかった。
物語になりたくなかった。
名を残したくなかった。
だから、これを書くことは、あの鬼の望みに背くことだ。
あの鬼が望んだ唯一のことを、わたしは今、台無しにしようとしている。
それでも、わたしは、これを書く。
なぜなら、あの鬼が確かに存在したということを、たった一度でいいから、書き残しておきたかったからだ。
討たれて永遠になることを拒み、薄れて消えることを選んだ鬼が、この世界に一匹だけいた。その鬼は、酒呑童子のように語り継がれることもなく、茨木童子のように逸話を残すこともなく、桃太郎の鬼たちのように寝物語になることもなく、ただ、静かに消えた。
あの鬼の望みを叶えてやるなら、わたしは何も書かずに、この記憶ごと薄れていくべきなのだろう。
だが、わたしには、それができなかった。
あの鬼が、好きだったのだ。
ひとつの役に縛られることを拒み、永遠よりも自由を選んだ、あの名のない鬼が。
だから、これは、あの鬼への、わたしのささやかな裏切りであり、同時に、これ以上ないほどの愛だ。
あの鬼は、これを読んだら、きっと薄れた声で「余計なことを」と言うだろう。それでも構わない。
名のない鬼が、確かにいた。
討たれることを拒んで、消えていった鬼が、確かにいた。
これが、最初で最後の、その鬼の記録である。




