第三話 図書委員長のなくした鍵
月島すず先輩を初めて見たのは、図書室の返却カウンターだった。
五年生になってすぐの四月、しおりが本を返しに行ったとき、カウンターの中に六年生の女の子がいた。背が高くて、髪を一本にまとめていて、返却された本の背表紙を確認しながら素早く棚へ戻していた。無駄な動きがなかった。本の扱い方が、丁寧だった。
その子がしおりの本を受け取るとき、一度だけ表紙を見て、「これ、好きな人多いよ」と言った。それだけだった。
でも、しおりはその一言をずっと覚えていた。
図書委員長の月島すず先輩。しおりの中では、憧れの人、というより、なりたい形、に近い何かだった。本の場所を全部知っていて、静かで、でもちゃんと言葉を持っている人。
その先輩が、鍵をなくした。
事件が分かったのは、水曜日の昼休みだった。
しおりとひなたがひみつ図書室へ向かおうとしていると、ろうかの先で月島先輩が立っているのが見えた。学校の図書室のとなりにある倉庫の前で、取っ手を引いたり、周りを確認したりしている。
ひなたが「あの人、何してるんだろ」と言って、足を速めた。
「ひなたちゃん、待って」
「だって気になる」
しおりは仕方なくついていった。
近づくと、月島先輩がこちらを見た。少し驚いたような顔をして、すぐに表情を整えた。
「図書室?」
「はい。先輩は、倉庫ですか?」
ひなたが聞いた。
「……鍵を、探していて」
先輩はそう言って、また取っ手に目を戻した。
「倉庫の鍵がなくなったんです。自分の管理ミスだと思うので、自分で探しています」
声は落ち着いていた。でも、しおりはその言葉の中に、何かがあるような気がした。
自分の管理ミスだと思う。
「思う」という言葉が、少し引っかかった。確信があるなら「思う」とは言わない。何か、別のことを考えながら言っている気がした。
「お手伝いしましょうか」
ひなたが言った。
「大丈夫です。自分でやります」
きっぱりしていた。でも、「ありがとう」は言わなかった。先輩がそういう人ではないとしおりは思った。ただ、今は余裕がないのかもしれない。
ひみつ図書室でページに話すと、金色の房がしばらく静かに揺れていた。
「月島先輩の鍵がなくなったみたいで」
『知っておる』
「知ってたんですか」
『図書室のことは、だいたい分かる』
「じゃあ鍵どこにあるか知ってる?」
ひなたが聞いた。
『それを教えては意味がない』
「またそれ言う」
『わしの役目はヒントじゃ。答えではない』
ひなたは「ちぇっ」と言った。
ページの房がぴんと立った。叱るときの形だ、としおりは最近分かってきた。
「先輩、なんか無理してる感じがした。鍵をなくしたのに、一人でやるって言い張ってて」
しおりは伝えた。
『そうじゃな』
「なぜだと思いますか?」
『それを考えるのが、読書係の仕事じゃ』
ページはそう書いて、一冊の本を棚から押し出した。
しおりはテーブルに落ちた本を開いた。詩ではなく、小説だった。古い表紙の本で、中の活字が少し薄い。ページが開いたのは、ちょうど真ん中あたりだった。
大切なものをなくすとき、人はたいてい別のものも見失っている。
しおりは、その一文を二度読んだ。
「別のものも、見失っている」
『そういうことじゃ』
ひなたはテーブルの下をのぞき込みながら聞いた。
「鍵だけじゃないってこと?」
ページは何も書かなかった。金色の房だけが、ゆっくり揺れた。
翌日の昼休み、ひなたが教室に飛び込んできた。
「しおり、大変。黒瀬がかぎつけた」
しおりは顔を上げた。
「黒瀬くんが?」
「図書室の倉庫のこと、記事にしようとしてる。さっきろうかで、六年生に話聞いてた」
黒瀬れんは、となりのクラスの男子だ。学校新聞係で、何かあるとすぐ取材に来る。少し硬そうな黒い髪で、いつも小さなメモ帳を持っている。目つきは悪くないのに、じっと見られると、何かを調べられているような気持ちになる。頭がよくて、いつも証拠を求める。しおりはまだあまり話したことがないけれど、ひなたとはなぜかよく顔を合わせていた。向こうはひなたのことを「天崎」と呼ぶ。
「先輩が困る前に、わたしたちが探した方がいいかも」
「だよね。どこ探す?」
しおりは考えた。ページの言葉が頭の中にある。大切なものをなくすとき、人はたいてい別のものも見失っている。鍵をなくす、というのは、どういうときだろう。うっかり落とす。どこかに置き忘れる。でも「別のものも見失っている」とするなら、鍵をなくしたその瞬間、先輩は何かほかのことを考えていたのかもしれない。
「先輩が、最後に倉庫を開けたのはいつかを先に調べたい」
「どうやって?」
「図書室の当番記録があるはずだから、それを見せてもらえないか先輩に頼んでみる」
「先輩、教えてくれるかな。一人でやるって言ってたじゃん」
「……聞き方によっては、教えてくれるかも」
図書室へ行くと、月島先輩はカウンターで本の整理をしていた。昨日より少し顔が疲れて見えた。
しおりは一人でカウンターに近づいた。ひなたには少し離れて待っていてもらった。
「先輩」
「……森沢さん」
先輩はしおりの名前を知っていた。図書委員長だから、下の学年の図書委員の名前は把握しているのかもしれない。
「昨日の鍵の件で、少し手伝わせてもらえませんか」
先輩は手を止めた。
「自分でやると言いました」
「はい。でも、当番記録を見るのは、委員のわたしにもできますよね」
先輩は少しの間、しおりを見た。しおりは目をそらさなかった。先輩の目は、きれいな色をしていると思った。茶色がかった色で、何かを測るように動いていた。
「……記録は棚にあります。見ても構いません」
「ありがとうございます」
当番記録のノートを見ると、倉庫を最後に開けたのは三日前の放課後だと分かった。月島先輩の名前が書いてあった。
「三日前か。何してたんだろ、そのとき倉庫で」
「卒業文集の準備かも」
しおりがそう言ったのは、記録ノートの余白に、小さく「文集BOX確認」と書き添えてあったからだ。先輩の字だった。丁寧で、でも少し急いだような筆跡だった。
「卒業文集の箱、倉庫にあるのかな」
「六年生だから、もうそういう時期だよね」
しおりはその「文集BOX確認」という言葉を見つめた。
ページの言葉が、また頭の中で動いた。
大切なものをなくすとき、人はたいてい別のものも見失っている。
鍵をなくしたとき、先輩は卒業文集の箱を確認していた。卒業文集、ということは、まだ先の卒業のことを、少し考えてしまったのかもしれない。
卒業は今すぐではない。でも、文集の準備が始まると、図書室から離れる日のことが、急に本当のことみたいに思えたのかもしれなかった。
しおりはそこまで考えて、もう少し先を考えた。
先輩が卒業を、どう思っているのか。それは、まだ分からない。
「倉庫、もう一度調べてみたい」
「鍵がなくて入れないじゃん」
「先輩に頼んでみる」
月島先輩は、最初「必要ない」と言った。でもしおりが「卒業文集の箱の近くを見ていないかもしれない」と言うと、先輩は少し止まった。
「なぜそう思うの?」
「記録に、文集BOX確認と書いてあったから。鍵をなくしたのが、そのとき近くだったとしたら、箱の周りにあるかもしれないと思って」
先輩はしおりの顔をまた見た。さっきより、少し長く。
「……いっしょに来なさい」
先輩は職員室へ行って、スペアキーを借りてきた。
倉庫の中は、本の箱と、古い備品と、委員会の記録が積まれていた。奥の方に、段ボールが並んでいる一角があって、そこに「六年卒業文集」と書かれた箱があった。
月島先輩はその箱の前で、少し立ち止まった。
しおりは、先輩の背中を見ていた。
ひなたはもう棚の下を覗いたり、段ボールのすきまを懐中電灯で照らしたりしていた。
「先輩」
しおりは小さな声で呼んだ。
「箱の中も見てみませんか」
「中は、関係ない」
「でも、もしかしたら……箱を確認しているときに、中に落ちたかもしれないから」
先輩はしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと箱を開けた。
中には、紙の束と、ファイルと、写真が何枚かあった。六年生みんなの顔が映っている写真が、束になっていた。
そして、その束の脇に、小さな金属の光があった。
鍵だった。
「あった」
ひなたが声を上げた。先輩はその鍵を取り上げて、しばらく見ていた。
何も言わなかった。
しおりも何も言わなかった。でも、先輩が箱を開けるときに一瞬動きを止めたこと、写真の束を見たときの目の動き、それだけで、しおりにはなんとなく分かった。
鍵は、倉庫の鍵だ。先輩が毎日開けて、毎日閉めてきた。図書室の倉庫の鍵。来年からは、先輩のものではなくなる。
そのことを、先輩は分かっていた。分かっていながら、文集の箱を確認するときに、少しだけ手が震えたのかもしれない。そのすきに、鍵が箱の中に落ちた。
大切なものをなくすとき、人はたいてい別のものも見失っている。
先輩は鍵をなくしたとき、卒業のことを考えていた。図書室から離れることを、考えていた。
「よかった、見つかって」
ひなたが明るく言った。
「……ありがとう」
先輩の声が、いつもより少し低かった。
倉庫を出て、先輩はスペアキーを返しに職員室へ行くと言った。
ひなたはトイレに寄ると言ってその場を離れた。
しおりと先輩が、ろうかに二人になった。
先輩は歩き出す前に、しおりを振り返った。
「森沢さん」
「はい」
「なくなったのが文集の箱の近くだと、どうして思ったの?」
しおりは少し考えた。正直に言うべきかどうか。でも、先輩は正直な人だと思う。回りくどいことは好まないかもしれない。
「……先輩が、卒業文集を見て、卒業のことを考えたのかなって。それで、図書室のことが心配になったのかなと思ったから」
先輩は何も言わなかった。
「心配というか、その……いつかここを離れることが、急に本当のことみたいに思えたのかな、と」
ろうかが静かだった。遠くで、だれかが走る音がした。
先輩はまっすぐ前を向いて、少しの間そのままでいた。
それから、ゆっくりと言った。
「……図書室が好きなんです。ずっと、ここにいたかった」
しおりは何も言わなかった。言わなくていいと思ったから。
「でも、卒業するから」
それだけだった。先輩はそれ以上言わなかった。
「はい」
しおりがそう言うと、先輩は少し笑った。いつもの整った顔と同じだったけれど、少しだけ、力が抜けていた。
「森沢さん、あなたはきっと、いい図書委員になれると思う」
「ありがとうございます」
声が出るか心配だったけれど、ちゃんと出た。
その日の放課後、ひみつ図書室で、しおりはページに話した。
「見つかりました、鍵」
『知っておる』
「先輩、ちゃんと話してくれました」
『そうか』
「先輩も、怖いんですね。卒業することが」
『完ぺきに見える者ほど、人に見せない怖さを持つ。それが分かったか、読書係』
「……少しだけ」
しおりは本棚を見た。背表紙が並んでいる。古い本も、新しい本も、ぜんぶ静かにそこにある。
月島先輩は、来年ここを離れる。でも今日、ろうかで少しだけ弱さを話してくれた。しおりに向かって。
完ぺきじゃなくていいのかもしれない、と思った。完ぺきな先輩に憧れていたけれど、完ぺきじゃないところを見たら、もっと近くに感じた。
それが不思議で、少し温かかった。
「わたし、先輩みたいになりたいって思ってたけど」
『今は?』
「……先輩は先輩で、わたしはわたしのままで、少しずつなれるものになっていけばいいかな、って」
ページの金色の房が、ゆっくり揺れた。
文字は何も出なかった。でも、それでよかった。
窓の外で、風が木の葉を揺らしていた。図書室の光が、だいだい色に傾いていた。




