第二話 消えた作文と、消えない言葉
クラスで作文を書くことになったのは、その翌週の月曜日だった。
朝の会で、朝比奈先生が黒板に「将来の夢」と書いた。
「五年生の今、みんなにどんな夢があるか、作文にしてみましょう。字数は四百字詰め原稿用紙一枚以上。提出は今週の木曜日までです」
教室がざわっと動いた。
「夢かあ。まだぜんぜん決まってないや」
しおりの前の席の男子がつぶやいた。
小野寺さんは「あたしは決まってるけど」と言って、得意そうな顔をした。いつも白いリボンで髪を結んでいる。背すじがぴんとしていて、話すときも声がよく通る。自信があるように見える子だった。
しおりは窓の外を見た。将来の夢。自分の夢が何かを考えようとすると、霧の中に手を伸ばすみたいな気持ちになる。本に関わる仕事がしたい、とは思っている。でも、それを四百字で書けるかどうかは分からない。
となりの席のこはるちゃんは、うつむいたままだった。小柄で、やわらかそうな髪を肩のあたりで切りそろえている。いつもノートのすみに小さな絵を描いていて、人と話すときは、相手の顔より先に手元を見ることが多い。
鉛筆を持って、消して、また持って。そわそわと、手元だけ動かしていた。
木曜日の昼休み、しおりが図書室に向かおうとすると、ひなたがろうかで待っていた。
「しおり、ちょうどよかった」
「どうしたの?」
「こはるちゃんの作文、見た?」
しおりは少し考えた。今朝、先生が各自で提出箱に入れるように言っていた。木曜日が締め切りだから、今日中に出すことになっている。でも、しおりはこはるちゃんが提出するところを見ていなかった。
「見てない」
「あたしも。でも、こはるちゃん、なんか変なんだよね。ずっとそわそわしてて、朝から顔が青い感じで」
しおりは思い出した。今朝のこはるちゃんの様子。鉛筆を持ったり置いたり。うつむいたまま、あまり顔を上げなかったこと。
「作文、出せたのかな」
「そこなんだよ。教室の提出箱、さっきちらっと見たら、こはるちゃんの名前がなかった気がして」
ひなたはそう言って、少しだけ顔をしかめた。
「別に、出し忘れただけかもしれないけど」
しおりは自分のランドセルを持ち直した。
「……こはるちゃんに聞いてみる?」
「聞けるなら聞きたいけど、あたしたち、こはるちゃんとそんなに仲良くないじゃん。変に聞いたら、びっくりさせちゃうかも」
それはそうだった。こはるちゃんはしおりのとなりの席で、おとなしくていつも静かだ。話すのは短い言葉だけで、しおり自身も、授業中に消しゴムを貸し合ったくらいの距離しかない。
しおりはしばらく考えた。
「……様子を見てみる。急がなくていいと思う」
「うん。でも、気になるよね」
ひなたはそう言って、うんうんと一人でうなずいた。
放課後、しおりはひみつ図書室へ行った。
ひなたはその日、帰りに歯医者があると言っていたので一人だった。引き戸をそっと開けると、だいだい色のカーテンが光を滲ませていて、部屋の中はいつもと同じに静かだった。
本棚の前に、ページがいた。金色の房を揺らして、古い本の背表紙をじっと見ている。
「こんにちは、ページ」
『読書係、来たか』
しおりはイスに座った。
「一つ、聞いてもいいですか」
『許可など求めなくてよい。どうせ聞くじゃろ』
「……クラスメイトが、作文を出せていないかもしれなくて」
しおりは今日気になったことを話した。こはるちゃんの様子、提出箱に名前がなかったこと、ひなたの話。
ページは途中で遮らずに聞いていた。文字は何も浮かばなかったけれど、金色の房がときどき静かに揺れた。
しおりが話し終えると、ページは本棚に向かってするりと移動した。
一冊の本が、ゆっくりと引き出される。テーブルの上に落ちて、ページがそれを開いた。
しおりはイスから立って、覗き込んだ。
なくしたものは、見つけてほしいとは限らない。
一行だけ、そこにあった。
しおりは、その言葉をゆっくり読み返した。
「……なくしたものは、見つけてほしいとは限らない」
なくした、というのは、こはるちゃんの作文のことだろうか。でも「見つけてほしいとは限らない」というのは、どういう意味だろう。
落とし物は、たいてい見つけてほしいものだ。でも、ページの言葉はいつも少しずれていて、そのずれに大事なことが入っている気がする。
しおりは考えながら、イスに戻った。
翌日の朝、しおりはいつもより少し早く教室に着いた。
昨日が作文の締め切りだったから、提出箱はもう教卓の横にはなかった。
こはるちゃんはすでに席にいた。机の上に教科書を出して、下を向いている。
しおりは自分の席に座って、そっと横を見た。
「こはるちゃん、おはよう」
「……おはよう、しおりちゃん」
声が小さかった。いつもより、もう少し小さかった。
「作文、昨日書けた?」
こはるちゃんの手が、ぴたっと止まった。
「……うん、書いた」
「提出できた?」
「……うん」
しおりは、その「うん」のあとに、一瞬だけ間があったのに気づいた。
ほんの少し、でも確かにあった。
本を読んでいると、ときどきそういう間がある。会話の中の「うん」のあとの沈黙。そこにだいたい、本当のことが入っている。
しおりは「そっか、よかった」と言って、自分の教科書を出した。
こはるちゃんは何も言わなかった。
昼休み、ひなたが提出箱を確認してきた。
「やっぱり、こはるちゃんの名前ない」
しおりはうなずいた。
「さっきも変だったよ。提出できたって言ってたけど、なんか……違う気がした」
「なくしたか、出し忘れたかだよね」
「そうじゃないかも」
ひなたが首をかしげた。
「え?」
「ページが昨日、こう言ってた。なくしたものは、見つけてほしいとは限らない、って」
ひなたはしばらく考えて、「うーん」と言った。
「どういうこと? なくしてないってこと?」
「……出せなかったんじゃなくて、出したくなかったのかも」
言いながら、しおり自身もまだ確信がなかった。でも、こはるちゃんの「うん」の前にあった間のことを思うと、そっちの方が近い気がした。
「じゃあ、なんで? 先生に出さなかったら、怒られるじゃん」
「うん……そこが分からなくて」
ひなたは少しの間黙って、それから「とりあえず、聞いてみようよ」と言った。
「直接?」
「あたしが聞く。話しかけるのは得意だから」
しおりは少し心配した。こはるちゃんは慎重で、あまり人に踏み込まれるのが得意じゃない気がする。急に聞かれたら、むしろ閉じてしまうかもしれない。
「…………まず、いっしょに図書室に来てもらえないかって聞いてみて」
「図書室?」
「うん。急にいろいろ聞くより、いっしょにいる時間を作った方がいいかもって」
ひなたはちょっと考えて、「たしかに」と言った。
「しおりって、そういうの考えるの上手いね」
「……そんなことないけど」
「あるって。じゃあ聞いてみる」
放課後、こはるちゃんはひなたに誘われて、少し迷いながらもひみつ図書室へついてきた。
引き戸の中を見た瞬間、こはるちゃんは目を丸くした。
「こんな部屋、あったんだね」
「でしょ! すごくない?」
ひなたが得意そうに言った。
こはるちゃんは本棚に近づいて、背表紙を一つ一つ丁寧に見た。絵を描く子が物を見るときの目をしている、としおりは思った。ゆっくり、じっくり、見ている。
ページは棚の端でおとなしくしていた。今日は文字を出さなかった。こはるちゃんが知らないうちはそっとしている、ということかもしれない。
しばらくして、こはるちゃんがぽつりと言った。
「作文、出してないんだ」
ひなたとしおりは顔を見合わせた。
「出してないっていうか……書いたんだけど、出せなくて」
こはるちゃんは本棚から目を離さないまま、続けた。
「将来の夢、書いたんだよ。絵本作家になりたいって」
しおりは、だまって聞いていた。
こはるちゃんはランドセルのふたを開けた。
中から作文用紙の端が少し見えたけれど、すぐには取り出さなかった。
「絵本、ずっと好きで。自分でも描いてみてて……でも、そんなの書いたら、笑われるかなって思って」
「笑わないよ」
ひなたがすぐに言った。
「ひなたちゃんは笑わないかもしれないけど」
こはるちゃんは少し口ごもった。
「クラスで読まれたりしたら……小野寺さんとか、なんか言いそうで」
しおりは思い出した。
先週の休み時間に、小野寺さんが「絵描きって食べていけるの? って親に言われた」と笑いながら話していた。悪気のない言葉だったかもしれない。でも、そういう言葉が耳に残ってしまう子がいる。
「それで、書いたけど破ろうとして、でも破れなくて、ランドセルの中に入れてある」
こはるちゃんはそう言って、少し恥ずかしそうにした。
しおりはどう答えようか考えた。「大丈夫だよ」と言うのは簡単だ。「笑う人なんていないよ」も言える。でも、それは本当のことかどうか分からない。もしかしたら、笑う人がいるかもしれない。こはるちゃんもそれを知っているから、怖いのだと思う。
しおりは本棚を見た。
ページが、ある本を押し出した。
本がテーブルに落ちる。こはるちゃんが「あっ」と声を上げて、ひなたが「ページだ」と小声で言った。
しおりは本に近づいた。開いたページに、一行あった。
書いた言葉は、書いた人のものだ。読む人のものではない。
しおりはその一文を読んで、少し息を吸った。
「こはるちゃん」
「……うん」
「作文を書いたのは、こはるちゃんだよ。読む人が笑うかどうかより、こはるちゃんが書いたことの方が大事だと思う」
こはるちゃんは下を向いた。
「でも、怖いんだよ。笑われるの」
「うん、怖いよね」
しおりはそう言った。分かる、と思ったから。人前で何かを言うのが怖い気持ちは、しおり自身もずっと持っている。
「でも、書いた言葉を消しちゃうと、こはるちゃんが絵本作家になりたいって思ったこと、どこにも残らなくなる。それって、なんかもったいない気がして」
こはるちゃんは顔を上げなかった。でも、さっきより少し、肩が下がった。
ひなたが横から言った。
「ていうか、こはるちゃんの絵、見たことある。すごくうまいよ。絵本作家、普通に合ってると思う」
「え……ひなたちゃん、見たことあるの」
「図工の時間のやつ。あの魚の絵、めちゃくちゃきれいだったじゃん」
こはるちゃんは少しの間黙って、それから「ありがとう」と小さな声で言った。
週明け月曜日、こはるちゃんは作文を提出した。
しおりはそれを見ていた。提出箱にそっと入れる手が、少し震えていた。でも、入れた後に、ほんの少し口元が動いた。
その日の帰り、ろうかで小野寺さんとすれ違ったとき、小野寺さんが言った。
「あ、そういえばさ、こはるちゃんの作文、絵本作家って書いてあった。あたし、ちょっとびっくりしたけど、こはるちゃんなら合ってるかもって思って」
こはるちゃんが「……そう?」と答えた。
「うん。絵うまいし。あたし、絵全然だから」
それだけだった。怖れていた笑い声はなかった。でも、しおりは小野寺さんを少し見直した。この人は悪くない。ただ、言葉と気持ちの間に少しすきまがある人なのかもしれない。
放課後、朝比奈先生がしおりをろうかで呼び止めた。
「森沢さん、少しいい?」
しおりは立ち止まった。
「こはるちゃんが、今日の作文提出のあとに、少し話してくれてね、背中を押してくれた人がいたって」
「…………」
「名前は言ってなかったけど、森沢さんかなって思って」
しおりは何も言えなかった。
朝比奈先生は少し笑って、言った。
「森沢さんは、言葉の奥をよく見ているね」
しおりは、自分がうまく返事をできないまま、「……ありがとうございます」とだけ言った。
朝比奈先生は「またね」と言って職員室へ戻った。
しおりはその場に少し立ったままでいた。
言葉の奥をよく見ている。
今まで、本ばかり読んでいる自分のことを、ただそれだけの子だと思っていた。読むだけで、何もできない子だと思っていた。でも今は、こはるちゃんの「うん」の前にあった間に気づいて、ページの言葉を読んで、こはるちゃんに何かを届けられたかもしれない。
それは、本を読んできたからかもしれない。
しおりはそのことを、まだうまく言葉にできなかった。でも、胸の中に、小さくて温かいものが残った。
ろうかの窓から、夕方の光が長く伸びていた。




