表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰が焔を終わらせたか  作者: 桐谷 灯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

第8話 甘い匂い

 アルは、あの年嵩としかさの男の馬に乗せられていた。


 馬が歩き出すと、視界が揺れる。

 地面を歩くよりも少し高い位置。

 それだけで世界が違って見えた。


 背後から声がかかる。


「……ああいう方なのだ」


 低く、穏やかな声。


 アルはすぐには反応しなかった。

 誰に向けられた言葉なのか、判断が遅れた。


「?」


 短く喉から音が漏れる。


 年嵩の男は渋い顔をしながら続ける。


破天荒はてんこうでな」


 一拍、間が空く。


「常識では止まらない。

 だが、常識では届かない場所へも行ける」


 それ以上は言わなかった。


 言葉の続きを、あえて口にしないような沈黙だった。


 森が近づいてくる。


 木々の影が重なり、風の流れが変わる。


 馬の歩調がわずかに落ちた。


「……すまないな」


 突然、男はそう言った。


 アルは目を瞬いた。


「家族を埋葬まいそうしてすぐだというのに、

 無理やり森を案内させることになった」


 謝罪だった。

 形式ではない、本心からの言葉だった。


 アルはしばらく黙っていた。


 何を言えばいいのか分からない。

 何かを言う資格が自分に残っているのかも分からない。


「……いえ」


 声は小さい。


「赤い飴を……」


 一瞬、言葉に詰まる。


「ミアに、渡せたので」


 それだけだった。


 それ以上、言葉は続かなかった。


 男はすぐには返事をしなかった。


 馬のひづめの音だけが、一定の間隔で響く。


 やがて男は静かに名を告げた。


「ガウェイン・パルマだ」


 簡潔な自己紹介。


「閣下が生まれた頃からお仕えしている」


 それは、誇示ではない。

 事実の提示だった。


「……長い付き合いだ」


 ガウェインは前を見たまま言った。


 森の入り口が、すぐそこまで迫っていた。


 木々の影が重なり、空気がひんやりと変わる。


 この先にあるものを、誰もはっきりとは口にしなかった。


 森に入った瞬間、空気はさらに重くなった。


 冷たい、というほどではない。

 だが、肌にまとわりつくような重さがある。


 光が落ちない。

 枝葉が重なり、空は細切れにしか見えなかった。

 風は吹いているはずなのに、葉擦れの音はほとんどしない。


 不気味だった。


 一歩踏み入れただけで、ここが普通の森ではないと分かる。


 だが――


 アルにとっては、いつも通りだった。


 足元は柔らかく湿っている。

 踏み外せば沈む場所もある。

 木の根が露出し、岩は苔に覆われている。


 道らしい道はない。


 アルの案内で、一団は無言で進んだ。


 馬の歩みが自然と遅くなる。


 兵たちは黙っていた。


 ヴァルの手前、露骨な不満を口にする者はいない。


 だが、無言でも伝わってくる。

 苛立ち。

 不安。

 そして、疑念。


 ――本当にこの道でいいのか。


 視線が、何度もアルの背中に刺さる。


 ガウェインだけは穏やかだった。

 馬上から周囲を注意深く見回し、手綱を乱さない。


 焦りも、不満も、口にはしない。

 ただ、いつでも動けるようにしていた。


 鳥の声も、虫の音もない。

 聞こえるのは、馬の息と鎧が擦れる微かな音だけ。


 その沈黙を――


「――魔物だ!」


 誰かの叫びが切り裂いた。


 一瞬で空気が弾ける。


 兵たちが反射的に武器を構える。

 隊列がわずかに乱れた。


 森の奥。

 影が重なるその向こうで――


 何かが動いた。


「――モルティス・ベアーだ!」


 その名が出た瞬間、兵たちの顔色が変わった。


「まずい……」

「あれは、まずいぞ……」


 ざわめきが、一段低い恐怖に変わる。


 ただの魔物ではない。

 この森を知る者ほど、その名の意味を理解していた。


 森の奥から、それは現れた。


 熊――

 だが、知っている熊とは、決定的に違う。


 体躯は常人の倍近く。

 肩の盛り上がりは異様で、首はほとんど見えない。

 毛皮は黒ずみ、ところどころが湿って光っている。


 そして、鼻。


 顔の中央にあるはずのそれは歪んでいた。

 潰れ、裂け、肉が露出している。

 呼吸のたびに、ずぶ、と濡れた音がする。


 鼻孔は左右非対称だった。

 一方は裂けて垂れ下がり、もう一方は無理やり広げられた穴のように開いている。


 その奥が、赤く光る。


 それは鼻を鳴らし、嗅いでいた。


 血。

 汗。

 恐怖。


 生きているものすべてを。


 重い一歩。


 地面が沈む。


 二歩目で、低い唸り声が漏れた。

 喉の奥から搾り出されるような、湿った音。


 誰も動けなかった。


「……閣下を守れ!」


 怒号が飛ぶ。


「命に代えてでもだ!」


 兵たちが、即座に動いた。


 前列が盾を構える。

 後列が槍を下げる。

 弓兵が、手の震えを抑えながら弦を張る。


 誰もが分かっていた。


 生き残れる保証はない。

 これは決死の布陣だ。


 己が生き延びるためではない。

 ――主を守るための。


 兵たちの背中に、はっきりと死の影が落ちていた。


 緊張が張り詰めきったまま止まっていた。


 誰も先に動けない。


 盾を構えた兵の腕は強張り、

 槍先はわずかに揺れている。


 モルティス・ベアーが一歩、前に出ようとした――

 その瞬間だった。


 アルが無表情のまま手を上げた。


 声も合図もなく、ごく自然に。

 ただ、投げた。


 小さな球体が弧を描いて宙を舞う。

 地面に落ちた瞬間、乾いた音がした。


 ――ぱん。


 割れた。


 次の瞬間、甘い匂いが爆ぜるように広がった。


 花の香りだ。

 だが、嗅ぎ慣れたそれとは違う。


 最初に来るのは、蜜のような甘さ。

 舌の奥が、条件反射で唾を飲み込もうとする。


 次に遅れて――


 鼻の奥を刺す、生臭さ。


 腐りかけの果実と、

 湿った土と、

 血の残り香を無理やり混ぜたような匂い。


 甘いのに、不快だ。


 呼吸をするたび、肺の内側にまで絡みつく。


 兵の何人かが、思わず顔を歪めた。


「……っ」


 吐き気を堪える音。


 モルティス・ベアーが、ぴたりと動きを止めた。


 歪んだ鼻孔が、ひくりと引きつる。


「――グゥッ」


 低い唸り声。


 巨体が、後ずさる。


 もう一度、鼻を鳴らす。

 今度は、苦しげに。


 そして。


 森を裂くような音を立てて、モルティス・ベアーは方向転換した。


 逃げた。


 枝を薙ぎ倒し、地面を抉り、

 振り返ることもなく森の奥へ消えていく。


 しばらく、音だけが残った。


 やがて、それも遠のく。


 ――静寂。


 一団は、誰一人として動けなかった。


 槍を下ろす者も、

 盾を緩める者もいない。


 ただ、呆然としている。


「……な」


 誰かが、ようやく声を出した。


「……逃げた?」


 その空気の中で、

 アルだけが何事もなかったように口を開いた。


「……匂い玉です」


 淡々とした声。


 視線は森の奥を向いたまま。


「この森に生えている

 墓香花ぼこうかを潰して、乾かして、固めたものです」


 聞き慣れない名だった。


「甘い匂いと、死肉に似た匂いがする花で……

 モルティス・ベアーは、これを嫌います」


 事実を並べているだけだった。

 誇りも、得意げな様子もない。


 ガウェインが目を見開いた。


「……そんな弱点が……」


 思わず言葉が漏れる。


「聞いたことがない」


 困惑と、驚愕が混じった声。


 アルは少しだけ首を傾げた。


「……普通です。そういうものだと父に教わりましたから」


 それだけだった。


 一団の中に、ざわめきとは違う別の波が広がっていく。


 静寂の中で、足音が一つ鳴った。


 ヴァルだった。


 まだ消えきらない匂いの中を、馬上で手綱を軽く引き、

 盾の列を割って馬を進める。


 そして――


 にやり、と笑った。


 さきほどまでの緊張が嘘のような軽い表情。


「よくやった」


 短い称賛だった。


「正直、派手な戦闘になるかと思ったが……」


 肩をすくめる。


「ちと拍子抜けだな」


 そう言ってから、周囲の兵たちを一瞥する。


 誰も欠けていない。

 血も、悲鳴もない。


「だが」


 視線が戻る。


「兵に被害が出ないなら――それが一番いい」


 軽い口調だった。

 だが、その目は笑っていなかった。


 誰が残り、誰が失われるか。

 それを数えている目だった。


 アルはヴァルの横顔を見る。


 先ほどまでの軽薄さと、今の冷静な言葉。

 どちらが本当なのか分からない。


 笑みの奥に何があるのかも掴めなかった。


 アルの行動で、周囲の空気がわずかに変わった。


 疑念ぎねんの混じっていた視線が、少しずつ形を変えていく。


 警戒から、観察へ。

 疑いから、評価へ。


 ――使える。

 ――役に立つ。


 そんな視線だ。


 アルはそれを感じていたが、特に何も思わなかった。


 ただ、投げたものが効いた。

 それだけの結果だった。


 ヴァルは満足そうに一度だけ頷く。


「いい案内人を拾った」


 独り言のようにそう言った。


 その言葉は、森の奥へと向かう道をさらに一段、深くしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ