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誰が焔を終わらせたか  作者: 桐谷 灯


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第6話 空っぽ

 ……遠くで声がしていた。


 意味を成さない音。

 重なって、離れて、また戻ってくる。


 意識は深いところに沈んでいる。

 身体の感覚がない。

 寒さも、痛みも、重さもない。


 ただ、焦げた木の匂いだけが残っていた。


 暗闇の奥で何かが軋む。

 誰かの手が身体に触れ引きずられている気がした。

 それでも目は開かない。


「――おい」


 低い声。


 怒鳴ってはいない。

 だが、はっきりと届く。


「まだ生きているか」


 その言葉で何かが引き上げられた。


 瞼が、重く開く。


 最初に見えたのは空だった。

 灰色に近い雲がゆっくりと流れている。


 その下に、影がいくつも重なっていた。


 人影だ。


 鎧。

 槍。

 剣。


 町で見たものと同じようで、どこか違う。


 反射で身体を動かそうとして、動かないことに気づく。

 全身が鉛のように重い。


「起きたか」


 視界の端に、一人の男が立っていた。


 他の兵と同じ鎧姿だが、佇まいが違う。

 武器を構えていない。

 それなのに、場を支配しているのはその男だった。


 男はアルの視線を受け止めたまま、動かない。

 近づいてこない。

 覗き込まない。

 ただ、そこに立っている。


 周囲では別の兵たちが思い思いに動いていた。

 焦げた梁をどかす者。

 崩れた板を蹴り分ける者。

 血の付いた槍を布で拭う者。

 小声で何かを言い合い、短く笑う者もいる。


「運が良かったな」

「まだ息してるぞ、こいつ」

「ちっこいが、しぶといな」


 軽口だった。

 嘲るでも、慰めるでもない。

 ただの作業中の声だ。


 アルは視線を動かした。


 ミアは。


 どこだ。


 瓦礫。

 焦げた木材。

 踏み荒らされた土。

 見慣れた小屋の残骸。


 その中に小さな姿を探すが見つからない。


「妹を……妹を助けてください!」


 声は思ったより大きく出た。

 喉が裂けるような感覚が遅れてくる。


 身体はまだ動かない。

 それでも言葉だけが先に飛び出した。


 男は、即座に答えた。


「それは無理だ」


 短い。

 考える間もない返答だった。


「え……?」


 頭が理解を拒んだ。


「な、なぜ……?」


 理由を探そうとする。

 聞き返せば、覆る気がした。

 どうにかして、ミアだけでも助けてもらわないと。


 男は答えなかった。


 アルの視線が、行き場を失って揺れる。


 そのときだった。


 視界の端に、違和感が入った。


 すぐ横。

 地面の上に、布を被せられた小さな塊がある。


 息が止まった。


 胸が締めつけられ、空気が入らない。

 肺が動き方を忘れたようだった。


 指先がかすかに動く。

 動かそうとした覚えはない。

 勝手に、そう反応した。


「……っ」


 声が、喉の奥で潰れる。


 頭の中で必死に言い訳を探す。

 布を被せる理由。

 小さい理由。

 偶然の理由。


 一つも、うまく繋がらない。


 伸ばした手が途中で止まる。

 触れたくない。

 見たくない。


 それでも、指だけが先へ進もうとする。


 早くしろ、と。

 見ろ、と。


 布の端に指が触れる。


 そっと、持ち上げる。


 布がずれた。


 そこにあったのは――


 ミアだった。


 目を閉じている。

 眠っているように、静かだ。


 だが。


 胸が動かない。


 呼吸がない。


 心臓が一瞬だけ止まり、

 次の瞬間、壊れたように暴れ出す。


「……あ……」


 音にならない声。


 否定が、遅れて湧き上がる。


 違う。

 違う。

 こんなはずがない。


 視界が歪む。


「――――っ!!」


 叫びだった。


 喉が裂け、肺が焼ける。

 息を吸うことも、吐くこともできない。


 名前を呼ぼうとして、声にならない。


 触れようとして、手が止まる。


 時間が引き延ばされる。


 世界が壊れた。


 ミアは動かない。

 どんな音にも応えない。


 それでも、アルの叫びは止まらなかった。


 誰も止めなかった。

 誰も声をかけなかった。


 ただ、心臓の音だけが、

 無意味に鳴り続けていた。


 思い出したように、アルは口を開いた。


 叫び疲れた喉から出た声は、ひどく平坦だった。

 自分の声だと分かるまで、一瞬かかった。


「……父と、母は」


 言い方を探す余裕はない。

 確認でも、期待でもない。

 ただ、抜け落ちていた項目を埋めるような問いだった。


「どこに……いるんですか……生きて、いますか……」


 男は答えなかった。


 代わりに、少し離れた位置にいた兵が口を開いた。

 特別な配慮はない。

 報告するだけの声だった。


「少し行った先の家で、住人らしき男女の死体が二つ見つかった」


 それだけだった。


 名前は分からない。

 顔も、年齢も、分からない。


 住人らしき。


 その言葉だけが、耳の奥に残った。


 アルはしばらく黙っていた。


 理解しようとしたわけではない。

 ただ、何も考えられなかった。


「……そうですか」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 誰かが小さく呟いた。


「……一人だけ残るってのは、きついな」


 その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥で跳ねた。


 違う。

 そんな言葉で終わらせるな。


 そう叫びたかった。


 だが、声は出なかった。


 独り言のような声だった。

 同情とも、距離を取るための言葉ともつかない。


 アルはその言葉を聞いた。


 聞こえた。

 ただ、それだけだった。


 胸に刺さりもしない。

 怒りも湧かない。


 何も、心が動かなかった。


 さっきまで確かにあったはずのものが、すっと遠のいていく。


 悲しみも。

 怒りも。

 絶望も。


 すべてが等しく消えていく。


 アルはその場に座り込んだ。


 泣かなかった。

 叫ばなかった。

 地面に拳を叩きつけることもしなかった。


 ただ、力が抜けた。


 視線が定まらない。

 音が少し遅れて届く。


 それでも世界は続いている。


 兵たちは動く。

 風は吹く。

 雲は流れる。


 何一つ、変わっていない。


 変わったのは、アルだけだった。


 中身を失った器のように、そこに座っている。


 何も感じない。

 何も考えない。


 抜け殻だった。


「おい」


 低い声が落ちた。


 アルはすぐには反応しなかった。

 呼ばれたという感覚が、遅れて届く。


 視線を上げるとあの男が立っていた。


 一団の中では一回りも二回りも若く見える。

 それなのに場の中心はその男だった。


 男の視線が崩れた倉庫の奥へ向いた。


 そこには首を不自然に曲げた男の死体がある。


 男は何も言わなかった。

 ただ、アルへ視線を戻す。


「お前、あの森に詳しいか」


 問いは唐突だった。

 文脈が完全に切れている。


 アルは少し間を置いた。


 考えたわけではない。

 思い出したわけでもない。

 ただ、知っている事実がそのまま出てきた。


「……詳しいです」


 声に抑揚はない。


「狩りで……よく森に行きます」


 男はその答えを聞いて口の端をわずかに上げた。


 ニヤリ、というほど大きくはない。

 だが、確かに笑った。


「そうか」


 短い一言。


「森を突っ切って行きたい」


 男は続ける。


「案内しろ」


 命令だった。

 拒否を想定していない言い方だった。


 アルは何も返さなかった。


 頷きもしない。

 首を振りもしない。


 返事という行為そのものが、どこか遠い場所の出来事のようだった。


 男はそれを気にしない。


 ゆっくりと片手を上げる。


 その動きだけで、周囲の兵たちが反応した。

 私語が止まり、視線が集まる。


「少し休む」


 短い命令。


 兵たちは疑問を挟まない。

 各々が動きを止め、腰を下ろし始める。


 男は、もう一度だけアルを見た。


 感情は読めない。

 だが、視線は逸らさない。


「……誰か」


 男は静かに言った。


「穴を掘ってやれ」


 命令は、それだけだった。


 兵の一人が無言で頷き、道具を取りに向かう。

 土の匂いが、風に乗って流れてくる。


 アルはそれを見ていた。


 何も思わなかった。

 何も感じなかった。


 ただ、地面が掘られていくのを、ぼんやりと眺めていた。

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