第5話 指
アルは驚くほど冷静だった。
男の立ち位置。
重心。
踏み込みに使う足。
全部が、よく見える。
「……死ねや」
淡々とした宣告。
次の瞬間、男の足が動いた。
剣が振り上げられる。
殺すための軌道。
迷いはない。
アルは半歩だけ後ろへ下がった。
男の剣が空を切る。
重い音。
振り抜いた勢いが、そのまま男の体を前へ運ぶ。
アルは横へ滑った。
最小限。
風を切る刃の軌道から、肩一つ分だけ外れる。
男の眉が、わずかに動いた。
「……チッ」
短い舌打ち。
剣が引き戻される。
次は速い。無駄のない連撃。
一、二、三。
斜め。
横薙ぎ。
突き。
アルは下がらない。
下がる代わりに詰める。
刃が来る瞬間、男の懐へ踏み込む。
剣の柄元。
力が死ぬ位置。
拳が出る。
狙いは顔ではない。
剣を握る前腕。
鈍い衝撃。
骨に当たる感触。
「ぐっ……!」
男の剣先が、わずかにぶれる。
その一瞬で、アルは離れる。
深追いしない。
一撃だけ。
男は距離を取り直し、歯を剥いた。
「……クソガキ」
剣を構え直す。
今度は慎重だ。
男の呼吸が荒くなっている。
鎧の内側で、肩が上下する。
「調子に乗るなよ……!」
踏み込み。
今度は力任せだった。
剣が、頭上から叩き落とされる。
アルは避けない。
落ちてくる刃の内側へ入る。
剣の腹を、掌で押し流す。
同時に、肩をぶつけた。
体重を乗せる。
真正面から。
男の体勢が崩れた。
「な――!」
その声が出る前に。
膝。
腿の外側。
硬い音。
男の支えが抜ける。
剣が地面に触れ、跳ねた。
アルは、その隙を見逃さない。
足を払う。
低く、鋭く。
男は倒れなかった。
だが、一歩、大きく後ろへ下がる。
「……っ」
焦りが、はっきりと浮かぶ。
「ちょろちょろと……!」
剣を振り回す。
軌道が荒れる。
アルは、もう危険域に入らない。
来る刃だけを見て、必要な分だけ動く。
一撃、かわす。
二撃、流す。
三撃、柄元を叩き落とす。
乾いた音が響く。
男の呼吸が、完全に乱れた。
「おかしい……!」
声に、苛立ちが混じる。
「さっきまで、動けなかったくせに……!」
アルは答えない。
言葉は必要ない。
男の踵が、壁に触れた。
それ以上、下がれない。
「クソ……!」
男が歯を剥いた。
「調子に乗りやがって……!」
剣を頭上に振りかぶる。
今までとは違う。
あまりの大振りに隙だらけだった。
だが、嫌な予感が走る。
アルは反射で大きく下がった。
次の瞬間。
剣が叩き落とされた。
轟音。
地面が沈んだ。
土と砂利が弾け、空気が爆ぜる。
衝撃が、遅れて襲ってきた。
アルの身体が後ろへ吹き飛ばされる。
受け身を取る。
背中から転がり、数歩分、地面を滑る。
止まった瞬間、息が詰まった。
――重い。
ただの剣撃じゃない。
アルが顔を上げると、男の剣がぼんやりと赤く光っていた。
刃の表面を、熱が這っている。
空気が、じり、と歪む。
「……チッ」
男は肩で息をしながら、剣を構え直した。
「ガキが……」
吐き捨てる。
「剣だけで遊んでやるつもりだったが」
赤い光が強まる。
「ムカついた」
男は剣を地面に突き立てた。
刃にまとわりついていた熱が、腕へ移る。
片手を離し、もう一方の手を前に突き出す。
その仕草を見た瞬間、アルは理解した。
――来る。
男の口が動く。
低く、粘ついた声。
「《焔よ》」
空気が張り詰める。
「《怒りを喰らい、形を成せ》」
赤い光が、男の周囲に集まる。
熱。
焦げた匂い。
倉庫の壁が、きしみ始める。
「《敵を焼き尽くせ》」
詠唱は大きい。
誰が見ても分かる。
逃げるための時間は、十分にある。
――だが。
アルは逃げなかった。
男の腕。
肩の角度。
力の流れ。
全部が見える。
「《炎槍》!!」
男の掌で、炎が凝縮される。
槍の形を成した火が、唸りを上げる。
放たれる。
一直線。
アルの胸を貫く軌道。
アルは一歩、踏み込んだ。
炎が来る、その瞬間。
男の手首を、下から跳ね上げる。
掌底。
最小限の動き。
だが、確実だった。
炎の軌道が逸れる。
上へ。
天井へ。
「――あ?」
男の声が、間抜けに漏れた。
次の瞬間。
炎が、倉庫の梁に直撃した。
轟音。
乾いた破裂音と同時に、木材が燃え上がる。
「な……っ!?」
男の視線が、遅れて上を追う。
「……は?」
理解が、完全に止まった声だった。
アルは、もう懐にいた。
距離は、腕一本分もない。
男が反射的に身を守ろうと手を伸ばす。
だが、遅い。
アルの左手が、男の顎に掛かる。
右手が、後頭部を掴んだ。
力を入れる場所は、最初から決まっている。
――逃がさない。
男の目が見開かれる。
「な……にを――」
言葉の途中で、声が歪んだ。
アルは捻った。
一気にではない。
逃げ道を潰すように、段階的に。
首が、不自然な角度へ引き倒される。
「ぐ……ッ」
喉が鳴る。
悲鳴にならない音。
男の身体が反射で暴れる。
肘が当たり、鎧が擦れる。
だが、アルの腕は動かない。
どこに力を入れればいいのか分かってしまう。
どこまで曲げれば戻れないのかも。
最後に、もう一度。
――限界を越える。
短い、乾いた音。
何かが内部で噛み合わなくなる感触。
男の力が一気に抜けた。
「……ぁ……」
声にならない息が漏れる。
目が合う。
男の瞳が必死に焦点を結ぼうとしていた。
理解しようとしている。
自分が死にかけていることを。
だが遅い。
アルは離さなかった。
そのまま、捻り切る。
完全に。
抵抗が消えた。
男の膝が落ちる。
剣が地面に転がった。
音はそれだけだった。
もう、動かない。
呼吸もない。
ただの物体になったそれを、数秒だけ確認する。
それから手を離した。
男の身体は力を失ったまま崩れた。
鈍い音すら立てず、ただ落ちる。
アルはそれ以上見なかった。
興味がないわけではない。
確認は済んだ。
それだけだ。
その瞬間、音が戻った。
火が梁を舐める音。
割れた板が軋む音。
そして、小さな息。
アルは小屋の奥を見た。
ミアがそこにいた。
倒れたままミアは足を押さえていた。
小さな身体がかすかに震えている。
アルは数歩で距離を詰めた。
膝をつく。
視線が自然と傷へ向かう。
右足。
刃が入った位置。
血は多い。
だが、息はある。
意識もある。
生きている。
その事実だけを静かに受け取った。
「……兄様」
声は弱い。
だが、こちらを見ている。
「……もうこれで本当に大丈夫だ」
短い言葉。
慰めでも、約束でもない。
そうでなければならないという報告だった。
アルはミアの身体にそっと手を伸ばす。
慎重に触れる。
布を探す。
見当たらない。
アルは迷わず自分の服の裾を掴んだ。
力を込めて裂く。
布が裂ける音がやけに大きく響いた。
それを丸め、ミアの脚に押し当てる。
「少し、きついぞ」
そう言いながら、強く縛る。
血が滲む。
それでも押さえないよりはいい。
ミアが小さく息を吸った。
「……痛い」
「我慢してくれ」
短い言葉だった。
それ以上、何も言えなかった。
痛い、と言える。
まだ声が出る。
それだけを頼りに手を動かした。
アルはミアの顔を見た。
涙で濡れている。
頬の傷は浅いが赤く腫れていた。
それでも、生きている。
胸の奥にようやく重さが戻ってきた。
冷えていた感覚がじわじわと解けていく。
ミアは弱く頷いた。
歯を食いしばり泣き声を堪えている。
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
それを見て、アルはようやく肩の力を抜いた。
――助かった。
そう思った瞬間。
ぎ、と。
頭上で嫌な音がした。
木が軋む。
アルは反射で顔を上げる。
天井の梁が歪んでいた。
火に舐められた木材が黒く焦げ、そこへ戦いの衝撃が遅れて響いている。
もう、保たない。
そう思った時には天井が悲鳴を上げていた。
乾いた木の軋みが耳を刺す。
次の瞬間、視界の上で梁がずれ、砕けた板が落ちてくるのが見えた。
考えるより早く、アルは身体を投げ出していた。
ミアを抱き寄せ、覆い被さる。
衝撃。
背中に凄まじい重さが叩きつけられた。
息が押し潰され、肺から空気が抜ける。
音も、光も、遠のく。
暗闇が、すべてを覆った。




