第4話 赤い線
男は舌打ちを一つしてから、剣先をわずかに動かした。
ほんの掠りだった。
深くもない。
致命傷でもない。
だが、ミアの頬に細い赤い線が走った。
一拍遅れて、血が滲む。
「……あ」
短い声が漏れた。
驚いたような、痛みに気づいたような、そんな曖昧な音だった。
男はそれを見て、眉をひそめる。
不満そうに、剣を引いた。
「おっと」
軽い声だった。
「腹立って、ついな」
剣先についた血を眺め、面倒そうに続ける。
「まあ、この程度だ。すぐ治るだろ」
その言葉は、謝罪でも言い訳でもなかった。
どうでもいいことを、どうでもいいまま口にしただけだった。
ミアが、びくりと肩を震わせる。
地面に投げ出されたまま、動けずにいる。
「やめろ……!」
アルの喉から声が絞り出された。
叫びにはならない。
ただ、必死に押し出した音だった。
男は、ちらりとアルを見ただけだった。
「うるせぇな」
興味なさそうに言い捨てる。
「あまりイラつかせるなよ。耳障りだ」
男は一歩踏み出し、ミアを無理やり抱え上げた。
剣を突きつける。
「なぁ」
声が低くなる。
「こいつを殺してほしくなかったらよ」
剣先が、ミアの喉元へ寄る。
「金目のもんがある場所に案内しろ」
命令だった。
交渉ではない。
アルの思考が、一瞬止まる。
「……ない」
声が震えた。
「そんなものは、ない」
男はすぐには反応しなかった。
聞き取れなかったように、数拍置く。
それから、鼻で笑った。
「は?」
短い。
馬鹿にする音だった。
「あるに決まってるだろ」
剣を持つ手に力が入る。
「俺たちが命張ってる間に、隠してんだろ。
金でも、食い物でも、何かしらな」
アルは首を振る。
「本当に……ないんだ」
声が掠れる。
「ここには何もない。
だから……ミアを、その子を離してくれ」
願いだった。
取引ですらない。
男の表情が、少しだけ歪んだ。
「……あぁ?」
苛立ちが、はっきりと滲む。
「だから、何かあるはずだっつってんだろ」
一歩、詰めてくる。
「考えろよ」
声が荒くなった。
「金。装飾品。保存食。
使えそうなら情報でもいい」
吐き捨てるように言う。
「何か、あるだろ」
アルは何も言えなかった。
ないものは、ない。
それだけだった。
だが男は、それを沈黙とは受け取らなかった。
嘘。
拒絶。
反抗。
どれでも同じだった。
男は舌打ちを一つして、ミアを抱え直した。
雑だった。
抱えるというより、引っ掛けている。
「……なぁ」
低い声。
「無い無いってよ、よく言えるよな」
剣先が、わずかに動く。
ミアの喉元に、冷たい金属が触れた。
ミアが、息を詰めた。
「兄様……」
小さな声。
助けを求めるというより、確認するような音だった。
アルの胸が、ぎしりと鳴った。
「やめてくれ……」
声が掠れる。
男は、間抜けなものを見るような目をした。
「無いなら、お前に価値はないんだぞ」
その言葉が、遅れて胸に刺さる。
「考えろ。
思い出せ。
隠してるはずだ」
アルは歯を噛み締めた。
頭の中を、必死に探る。
畑。
家。
倉庫。
道具。
干し肉。
塩。
布。
どれも、金目になるほどのものじゃない。
「……ない」
絞り出すような声だった。
「頼む……ミアを、離してくれ」
懇願だった。
男は、一瞬だけ黙った。
その沈黙が、逆に怖かった。
「……チッ」
剣先が、わずかに揺れる。
「気に入らねぇ」
低く、はっきりと言った。
「その目だ」
アルは、無意識に視線を上げていた。
睨んだつもりはない。
だが、逸らすこともできなかった。
男の口元が歪む。
「なんだよ、その目」
一歩、踏み出す。
「ムカつくって顔だな?」
アルは答えなかった。
答えられなかった。
胸の奥で、確かに何かが燃えている。
だが、それを外に出すことができない。
ミアの身体が震えている。
守らなければならない。
それだけが、アルを縛っていた。
男は、それを見抜いた。
「……もういいや」
納得したように、笑う。
その声は、驚くほど軽かった。
男は、もう躊躇しなかった。
剣が振り下ろされる。
狙いは正確だった。
ミアの右足。
刃が、肉に入った。
一瞬、音が遅れた。
湿った音。
次に、骨へ触れる硬い音。
「――――っ!!」
ミアの悲鳴が破裂した。
甲高く、喉が裂けるような声。
それは痛いという言葉にすらならない、ただの絶叫だった。
剣は止まらなかった。
男はそのまま刃を押し込む。
そして、捻った。
「ほら」
楽しげな声。
「動くなよ。余計に切れる」
刃が肉の中を抉る。
ぐり、と嫌な音がして、血が一気に溢れ出した。
ミアの身体が跳ねる。
足が痙攣し、地面を叩く。
「兄様!! 兄様ぁぁぁぁ!!」
泣き叫ぶ声。
助けを求める声。
アルの視界が揺れた。
音が遠のく。
目の前で起きている出来事が、現実ではないように感じられた。
――これは、夢だ。
そう思った。
町での出来事も。
血の感触も。
全部、悪い夢だ。
だが。
ミアの血が、土に落ちる。
赤い。
濃く、温かい。
その色を見た瞬間。
何かが、途切れた。
怒りではなかった。
憎悪でもなかった。
胸の奥で燃えていたはずのものが、音もなく消えた。
代わりに。
――静かだ。
頭の中が、驚くほど静かだった。
呼吸が整う。
視界が澄む。
男の姿が、はっきり見える。
男は剣を引き抜いたまま、ミアを放った。
投げる、というほど力は込めていない。
だが、扱いは物と同じだった。
小さな身体が宙を描き、倉庫の中へ転がり込む。
板にぶつかる鈍い音が一つして、動きが止まった。
アルはそれを見た。
見ただけだった。
ミアの位置。
血の量。
倒れた向き。
すべて視界には入っている。
だが、意識はそこへ向かわない。
目の前の男だけが、やけにはっきりと残っていた。
男は満足そうに口角を上げた。
「さて」
剣先を下げたまま、一歩前に出る。
「そろそろ暇つぶしも終わりにしようや」




