第3話 帰路
町を離れると音が減った。
怒号も悲鳴も、背後に置き去りになる。
代わりに残るのは自分の足音と荒い呼吸だけだった。
森へ続く道は変わっていなかった。
踏み固められた土。見慣れた木の根。
朝、通ったばかりの道だ。
アルは走る。
速さは一定ではない。つまずき、立て直し、また走る。
袋が背中で揺れ、肩に食い込むたび現実が戻ってくる。
火の匂いがまだ追ってくる。
風向きのせいだと思いたかった。
森に入ると空気が冷えた。
木々が音を吸い、世界が一段落ち着く。
町で起きたことが遠い夢のように薄れていった。
――夢だったのかもしれない。
その考えを手の傷が否定する。
父の背中。
母の声。
ミアの顔。
順に浮かび、順に消える。
足が速くなる。
とにかく早く、あの退屈な日常に戻りたかった。
ただ、それだけだった。
枝を払い、獣道を外れ、近道を選ぶ。
何度も使った道だ。身体が覚えている。
息が切れる。
喉が痛い。
それでも止まらない。
森の向こうが、わずかに明るい。
畑の方角だ。
アルはそこで、初めて立ち止まりかけた。
風が違う。
乾いた匂いに、焦げたものが混じっている。
遠くで木が弾けるような音がした。
聞き慣れたはずの森の音ではない。
アルは再び走り出した。
何もない。
気のせいだ。
そう思いたかった。
畑が見えた。
柵は倒れていない。
畝も崩れていない。
朝とほとんど変わらない。
――よかった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
家が暗い。
焼け落ちているわけではない。
屋根も壁も、そこにある。
それなのに、いつもの家に見えなかった。
窓が光を返していない。
炉の煙も上がっていない。
人の気配がない。
アルは歩きに切り替えた。
走るのをやめたわけではない。
足が勝手にそうした。
力が抜けたように歩みを進める。
近づくにつれ、匂いが濃くなる。
焦げた木。
油。
そして血。
町で嗅いだものと同じだ。
扉が開いている。
閉め忘れるはずがない。
母は必ず閉める。
父も、ミアも。
アルは名を呼ぼうとしてやめた。
声が出なかった。
床に足跡がある。
泥と赤黒い染み。
家族のものではないと願った。
奥から、音がした。
低い声。
短い命令。
金属が触れ合う音。
アルは身体を壁に寄せた。
息を殺す。
鼓動がやけに大きい。
庭に回り込むと、音の正体が見えた。
父がいた。
剣を握り、母たちの前に立っている。
動きは速くない。
それでも退かない。
父の剣は、斬るためのものではなかった。
押し返すため。
そこから先へ行かせないためのものだった。
その横で母が両手を広げていた。
淡い光が走る。
火ではない。
熱でもない。
土が盛り上がり石が転がる。
倒れた道具が跳ね、兵の足を止める。
足止めにはなる。
だが、それだけだ。
「うっとうしい魔法だな」
兵の一人が吐き捨てる。
止めるだけ。
傷つけるには足りない。
押し返すには弱すぎる。
「……っ」
母の顔に焦りが浮かぶ。
アルは駆け出そうとした。
父の背中が見える。
剣の軌道も、兵の間合いも、分かる。
――行ける。
そう思った瞬間、指が震えた。
血の感触が蘇る。
柔らかい抵抗。
骨の音。
刃が抜ける感触。
足が止まった。
息が詰まる。
視界が狭くなる。
動けない。
父がこちらを見た。
一瞬だった。
だが、視線は確かに合った。
父の目が見開かれる。
次に、強く細められた。
「――ミアを連れて、逃げろ!」
叫びだった。
父の剣が無理に踏み込む。
防御を捨てた一撃だった。
母が叫ぶ。
「アル!」
その声でミアがこちらを向いた。
母の腕にしがみつき、不安そうにアルを見る。
「子どもがいるぞ」
驚きはない。
確認するだけの声だった。
別の兵が言った。
「構うな。先に大人だ」
アルの胸が裂ける。
戦いたい。
一緒に立ちたい。
ここで終わらせたくない。
だが、身体が言うことを聞かない。
足が前に出ない。
振りかぶろうとした拳が、ぎこちなく止まる。
アルは歯を食いしばった。
母がミアの背を押した。
行け、と声にしないまま。
アルは駆け出し、ミアの手を掴む。
「――来るぞ!」
父の声が背中に飛ぶ。
アルはミアを抱え、庭を駆けた。
振り返らない。
振り返れない。
背後で魔法が弾け、金属音が重なる。
その音が、家そのものを切り裂いているように聞こえた。
門も柵も越えた。
足元の土が変わる。
踏み慣れた地面ではない。
背後で金属音が一度、強く鳴った。
それきり聞こえなくなる。
遠ざかったのではない。
聞こうとする余裕がなくなった。
走る。
畑を横切り、何も植えられていない空き地を抜ける。
足を取られ、体勢を崩し、それでも止まらない。
ミアの重みが腕に残る。
痺れ、肩が軋む。
だが、確かに温度がある。
「……兄様」
小さな声。
「大丈夫だ」
口が勝手に動いた。
意味は考えなかった。
振り返らない。
家の方向を見ない。
見てしまえば、戻れなくなる。
風が変わる。
森が近い。
だが、森へは入らなかった。
木の根も、斜面も、獣道も知っている。
だからこそ分かる。ミアを抱えたまま逃げるには危険すぎる。
アルは視界の端にある建物に気づいた。
倉庫だ。
家から少し離れた場所。
普段は使わない。道具を放り込むだけの小屋。
ほとんど忘れられていた存在。
そこなら一度身を隠せる。
アルは進路を変えた。
息が乱れる。
肺が焼ける。
腕の感覚が薄れていく。
ミアが服を掴む。
強く。
「……大丈夫。大丈夫だから」
それがミアに向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのかは分からない。
倉庫が近づく。
歪んだ屋根。
板張りの壁。
古いが、まだしっかり立っている。
ここまで来れば大丈夫だ。
ひとまずミアをここに隠す。
それから父と母を助けに戻る。
そう考えた。
考えるしかなかった。
ミアを抱え直す。
軽い。
だが、確かな重さがある。
扉に手を伸ばした、その時。
――音がした。
アルは指を止めた。
小屋の中で、何かが動いている。
ゴソゴソと。
近い。
ミアの指に力が入った。
服を掴む小さな手が、強く震える。
ここはダメだ。
アルは息を殺し、手を引いた。
一歩、後ろへ。
中にいる何かに気づかれないように。
背を向け、走り出そうとした。
その瞬間。
内側で金属が触れ合う音がした。
扉がわずかに、内側から押される。
軋む音。
古い板が擦れる短い音。
アルは反射で一歩引いた。
ミアを抱えた腕に力が入る。
次の瞬間、扉が開いた。
中から出てきたのは鎧だった。
町で見たものと同じ色。
汚れた鉄。
雑に留められた革紐。
兵だった。
「……あぁ?」
低い声。
苛立ちをそのまま吐き出したような音だった。
鎧の男は一歩、外に出た。
陽に当たって顔が見える。
目の下には濃い影がある。
口元は歪み、頬には乾いた泥がついていた。
「チッ……」
舌打ち。
男は辺りを一瞥し、アルとミアを見ると眉をひそめた。
「なんだよ……こんなとこにもガキか」
面倒そうに言い捨てる。
警戒よりも、不機嫌さが先に立っていた。
「町は今、楽しいところだってのに……」
独り言のように呟き、男は肩を回した。
「隊長も頭おかしいんだよ。
怪しい民家があるから確認しろ、だとさ」
吐き捨てるような声だった。
「離れたところに家構えてる連中なんて、どうせ貧乏人だろ」
男はちらりと倉庫の中を振り返る。
「で、来てみりゃこれだ」
鼻で笑った。
「ガラクタばっか。
金になりそうなもんは一つもねぇ」
苛立ちが、はっきりと混じっていた。
「町じゃ今ごろ、好き放題やってるってのに――」
言葉が途切れる。
男の視線が、再びアルに戻った。
「……おい」
一歩、近づく。
アルは動けなかった。
足が地面に縫い付けられたように重い。
ミアが小さく息を吸う音が聞こえた。
服を掴む指が震えている。
「そんなもん抱えて、どこ行くつもりだ?」
男は顎をしゃくる。
「逃げてきた口か。
運がいいのか、悪いのか……」
口の端が歪む。
「まあ、どっちでもいいか」
男は剣に手を掛けた。
抜かない。
ただ、触れるだけ。
「荷、置け」
短い命令。
「それから――」
視線がミアに落ちる。
「そっちもこっちに寄越せ」
その言い方は、あまりに軽かった。
アルの中で何かが軋んだ。
血の感触が蘇る。
町の裏路地。
柔らかい抵抗。
骨の音。
胸の奥が冷えていく。
「……嫌だ」
声は、思ったよりも低く出た。
男は一瞬、間の抜けた顔をした。
理解できない、というより考える必要がないものを見る目だった。
「は?」
短く、間抜けな声。
次の瞬間、男の表情が歪む。
苛立ちがそのまま形になった。
「立場わかってんの?」
言葉と同時に、男の足が動いた。
避ける間もなかった。
腹に重い衝撃が入る。
息が一気に抜け、視界が跳ねた。
抱えていたミアごと、横に吹き飛ばされる。
地面が迫る。
背中から叩きつけられ、空気が押し出された。
「――っ!」
声にならない音が喉から漏れた。
ミアが腕の中で跳ね、地面に転がる。
小さな身体が土に打たれる音がした。
「ミア……!」
手を伸ばそうとする。
だが、身体が動かない。
腹の奥が痺れ、力が入らなかった。
男はゆっくりと近づいてくる。
急ぐ様子はない。
「ガキが逆らうからだ」
吐き捨てるように言う。
「お前も、そっちも――」
剣に手を掛ける音。
アルは歯を食いしばった。
立ち上がろうとする。
だが、足が言うことを利かない。
恐怖がまだそこにある。
町の裏路地。
柔らかい抵抗。
骨の音。
身体が拒否している。
ミアがかすかに動いた。
土に手をつき、顔を上げようとしている。
その頬に赤い線が走った。
ミアが、何が起きたのか分からない顔をした。
アルの視界が、歪んだ。




