第2話 瓦礫
朝は少しだけ慌ただしかった。
アルは支度を整え、袋の中身を確かめる。
父が用意した干し肉は少量だが、質は悪くない。
これを売って、塩と布、それに油を買う。
覚えるほどの用ではない。
それでも忘れないよう、頭の中で順に並べた。
戸口で靴を履いていると、ミアが近づいてきた。
まだ眠そうな顔をしているが、もう着替えている。寝癖だけが少し残っていた。
「町、行くんだよね」
「うん。昼すぎには戻ると思う」
「じゃあ……」
ミアは一瞬だけ考えてから言った。
「赤い飴、あったら」
「売っていれば、ね」
「うん。なくてもいい」
そう言って、すぐに視線を落とした。
欲しいとも、欲しくないとも言わない。いつものことだ。
父は少し離れたところに立っていた。
荷の結び目を一度見ただけで、口は挟まない。
「行ってきます」
アルがそう言うと、父は短く頷いた。
「気をつけるんだぞ」
それだけだった。
母は水筒を差し出した。
何か言いかけたように見えたが、結局、何も言わなかった。
アルは受け取り、袋にしまう。
家を出ると、朝の空気がまだ冷たい。
畑の向こうで森が静かに待っている。
いつもの道だ。歩き慣れた道。
背後でミアの声がした。
「早く帰ってきてね」
「わかった」
振り返らずに答える。
家はすぐに視界から消えた。
森へ続く道を歩きながら、アルは歩調を変えない。
町へ行くだけだ。
森を抜け、畑道を越える。
やがて、石畳が見えてきた。
町に入ると、音が一気に増えた。
呼び声。
笑い声。
荷を運ぶ車輪の音。
森の中とは違い、どこを向いても人がいる。
視線を向ける先を選ばないと、そのまま置いていかれそうだった。
アルは人の流れに身を任せ、通りを進む。
露店が並び、色と匂いが混ざっていた。
焼いた果実の甘い匂い。油の熱。菓子にまぶされた砂糖の香り。
干し肉を売る前に、いくつかの露店を覗いた。
買うつもりはない。
ただ見るだけだ。
それでも、足は自然と止まる。
ここに来ると、時間の進み方が違う。
ようやく干し肉を並べると、すぐに声がかかった。
値は少し低い。
だが、構わなかった。やり取りそのものは嫌いではない。
「今日は早いな」
顔見知りの商人が言い、干し肉を確かめる。
「数が少ない」
「質はいいはずです」
商人は短く笑い、銀を置いた。
袋が少し軽くなる。
干し肉が売り切れると、アルはもう一つの用のために通りを戻った。
目当ての露店を見つけ、商品を覗き込む。
塩の袋は並んでいる。
だが、どれも小さい。
値札を見る。
以前より高い。
一つ手に取って、戻す。
もう一度、別の袋を見る。
重さは変わらない。
「それしか残ってない。道が通れなくなってる。今はどこも高いぞ」
商人が言う。
言い訳するような口調ではなかった。
アルは少し考え、銀を出した。
袋は軽い。
だが、必要なものだ。
布も同じだった。
選べるほどの数はなく、色も限られている。
油は最後の一本だった。
商人は渡しながら、何も言わない。
袋の重さが増える。
肩にかかる感触で、それを確かめた。
用を済ませ、通りの端に寄る。
赤い飴が木箱に並んでいた。
一つだけ買った。
包まれた飴は軽い。
指先に、わずかな甘さの気配が残る。
袋にしまうと、歩き出す前に一瞬だけ立ち止まった。
町は嫌いではない。
その直後、通りの空気が少し変わった。
「聞いたか。あの若い領主の話」
「またその話か」
「本当らしいぞ。隣の領主が兵を動かしたって」
「兵を?」
「少なくとも、街道は止まってる」
「だから塩が高いのか」
笑い声はない。
否定する声もない。
「若い領主は愚かだとか」
「弟の方が優秀だとか」
「そんなの、俺たちには関係ないだろ」
一拍置いて、低い声が落ちた。
「戦になれば、関係ないじゃ済まない」
その言葉だけが、通りに残った。
衛兵が通りを横切る。
数が多い。
歩き方が揃っていない。
「今日は、早く帰れ」
誰に向けたとも知れない声が降った。
町はいつも通りに見える。
だが、そう言い切るには少しだけ歪んでいた。
最初に届いたのは、音だった。
金属が擦れた音。
短く、耳に近い。
次の瞬間、何かが壊れた。
屋台だと分かるまで、少し遅れた。
音が押し寄せる。
耳が追いつかない。
悲鳴が上がった。
一つじゃない。
重なって、形を失う。
アルは振り向いた。
そこに鎧があった。
兵だ。
そう分かった時には、すでに剣が振り抜かれていた。
誰かが倒れた。
倒れた、という言葉しか出てこない。
血が広がる。
色だけがやけに鮮やかだった。
兵は血の滴る剣を掲げ、叫んだ。
「聞けッ!」
通りの音が、わずかに止まる。
「我らは正統なる領主ドゥルガン様の命を受け、この町を浄化する!」
浄化。
その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
「新しきレオニス領の領主には悪魔が憑いている!
その悪魔に与する者どもは、もはや人ではない!」
兵の声だけが通りに響いた。
「逆らう者、逃げる者、隠れる者。
すべて殲滅せよ!」
町が、止まった。
一拍だけ、音が消える。
次の瞬間、すべてが壊れた。
どれくらい止まっていたのか分からない。
一瞬だったのか、長かったのかも。
意味が分からなかった。
何を言っているのか、頭が追いつかない。
けれど、このままでは斬られる。
誰かが走り出した。
それを合図に、通りが崩れた。
人が走る。
前へ。横へ。
押される。ぶつかる。肩。肘。背中。
荷が落ちる。
箱が割れる。
屋台が倒れ、何かが潰れる。
誰かが転んだ。
起き上がれないまま、足の波に呑まれていく。
「伏せ――」
声が聞こえた。
意味を取る前に、熱が走った。
火だ。
油の匂いが一気に広がる。
喉が焼け、息が詰まった。
アルは袋を抱えて走った。
考えた覚えはない。
袋の中で、何か小さなものが跳ねた。
それが何だったのか、思い出す余裕はなかった。
自分の足音が、誰のものか分からなかった。
肩がぶつかる。
腕を掴まれる。
振りほどこうとして、足がもつれる。
前が見えない。
視界が揺れ、音だけが残る。
気づいた時には、裏通りに入っていた。
狭い。
壁が近い。
逃げ切れると思った。
その先で、足が止まる。
行き止まりだ。
背後で足音が近づく。
重い。
鎧が擦れる音。
「止まれ」
声が落ちる。
低く、近い。
アルは振り返った。
路地を塞ぐ影が二つある。
剣。
刃先が動かない。
距離を測られている。
「荷を捨てろ」
言葉が遅れて届く。
袋の重さだけが、はっきり分かった。
手が動かない。
指に力が入らない。
息を吸ったはずなのに、胸が苦しい。
頭の中が白く、何も繋がらない。
一人が踏み込んだ。
「逃げるなよ!」
避ける間もない。
胸を突かれ、息が詰まる。
壁に背中を打ちつけた。
視界が揺れ、膝が折れる。
腕を掴まれた。
強い。
逃げられない。
殴られた。
どこを打たれたのか分からない。
ただ、頭の中で音が鳴った。
「……っ」
痛みに声が出ない。
気づけば、視界には石畳しか映っていなかった。
倒れたのだと、遅れて分かった。
手を伸ばす。
けれど、空を掴むだけだった。
身体が言うことをきかなかった。
刃を向けられた瞬間、腕が重くなる。
息が浅く、指先が痺れる。
動けばいいはずなのに、判断が遅れる。
もう一人が近づく。
剣が上がる。
反射で、腕を突き出した。
刃を掴む。
焼けるような痛み。
皮膚が裂ける感触。
力任せに押し返す。
体重を預け、相手に縋りついた。
その瞬間、相手の手から剣が離れた。
「――っ」
落ちる前に、掴んでいた。
重い。
冷たい。
距離が、近すぎた。
アルは剣を振った。
型も狙いもない。
ただ、振った。
刃が何かに引っかかる。
柔らかく、嫌な抵抗。
兵が声を上げる前に崩れた。
何が起きたのか、分からなかった。
遅れて、血が噴く。
石畳が赤く濡れた。
もう一人が動きを止めた。
「おい……」
息を呑んだのか。
判断したのか。
分からない。
その一瞬で、アルは押し出されるように前へ出た。
足が勝手に動く。
剣を突き出す。
何をしているのか分からない。
硬い感触。
次に、嫌な音。
何かが折れた。
兵は後ろへ倒れた。
地面に打ちつけられ、動かなくなる。
静かだった。
アルは剣を取り落とした。
指が震え、力が入らない。
足元を見る。
赤い。
じわじわと広がっている。
自分のものではないと分かるまでに、少し時間がかかった。
喉の奥がひっくり返る。
飲み込もうとして、失敗した。
吐き気が込み上げ、息が詰まる。
「……っ」
声にならなかった。
これは違う。
狩りじゃない。
訓練でもない。
人だ。
戦に出れば褒美が出る。
その褒美があれば、町に住める。
そんなことを、考えていた。
どうして考えられたのか分からない。
剣を振るうことも、人を斬ることも、同じ言葉の中に入れていた。
だが、違った。
手に残る感触が、それを否定していた。
アルは袋を拾い上げ、背負い直す。
落としたくなかった。
手が滑り、結び目を何度も確かめる。
袋の奥で、小さな包みが指に触れた。
「ミア……」
名前が勝手にこぼれた。
家。
帰らなければならない。
通りの向こうで、また何かが爆ぜた。
火は、確実に広がっている。
アルは走った。
振り返らない。
町にはもう居場所はなかった。
出口へ向かう道は、瓦礫と人で塞がれている。
それでも、走る。
息が切れても。
視界が歪んでも。
頭の中には、家の位置だけが残っていた。
早く帰らなければならない。
今すぐに。
その思いだけが、アルを前へ押し出していた。




