第10話 鳥
数度の野営を繰り返し、一団はようやく森の出口に差し掛かっていた。
木々の隙間の向こうにわずかに空の色が見える。
枝葉の密度は薄くなり、地面の湿り気も減ってきている。
今日の日があるうちには抜けられるだろう。
誰の口からともなく、そんな空気が漂っていた。
兵たちの表情がわずかに緩む。
肩に入っていた力が抜け、
歩調がほんの少しだけ軽くなる。
――ようやく、出られる。
その安堵は言葉にはならなかった。
だが、確かに共有されていた。
そのときだった。
「……静かに」
アルの声は低く、抑えられていた。
怒鳴るでもなく、強くもない。
だが、はっきりと届いた。
馬上のガウェインが即座に反応する。
「止まれ」
短い号令。
「全員、音を立てるな」
一団の動きがすっと止まった。
鎧の擦れる音も、馬の足音も、そこで断ち切られる。
森の中に、静寂が戻る。
聞こえるのは、風に揺れる葉のかすかな音。
遠くで枝が軋む気配。
――そして、鳥の鳴き声のような音。
「……おかしい」
アルが前を見たまま言った。
誰かが眉をひそめる。
「何がだ?」
「特におかしな様子はないが」
森は静かで、視界も悪くない。
魔物の気配もない。
ガウェインも周囲を一巡見渡したあと、アルに視線を戻す。
「何がおかしい」
アルはすぐには答えなかった。
耳を澄ます。
目を閉じるわけでもなく、ただ立ち尽くす。
もう一度――
ぴい、と。
鳥の鳴き声のような音。
「……あの鳴き方をする鳥」
アルの声が、さらに低くなる。
「この森にはいません」
ガウェインが、わずかに目を細めた。
「断言できるのか」
「はい」
即答だった。
迷いはない。
「この辺りに棲む鳥は、ああいう鳴き方をしません」
森は、相変わらず静かだった。
風も、光も、変わらない。
出口は、すぐそこに見えている。
それでも――
空気だけが、微かに張り詰めていく。
ぴい。
近い。
それだけだったはずの音に――
ぴい。
もう一つ、重なる。
方向が違う。
高さも、わずかにずれている。
ぴい。
ぴい。
今度は、間を置かずに返ってきた。
森の奥。
出口の先。
左右、どちらとも取れる位置。
鳥の声が、増えている。
ぴい。
ぴい。
ぴい。
一つ鳴くと、必ずどこかで返る。
それを合図に、別の場所でも鳴く。
遠い音。
近い音。
重なる音。
森がざわめき始めたように錯覚する。
だが、葉は揺れていない。
枝も、風も、変わらない。
変わっているのは――音だけだ。
ぴい。
背後。
ぴい。
横。
ぴい。
前。
包まれていく。
鳥の声に。
いや、鳥の声の形をした何かに。
森が息を潜めている。
その中で、音だけが増殖していく。
数を測るように。
位置を確かめるように。
一団の存在を、
確実に囲い込むように。
「――囲まれた!」
アルが叫ぶ。
その瞬間だった。
ひゅっ――
空気を裂く音。
次いで、
どす、という鈍い衝撃。
「ぐっ――!」
誰かの声が上がる。
ひゅ、ひゅ、ひゅ――!
次々と風を切る音がする。
矢だ。
上から降ってくる。
枝の隙間。
影の向こう。
「伏せろ!」
叫びが重なるより早く、二の矢が来た。
腕に突き立つ。
太腿を掠める。
馬の首に刺さり、悲鳴が上がる。
「――っ!」
馬が暴れ、
一人が振り落とされた。
地面に叩きつけられる音。
「馬を抑えろ!」
「盾を上げろ!」
混乱が一気に広がる。
矢は止まらない。
盾が鳴る。
木に突き刺さる。
地面を穿つ。
一団は完全に足を止められた。
「閣下は無事か!」
ガウェインの怒号が響く。
その視線は、即座にヴァルを探す。
「無事だ!」
返る声。
ヴァルは馬上にいた。
一矢を盾で弾き、すでに状況を見ている。
次の瞬間。
森の影が、動いた。
一人。
低い姿勢で、木の陰から現れる。
二人。
弓を捨て、剣を抜いて出てくる。
三人、四人。
さらに奥。
左右。
背後。
影が、次々と人の形を取る。
「……出てきやがったな」
誰かが呻く。
敵は、もう数を隠す気がない。
十分に囲んだと判断したのだ。
「来るぞ!」
叫びが上がる。
「閣下をお守りしつつ――」
ガウェインが、声を張り上げる。
「殲滅せよ!」
命令は、短く、重い。
兵たちが動く。
盾が前に出る。
槍が構えられる。
弓が引き絞られる。
だが――
森の中だ。
視界は悪い。
足場は不安定。
敵の位置は、完全には掴めない。
それでも、戦うしかない。
矢が飛び、
剣が抜かれ、
血の匂いが一気に濃くなる。
森の出口は、もう目の前だ。
だが、そこは逃げ場ではなかった。
――殺し場だった。
剣がぶつかる音が、至近で鳴った。
乾いた金属音。
次の瞬間、鈍い衝撃。
盾を構えた兵が後ろへ弾かれる。
踏みとどまれず、膝をつく。
そこへ――
横から、刃。
「――っ!」
声にならない声。
血が飛ぶ。
暗い土に、赤が散る。
「前を保て!」
ガウェインの声が飛ぶ。
槍が突き出される。
一人、貫かれた敵が呻き声を上げて倒れる。
だが、すぐ次が来る。
木の影から低く跳び出す影。
剣を振り抜き、兵の兜を叩く。
鈍い音。
中身が揺れたまま、男が崩れ落ちる。
「くそっ……!」
誰かが叫び、
別の誰かが噛み殺した声で呻く。
矢が、至近距離から放たれた。
避けきれない。
兵の肩に刺さる。
馬が暴れ、悲鳴を上げる。
足元が崩れる。
転倒。
土の匂い。
血の匂い。
汗と恐怖が混じる。
剣が振り下ろされ――
その刃を、別の刃が弾いた。
火花。
「下がれ!」
怒鳴り声。
押し返す力。
一歩、また一歩。
前線は、じりじりと削られていく。
敵も倒れている。
だが、それ以上に被害が大きい。
視界が、赤くなる。
誰かが倒れ、
誰かが踏み越え、
誰かが叫び――
そのすべてが、
一息のうちに起きていた。
その渦の中で、アルは立ち尽くしていた。
矢が飛ぶ。
血が散る。
誰かが倒れる。
それでも、足は動かない。
逃げたいとも思わない。
助かりたいとも思わない。
刃がこちらへ向いても、きっと同じだった。
そのとき、声がした。
名前を呼ばれたのか。
命令だったのか。
分からない。
ただ、その声だけがこちらへ届いた。
振り返ると、ヴァルがいた。
鎧に血を浴び、剣を振るっている。
自ら敵の中へ踏み込んでいた。
守られる立場ではなかった。
最初から、そんなつもりなどなかったかのように。
刃を振り抜いたその瞬間、
ヴァルの視線がこちらを捉えた。
アルと、目が合う。
一瞬。
そして、ヴァルは笑った。
にやり、と。
余裕すら感じさせる笑みだった。
その笑みを見た瞬間、
アルの胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。
何が軋んだのかは分からない。
ただ――
立ち尽くしているだけではいられない。
そう、思ってしまった。




