表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰が焔を終わらせたか  作者: 桐谷 灯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/12

第11話 世界

 アルは深く息を吸った。


 肺に入ってくる空気には、血と土の匂いが混じっている。

 だが、不思議と咳き込むことはなかった。


 耳に届くはずの音が、どこか遠い。

 剣がぶつかる音。

 怒号。

 悲鳴。


 聞こえている。

 確かに聞こえているのに、すべてが一枚隔てた向こう側にあるようだった。


 アルは目を閉じた。


 暗闇の中で、戦場の輪郭だけが浮かび上がる。

 一団は押されている。


 左だ。


 次々と味方が倒れていく。


 誰が倒れたのかは分からない。

 分かろうとも思わなかった。


 生き延びることも、

 ここで終わることも、

 同じ重さで天秤に載っている。


 ――それでも。


 理不尽にまた奪われるのは癪だと思った。


 理由はそれだけだった。


 怒りではない。

 正義でもない。

 ただ、胸の奥に引っかかった小さな違和感。


 アルはゆっくりと目を開けた。


 すぐ近くで、また一人、味方が倒れた。


 盾が落ちる音。

 重たい金属が地面を打つ、鈍い響き。


 兵は仰向けに倒れ、必死に息を吸おうとしている。


 その上に、敵が立ち、剣を振り上げる。

 今にも味方の兵の命が潰えようとしている。


 ――隙だらけだ。


 剣を振り下ろすために、体重が前に乗っている。

 右足がわずかに浮いている。

 視線は下。倒れた兵だけを見ている。


 背中。

 脇腹。

 首元。


 ここ。

 ここ。

 ここ。


 どこが弱いのか、指でなぞれるほどはっきりと分かる。


 なぜ分かるのかは分からない。

 こんな訓練を受けた覚えはない。

 実戦など、なおさらだ。


 それでも。


 なぜか体が理解していた。


 考えるより先に、足が動く。


 アルは一歩、踏み込んだ。

 敵の意識の外側から。


 低い位置。

 剣の軌道の下。


 そのまま蹴った。


 足首。


 わずかに外側へ。


「――っ」


 敵の重心が崩れる。

 剣が空を切る。


 転びはしない。

 だが、踏ん張るために体が開いた。


 その瞬間。


 驚愕した顔が、こちらを向く。

 防具のない部分が、露わになる。


 アルは迷わなかった。


 武器は持っていない。

 だから、使えるものを使った。


 指だ。


 両手の親指を真っ直ぐ伸ばし、

 一直線に――突き出す。


 狙いは一つ。


 眼球。


 ぐじり、とした感触。


 柔らかく、逃げ場のない抵抗。


 剣が落ちる。


 敵の両手が顔を押さえ、

 体が前のめりになる。


「あ――あ゛あ゛――!」


 痛みと混乱が混じった、意味を成さない音。


 だが、アルには雑音でしかなかった。


 音としては届いている。

 だが、意味がない。


 ただ空気が震えているだけだ。


 時間が、妙に遅い。


 敵の指が宙を掻く動きが、

 ひどく緩慢に見える。


 視界の端で、別の兵が剣を振っている。

 その動きも、遠くの出来事のようだった。


 敵は視界を失い、反射で体を屈める。

 首が前に出る。


 ――そこだ。


 アルは一歩、踏み込んだ。


 相手の背後に回り込み、

 顎の下に腕を差し入れる。


 もう片方の手で、後頭部を押さえる。


 引く。


 押さえる。


 逃げ道を塞ぐように、力を込める。


 相手の腕がばたついた。

 手が空を掴む。


 それでも、アルは離さなかった。


 ――折る必要はない。


 息を止めればいい。


 数秒。


 喉から出ていた音が、急に細くなった。


「あ……ぁ……」


 最後は、息が抜ける音だった。


 力が抜ける。


 体が、ずるりと崩れ落ちる。


 そこでようやく、腕を離した。


 敵は動かない。


 もう音もしない。


 アルは一歩下がった。


 息は乱れていない。

 胸の奥も静かなままだった。


 叫び声も、

 骨の音も、

 倒れる音も。


 全部、ただの雑音だった。


 当然の手順のように、

 何をすればいいのか体が次を選んでいた。


 ――なぜだか、殺すのは難しくない。


 それだけが、はっきりと分かった。


 そして、その分かりやすさは、少しだけ心地よかった。


 アルはゆっくりと自分の手を見下ろした。


 指先が赤く濡れている。

 生暖かい。


 指の腹。

 爪の縁。


 粘つく感触が、皮膚に残っていた。


 さっきの感触が、遅れて蘇る。


 柔らかく、逃げ場のない抵抗。


 思い出そうとしたわけではない。

 勝手に浮かんだ。


 アルは視線を上げた。


 目の前に、敵の死体がある。


 首は不自然な角度に折れ、

 顎が胸に沈んでいる。


 両目から血が流れていた。

 瞼は半開きで、何も映していない。


 動かない。


 完全に、止まっている。


 ……残酷だ。


 頭の中で、そう言葉が浮かんだ。


 だが、それだけだった。


 嫌悪も、恐怖も、

 胸を締めつける何かもない。


 吐き気も、震えもない。


 どうでもいい。


 そう思った。


 死体がそこにあることも、

 自分がそれを作ったことも。


 すべてが同じ重さで、どうでもよかった。


 アルは指を軽く握り、また開いた。


 血が糸を引く。


 それを見ても、何も感じなかった。


 ――ああ。


 そういうことか。


 誰が悪いのか、分からなかった。


 敵も。

 味方も。

 自分も。


 ただ、そうならざるを得なかっただけに思えた。


 仕方がない。


 そういう形をしているのだから。


 悪いのは――


 この世界だ。


 この世界は、最初からそうだったのだ。


 アルは一度、深く息を吸った。


 肺に空気を入れる。


 足元に落ちている剣に目を落とす。

 敵が取り落としたものだ。


 拾い上げる。


 重い。

 だが、持てない重さではない。


 柄を握った瞬間、

 手の中の生温かさが、鉄の冷たさに塗り替えられた。


 ふと視線を感じて顔を上げる。


 助けたはずの兵がそこにいた。

 剣を抱えたまま、動けずにいる。


 こちらを見ている。


 怯えた目だった。


 感謝でも、安堵でもない。

 理解できないものを見る目。


 アルは一瞬だけ、その視線を受け止めた。


 それだけだ。


 言葉はない。

 何かを伝える必要も、意味もなかった。


 視線を外す。


 周囲を見渡す。


 まだ戦っている。

 まだ終わっていない。


 なら、やることは一つだ。


 アルは剣を下げたまま、歩き出した。


 次の音へ。

 次の気配へ。


 心は動かない。


 ただ、迷いだけが消えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ