九
十二月に入って最初の、沢井の夜勤だった。
夕方の申し送りで、日勤の職員が言った。昼から、呼吸の間隔が少し空くようになった。訪問看護の看護師が来て、ご家族に、そろそろかもしれません、と話していった。
娘は、1号室のリクライニングの椅子に座っていた。目の下が黒ずんでいた。
「今夜は、私、起きとくけん」
娘はそう言って、冷めたお茶を飲んだ。
「沢井さんも、何かあったら、すぐ起こしてくださいね。寝とっても、起こしてくださいね」
「はい」
沢井は、山岸さんの口元に、湿らせたガーゼを当てた。唇が乾いて、白く割れていた。ガーゼが触れると、山岸さんの唇は、ほんの少しだけ動いた。吸おうとしたのかもしれなかった。
十時の体位交換は、村田さんと二人でした。山岸さんは、もう、細い息を漏らさなかった。体を返しても、目を開けなかった。
零時。一時。巡視のたびに1号室を覗くと、娘は椅子の上で、背筋を伸ばして座っていた。山岸さんの手を、布団の上から握っていた。
6号室の前を通るとき、沢井は戸の隙間を見た。鈴木さんは、柵につかまらずに眠っていた。
二時の体位交換を終えて、村田さんが二階へ戻っていったあと、1号室へ戻ると、娘は眠っていた。椅子の背にもたれて、首を少し傾け、手は布団の上の山岸さんの手に重ねたままだった。十日以上、ちゃんと眠っていない人だった。
沢井は、ベッドの脇に立って、山岸さんの息を聞いた。
吸って、止まる。長い間があって、顎が、下から押しあげられるように動いて、また吸う。喉の奥で、小さな音がする。沢井はその息を知っていた。十一年のあいだに、何度も、この音のそばに立ってきた。この息になったら、あと何時間か。早ければ、もっと短い。
詰所に戻って、オンコールの看護師に電話をした。
「下顎呼吸が始まってます。間隔は、二十秒くらい空くときがあります」
「ご家族はそばにおられますか」
「おられます。今、眠っておられます」
「起こしてあげてください。そばにおってもらって。息が止まったら、また連絡ください。すぐ行きますけん」
「はい」
沢井は、電話を置くと、すぐに1号室へ戻った。
「恵子さん」
肩に手を置くと、娘は、びくりとして目を開けた。沢井の顔を見て、それから父の顔を見た。
「息の仕方が、変わってきとられます。そばに、おってあげてください」
娘は、椅子から身を乗り出して、父の手を両手で包んだ。
「お父さん。恵子よ。ここにおるよ」
三時の少し前に、床が鳴った。
毎晩と同じだった。廊下のどこかで、戸の前で少しずつ止まりながら、一つずつ部屋を回って、近づいてきた。
山岸さんの目が、開いた。
顎が、下から押しあげられるように動いた。息を吸うために、全身でしている動きだった。その合間に、目だけが、戸のほうへ動いた。
「お父さん?」
娘が、父の顔を覗きこんだ。それから、父の見ているほうを振り返った。戸の隙間には、常夜灯の細い明かりしかなかった。
その明かりを、紺のカーディガンが横切った。
止まらなかった。床の鳴る音は、1号室の前を過ぎて、何歩か先で止まり、6号室の戸が、かすかに開く音がした。
山岸さんの目は、戸の隙間に残っていた。誰も通らなくなった、細い明かりの帯に。
「お父さん、こっち。恵子、こっちよ」
娘は、父の手を揺すった。山岸さんの目は、娘のほうへ戻らなかった。顎が、また押しあげられた。吸う息の合間に、唇が、何かの形に動いた。ば、の形に見えた。
「何? 何て言うたん」
沢井は、戸の内に立っていた。
娘の背中が、父の上に屈みこんでいた。父の目は、その背中を越えて、戸を見ていた。最期にそばにいられるように、と看護師は言った。娘はそばにいた。手を握っていた。名前を呼んでいた。それでも山岸さんは、娘を見ていなかった。
あんたが帰したんやけん。
「すぐ、戻りますけん」
沢井は、娘の背中に言った。娘は振り返らなかった。
6号室の戸は、指一本より、少し広く開いていた。
カーテンが開いていて、街灯の明かりが、ベッドの上に斜めに落ちていた。鈴木さんは、仰向けに眠っていた。頬が平らになり、目のまわりが落ちくぼんで、それでも、口元が笑っていた。眠ったまま、誰かと話す形に動いていた。
ベッドの脇に、7号室の車椅子が止まっていた。ブレーキがかかっていた。老女がそれに座って、鈴木さんの顔のほうを向いていた。膝には、膝掛けが掛かっていた。
鈴木さんの右手が、布団の上から、車椅子のほうへ出ていた。指が、何かを握る形に、軽く曲がっていた。指の節の太い、誰かの手を握っている形だった。そこには、何もなかった。
沢井は、車椅子の後ろへ回った。
しゃがんで、ブレーキのレバーを起こした。左。右。立ち上がって、ハンドルを握った。
老女は、振り向かなかった。
「トシさん」
沢井は、押した。
車椅子は、動かなかった。床に、車輪ごと沈んでいるようだった。沢井は足を開き、腰を落として、もう一度押した。右の手首に、あの晩の痺れが戻ってきた。
重っ。
村田さんの声が、頭の中で鳴った。最初の晩、この車椅子を押した村田さんは、首を傾げてタイヤを覗きこんだ。沢井は、覗きこまなかった。何が乗っているのか、知っていた。
車輪が、軋んで、回った。
鈴木さんの曲げた指から、何かが抜けた。指が、ゆっくりと開いた。
鈴木さんの目が、開いた。
「……どこへ、連れていくん」
沢井は、止まらなかった。
「主人が、まだ、おるのに」
鈴木さんは、柵に手を伸ばした。つかまって、体を起こそうとした。
「鈴木さん、寝とってください」
自分の声が、ひどく大きく聞こえた。沢井は車椅子を押しながら、鈴木さんの手を見ていた。柵をつかむ、細い、乾いた指を。あの晩、背中で聞いた、低くて短い音を。
「すぐ、戻りますけん。寝とってください」
鈴木さんの手が、柵の上で止まった。
「あんた」
鈴木さんは、沢井を見ていなかった。沢井が押している、車椅子の上を見ていた。
「また、連れていくんか」
沢井は、答えずに、戸を抜けた。
廊下は、十歩もなかった。
その十歩を、沢井は、一歩ずつ押した。車椅子は、一歩ごとに軋んだ。重さは、減らなかった。押すたびに、手首から肘へ、痺れが上がってきた。前に乗っている人の、白い髪をまとめた後ろ頭が、押された分だけ、ゆっくり揺れた。膝の上の手は、重ねたまま、動かなかった。
あの晩は、この重さを、1号室から引き離した。
今夜は、6号室から引き離して、1号室へ押していく。
どちらも、同じ重さだった。
1号室の戸を、車椅子の足置きで押し開けた。
娘が、振り返った。
沢井が押してきたものを、娘は見た。7号室の、古い車椅子だった。座面に膝掛けが載っているだけの、空の車椅子だった。それを、沢井が、腰を落として、歯を食いしばって押していた。車輪が、重い荷を載せたときの音で軋んでいた。
「沢井さん……?」
沢井は、答えなかった。娘のいない側、窓のほうのベッドの脇まで押して、山岸さんの顔が見える向きに、車椅子を止めた。しゃがんで、ブレーキをかけた。左。右。膝掛けの端が、少しずれていた。沢井は、それを、膝の形に沿って、整えた。
「トシさん、こっちですよ」
娘が、息を吸う音がした。
山岸さんの目が、戸の隙間から、ゆっくりと動いた。ベッドの脇の、車椅子の上に来た。
止まった。
顔が、変わった。
娘も、それを見た。父の顔が、自分とは反対の、窓の側の空の車椅子に向かって、変わっていくのを見た。ほどけていく、と沢井は思った。三年間ベッドから起きたがらなかった顔でもなく、病院で見た、歯の形に沈んだ顔でもなかった。四時の巡視で、外が見たいて、ずっと思いよったんよ、と言って笑った、最初の朝の顔だった。
「お父さん」
娘は、父の手を握り直した。
「お父さん、誰を、見よるん」
山岸さんの唇が、動いた。声にはならなかった。吸う息の合間に、もう一度動いた。誰の名前の形なのか、沢井には分からなかった。娘にも、分からなかった。
沢井は、窓のカーテンを開けた。外は、まだ暗かった。街灯の下の生垣が、白っぽく浮いていた。最初の晩、老女に言われて閉めたカーテンだった。誰に言われたのでもなく、沢井は開けた。
それから、戸の内側に戻って、立った。
娘は、父の手を握ったまま、もう父の名前を呼ばなかった。父の顔と、空の車椅子を、交互に見ていた。一度だけ、沢井のほうを見た。沢井は、その目を受け止めることができなかった。
山岸さんの息を、沢井は数えた。吸って、止まる。長い間。顎の動く気配。吸う。一回。二回。間が、少しずつ長くなった。
十何回目かのあとで、車椅子が、一度だけ軋んだ。
誰も触れていなかった。娘の肩が、跳ねた。
それから、息の音がしなくなった。
沢井は、頭の中で、二十まで数えた。四十まで数えた。六十まで数えた。エアマットの唸りだけが、続いていた。
ベッドの脇に膝をついて、山岸さんの手首に指を当てた。それから、首に当てた。何も触れなかった。廊下の時計は、三時四十分を指していた。
「……三時四十分です」
娘は、頷いた。頷いたまま、父の顔を見ていた。窓のほうを向いた、その顔を。目は閉じていた。口が、少し開いていた。痛そうではなかった。苦しそうでもなかった。カーテンの開いた窓の外の、まだ明るくならない暗いところを、何かが見えている人の顔で、向いていた。
車椅子の座面に、膝掛けが、きちんと畳んで載っていた。誰も畳んでいなかった。
「沢井さん」
娘は、父の顔から目を離さずに言った。
「父は、誰を見よったんですか」
沢井は、答えようとした。答えられることは、一つしかなかった。
「……分かりません」
本当のことだった。
「トシさんて、誰ですか」
「分かりません」
娘は、それ以上は聞かなかった。父の手を握ったまま、長いあいだ、泣かずにいた。それから、手で口を押さえて、声を出さずに泣いた。
四時すぎに、オンコールの看護師が来た。七時に、往診の先生が来た。先生は、山岸さんの胸に聴診器を当て、目に光を当てて、時計を見た。骨折のことは、診断書の別の欄に書かれた。
看護師が来る前に、沢井は、空の車椅子のブレーキを外した。押すと、軽かった。勢いがつきすぎて、足置きが戸の枠に当たった。7号室へ戻し、窓の前に止めて、ブレーキをかけた。カーテンは、開いていた。閉めなかった。
看護師と二人で、体をきれいにした。娘が選んだ、畑に出るときの、色の褪せたネルのシャツを着せた。床頭台の写真を、胸の上に置いた。
沢井は、記録を書いた。
〈02:40 オンコール看護師へ報告。ご家族へ声かけ、付き添いいただく〉
〈03:40 呼吸停止を確認。ご家族付き添いのもと〉
書いたことは、全部、本当のことだった。車椅子のことは、どこにも書かなかった。
五時に、6号室のランプが点いた。
表示盤の小さな赤い光を、沢井は、しばらく見ていた。ひと月ぶりの光だった。
鈴木さんは、柵につかまって、起き上がっていた。寝間着の襟が、片方だけ内側に折れていた。
「主人がな、まだ帰ってこんのよ」
沢井は、襟を直した。
「今日は遅うなるって、さっき電話ありましたよ」
「ほうかね」
鈴木さんは、柵から手を離さなかった。沢井の肩越しに、廊下を見ていた。
「ゆうべは、おったのにね」
沢井の手が、襟の上で止まった。
「あんたが、どこぞへ、やったんやろ」
鈴木さんの声は、怒っていなかった。ただ、思い出したことを言っているだけの声だった。
「……すみません」
「どこへ、やったん」
「1号室へ」
鈴木さんは、しばらく黙っていた。
「山岸さん、亡くなったんやろ」
「はい」
「ほうかね」
鈴木さんは、柵から手を離して、布団に入った。沢井が布団を肩まで掛けると、鈴木さんは、目を閉じたまま言った。
「ほな、もう、帰ってくるね」




