八
山岸さんが戻ってきたのは、十一月の終わりの、雨の日の午後だった。
沢井が夕方に出勤したとき、1号室には、もう新しい形ができあがっていた。ベッドのマットレスは、空気で膨らむ床ずれ防止のものに替わり、低い音で唸っていた。窓際に、娘が家から持ってきたリクライニングの椅子があり、毛布が畳んで載っていた。床頭台には、麦わら帽子の写真と、病院で沢井が買った紙パックのお茶が、一本だけ残って立っていた。
ベッドの下の床には、何も敷かれていなかった。離床センサーは、つけないことになった。もう、起き上がれない人だった。
山岸さんは、眠っていた。病院で見たときより、さらに小さくなっていた。布団の膨らみが、ほとんどなかった。
「帰ってきたよ、て言うたら、目、開けたんです」
娘が、椅子から立ち上がって言った。
「ほんで、部屋の中、ぐるっと見て。それから、戸のほう、ずっと見とりました。誰か来るん待っとるみたいに」
沢井は、戸のほうを振り返らなかった。
夜の十時に、村田さんに降りてきてもらって、二人で山岸さんを左へ返した。
骨の折れた右の脚を、村田さんが両手で支え、沢井が肩と腰を持った。せえの、で回した。山岸さんは、目を閉じたまま、歯のあいだから細い息を漏らした。それだけで、どれほど痛いかが分かった。
「すまんね」
山岸さんは、目を閉じたまま言った。
「すまんね、村田さん」
村田さんは、ええんよ、と言って、山岸さんの肩に布団を掛けた。部屋を出るとき、村田さんは戸口で一度立ち止まり、廊下の奥を見た。それから、何も言わずに階段を上がっていった。
娘は、リクライニングの椅子を倒して、毛布をかぶった。病院から付き添いが続いていて、もう何日もちゃんと眠っていないのだと言った。沢井は、何かあったらすぐ起こしますけん、と言った。娘は、お願いします、と言って、すぐに寝息を立てはじめた。
二時の巡視を終えて、沢井は1号室へ戻った。
詰所の折りたたみの椅子を、戸の内側に置いた。骨の折れた、あの晩と同じ場所だった。手元灯はつけなかった。眠っている娘の顔に、光が当たらないようにした。廊下の常夜灯の明かりが、戸の隙間から細く入っていた。
山岸さんの目は、開いていた。戸のほうを見ていた。
1号室で、待っておられます。
病院で、自分がそう言った。その言葉が、いま、この部屋の空気の中にあった。
三時の少し前に、床が鳴った。
廊下のどこかで、床板が、人の重みで一枚ずつ鳴っていた。鳴っては、戸の前で少し止まり、また鳴った。一つずつ部屋を回っている音だった。止まるたびに、音は、少しずつ近くなった。みんなの部屋を順番に覗いて回りよる、と、最初の晩に鈴木さんが言った。
山岸さんの息が、変わった。浅く、速くなった。右の手が、布団の端から、ほんの少し動いた。
戸の隙間を、紺のカーディガンが横切った。
止まらなかった。
白い髪を後ろで小さくまとめた横顔が、常夜灯の明かりの中を、左から右へ、ゆっくりと通っていった。戸の枠に手を添えることもなかった。部屋の中を覗くこともなかった。歩いている年寄りの、まっすぐ前だけを見ている横顔だった。
1号室の前でだけ、止まらなかった。床の鳴る音は、そのまま廊下の奥へ進み、何歩か先で、止まった。
戸が開く、かすかな音がした。6号室の戸だった。
沢井は、椅子から動けなかった。
山岸さんの目が、まだ、戸の隙間を見ていた。誰も通らなくなった、細い明かりの帯を。伸びかけていた右の指が、布団の上で、一本ずつ、元に戻った。
娘の寝息と、エアマットの唸る音だけが、ずっと続いていた。
次の沢井の夜勤も、同じだった。
三時の少し前に、床が鳴る。戸の隙間を、紺のカーディガンが横切る。止まらない。6号室の戸が開く音がする。山岸さんの目は、通り過ぎた明かりの帯に、朝まで残っている。
沢井のいない晩のことは、朝の申し送りで聞くしかなかった。
「夜中、ずっと戸のほう見よられたそうです」
日勤の職員が、娘から聞いたことを読みあげた。
「ご家族のお話では、何度か、戸を開けといてくれ、と言われたと。ご家族が、開けておられます」
それから、同じ職員が、次の頁をめくった。
「6号室、鈴木さん。今朝もご主人のお話、されてました。朝ご飯、半分」
沢井は、ボールペンを持ったまま、二つの申し送りを、続けて聞いた。開けておかれた戸の前を、誰が通っていったのか。それを知っているのは、この建物で、沢井一人だった。
山岸さんは、毎朝、まだ生きていた。少しずつ、食べる量が減っていった。粥を三口。それが二口になり、とろみをつけたお茶を、吸い飲みで少しずつになった。体を返すたびに、細い息を歯のあいだから漏らした。それ以外の時間は、眠っていた。
幸せそうな顔は、していなかった。ただ、枯れていく人の顔をしていた。沢井が十一年のあいだに何度も見て、そのたびに、ああ、と思ってきた顔だった。
幸せそうな顔をしているのは、6号室の鈴木さんのほうだった。
昼ご飯の途中で眠り、目を覚ますと、主人がな、と話しはじめる。日勤の職員たちは、その話を聞くのを楽しみにしていた。鈴木さんの体重は、また少し落ちた。看護師は、もう首を傾げなかった。年やけんねえ、と言った。
同じ廊下の、十歩と離れていない二つの部屋で、同じことが、違う顔をして起きていた。山岸さんの顔を見て、自分がどこかでほっとしていることに、沢井は気がついた。ちゃんと、普通に、枯れていってくれている。そう思った自分が、一番、怖かった。
五回目の夜だった。
二時に二人で体を返したあと、村田さんが二階へ戻り、娘がリクライニングの椅子で眠ってから、山岸さんが、沢井を呼んだ。
「沢井さん」
声は、ほとんど息だった。沢井はベッドの脇にしゃがみ、顔を近づけた。
「はい」
「ばあさんは、どこへ行きよるんね」
沢井は、戸のほうを見なかった。まだ三時には早かった。
「待ちよる、言うたやないか」
責める声ではなかった。そう言うだけの息が、もう残っていなかった。
「……6号室です」
初めて、本当のことを答えた。
「鈴木さんのところに、毎晩、行っておられます」
山岸さんは、長く息を吸った。吸うのに時間がかかった。
「ほうか」
天井を見ていた。
「わしが、おらん間にな」
「はい」
「あんたが、帰したけんよ」
沢井は、布団の端を握っていた。
「わしはな、あの晩、あんたが恨めしかった。今は、恨めしいことない。あんたは、仕事しよっただけよ」
山岸さんの目が、沢井の顔の上で止まった。
「でもな、あんたが帰したんやけん」
「はい」
「あんたが、連れてきてくれ」
エアマットが、低く唸っていた。娘が、椅子の上で寝返りを打った。
「顔だけで、ええ。顔だけ、見たら、それでええんよ」
沢井は、返事をしなかった。できなかった。山岸さんも、返事を待たなかった。目を閉じて、それきり、何も言わなかった。
三時の少し前に、床が鳴った。沢井は、戸の内の椅子に戻っていた。
戸の隙間を、紺のカーディガンが横切った。6号室の戸の開く音がした。
連れてくる、ということが、何を意味するのか、沢井には分かっていた。7号室から連れてくるのではない。眠っている鈴木さんの脇から、あの車椅子を引き離して、ここへ押してくるということだった。あの晩と同じ重さを、今度は、自分の手で、反対の方向へ押すということだった。
鈴木さんは、柵につかまれば、一人で立てる。
沢井は、膝の上の自分の手を見ていた。この手が、あの晩、老女の肘を引いた。病院で、待っておられます、と言ったのは、この口だった。あのとき一瞬だけ考えたことを、山岸さんは、いま、沢井に頼んでいた。
朝まで、沢井は、手を膝の上から動かさなかった。




