↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/10

八

 山岸さんが戻ってきたのは、十一月の終わりの、雨の日の午後だった。

 沢井が夕方に出勤したとき、1号室には、もう新しい形ができあがっていた。ベッドのマットレスは、空気で膨らむ床ずれ防止のものに替わり、低い音で唸っていた。窓際に、娘が家から持ってきたリクライニングの椅子があり、毛布が畳んで載っていた。床頭台には、麦わら帽子の写真と、病院で沢井が買った紙パックのお茶が、一本だけ残って立っていた。

 ベッドの下の床には、何も敷かれていなかった。離床センサーは、つけないことになった。もう、起き上がれない人だった。

 山岸さんは、眠っていた。病院で見たときより、さらに小さくなっていた。布団の膨らみが、ほとんどなかった。

「帰ってきたよ、て言うたら、目、開けたんです」

 娘が、椅子から立ち上がって言った。

「ほんで、部屋の中、ぐるっと見て。それから、戸のほう、ずっと見とりました。誰か来るん待っとるみたいに」

 沢井は、戸のほうを振り返らなかった。


 夜の十時に、村田さんに降りてきてもらって、二人で山岸さんを左へ返した。

 骨の折れた右の脚を、村田さんが両手で支え、沢井が肩と腰を持った。せえの、で回した。山岸さんは、目を閉じたまま、歯のあいだから細い息を漏らした。それだけで、どれほど痛いかが分かった。

「すまんね」

 山岸さんは、目を閉じたまま言った。

「すまんね、村田さん」

 村田さんは、ええんよ、と言って、山岸さんの肩に布団を掛けた。部屋を出るとき、村田さんは戸口で一度立ち止まり、廊下の奥を見た。それから、何も言わずに階段を上がっていった。

 娘は、リクライニングの椅子を倒して、毛布をかぶった。病院から付き添いが続いていて、もう何日もちゃんと眠っていないのだと言った。沢井は、何かあったらすぐ起こしますけん、と言った。娘は、お願いします、と言って、すぐに寝息を立てはじめた。


 二時の巡視を終えて、沢井は1号室へ戻った。

 詰所の折りたたみの椅子を、戸の内側に置いた。骨の折れた、あの晩と同じ場所だった。手元灯はつけなかった。眠っている娘の顔に、光が当たらないようにした。廊下の常夜灯の明かりが、戸の隙間から細く入っていた。

 山岸さんの目は、開いていた。戸のほうを見ていた。

 1号室で、待っておられます。

 病院で、自分がそう言った。その言葉が、いま、この部屋の空気の中にあった。

 三時の少し前に、床が鳴った。

 廊下のどこかで、床板が、人の重みで一枚ずつ鳴っていた。鳴っては、戸の前で少し止まり、また鳴った。一つずつ部屋を回っている音だった。止まるたびに、音は、少しずつ近くなった。みんなの部屋を順番に覗いて回りよる、と、最初の晩に鈴木さんが言った。

 山岸さんの息が、変わった。浅く、速くなった。右の手が、布団の端から、ほんの少し動いた。

 戸の隙間を、紺のカーディガンが横切った。

 止まらなかった。

 白い髪を後ろで小さくまとめた横顔が、常夜灯の明かりの中を、左から右へ、ゆっくりと通っていった。戸の枠に手を添えることもなかった。部屋の中を覗くこともなかった。歩いている年寄りの、まっすぐ前だけを見ている横顔だった。

 1号室の前でだけ、止まらなかった。床の鳴る音は、そのまま廊下の奥へ進み、何歩か先で、止まった。

 戸が開く、かすかな音がした。6号室の戸だった。

 沢井は、椅子から動けなかった。

 山岸さんの目が、まだ、戸の隙間を見ていた。誰も通らなくなった、細い明かりの帯を。伸びかけていた右の指が、布団の上で、一本ずつ、元に戻った。

 娘の寝息と、エアマットの唸る音だけが、ずっと続いていた。


 次の沢井の夜勤も、同じだった。

 三時の少し前に、床が鳴る。戸の隙間を、紺のカーディガンが横切る。止まらない。6号室の戸が開く音がする。山岸さんの目は、通り過ぎた明かりの帯に、朝まで残っている。

 沢井のいない晩のことは、朝の申し送りで聞くしかなかった。

「夜中、ずっと戸のほう見よられたそうです」

 日勤の職員が、娘から聞いたことを読みあげた。

「ご家族のお話では、何度か、戸を開けといてくれ、と言われたと。ご家族が、開けておられます」

 それから、同じ職員が、次の頁をめくった。

「6号室、鈴木さん。今朝もご主人のお話、されてました。朝ご飯、半分」

 沢井は、ボールペンを持ったまま、二つの申し送りを、続けて聞いた。開けておかれた戸の前を、誰が通っていったのか。それを知っているのは、この建物で、沢井一人だった。


 山岸さんは、毎朝、まだ生きていた。少しずつ、食べる量が減っていった。粥を三口。それが二口になり、とろみをつけたお茶を、吸い飲みで少しずつになった。体を返すたびに、細い息を歯のあいだから漏らした。それ以外の時間は、眠っていた。

 幸せそうな顔は、していなかった。ただ、枯れていく人の顔をしていた。沢井が十一年のあいだに何度も見て、そのたびに、ああ、と思ってきた顔だった。

 幸せそうな顔をしているのは、6号室の鈴木さんのほうだった。

 昼ご飯の途中で眠り、目を覚ますと、主人がな、と話しはじめる。日勤の職員たちは、その話を聞くのを楽しみにしていた。鈴木さんの体重は、また少し落ちた。看護師は、もう首を傾げなかった。年やけんねえ、と言った。

 同じ廊下の、十歩と離れていない二つの部屋で、同じことが、違う顔をして起きていた。山岸さんの顔を見て、自分がどこかでほっとしていることに、沢井は気がついた。ちゃんと、普通に、枯れていってくれている。そう思った自分が、一番、怖かった。


 五回目の夜だった。

 二時に二人で体を返したあと、村田さんが二階へ戻り、娘がリクライニングの椅子で眠ってから、山岸さんが、沢井を呼んだ。

「沢井さん」

 声は、ほとんど息だった。沢井はベッドの脇にしゃがみ、顔を近づけた。

「はい」

「ばあさんは、どこへ行きよるんね」

 沢井は、戸のほうを見なかった。まだ三時には早かった。

「待ちよる、言うたやないか」

 責める声ではなかった。そう言うだけの息が、もう残っていなかった。

「……6号室です」

 初めて、本当のことを答えた。

「鈴木さんのところに、毎晩、行っておられます」

 山岸さんは、長く息を吸った。吸うのに時間がかかった。

「ほうか」

 天井を見ていた。

「わしが、おらん間にな」

「はい」

「あんたが、帰したけんよ」

 沢井は、布団の端を握っていた。

「わしはな、あの晩、あんたが恨めしかった。今は、恨めしいことない。あんたは、仕事しよっただけよ」

 山岸さんの目が、沢井の顔の上で止まった。

「でもな、あんたが帰したんやけん」

「はい」

「あんたが、連れてきてくれ」

 エアマットが、低く唸っていた。娘が、椅子の上で寝返りを打った。

「顔だけで、ええ。顔だけ、見たら、それでええんよ」

 沢井は、返事をしなかった。できなかった。山岸さんも、返事を待たなかった。目を閉じて、それきり、何も言わなかった。

 三時の少し前に、床が鳴った。沢井は、戸の内の椅子に戻っていた。

 戸の隙間を、紺のカーディガンが横切った。6号室の戸の開く音がした。

 連れてくる、ということが、何を意味するのか、沢井には分かっていた。7号室から連れてくるのではない。眠っている鈴木さんの脇から、あの車椅子を引き離して、ここへ押してくるということだった。あの晩と同じ重さを、今度は、自分の手で、反対の方向へ押すということだった。

 鈴木さんは、柵につかまれば、一人で立てる。

 沢井は、膝の上の自分の手を見ていた。この手が、あの晩、老女の肘を引いた。病院で、待っておられます、と言ったのは、この口だった。あのとき一瞬だけ考えたことを、山岸さんは、いま、沢井に頼んでいた。

 朝まで、沢井は、手を膝の上から動かさなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。