七
鈴木さんは、昼間に眠るようになった。
食堂の椅子に座ったまま、昼ご飯の途中で、箸を持って眠った。おやつの時間に起こすと、ああ、ごめんね、主人がゆうべ遅うまで寝かせてくれんのよ、と言って笑った。日勤の職員たちは、それを聞いて笑った。ええねえ、鈴木さん、仲良しで。
沢井は、看護師に頼んで、鈴木さんの体重を量ってもらった。山岸さんのときと同じ頼み方をした。看護師は、鈴木さんもね、と少し首を傾げて、それでも量ってくれた。二週間で、一キロと少し、落ちていた。
手帳の六号室の頁には、日付が四つ並んでいた。沢井の夜勤の晩は、四晩とも、6号室のベッドの脇に車椅子があった。四晩とも、カーテンが開いていて、鈴木さんの口元が、眠ったまま、誰かと話す形に動いていた。
四晩とも、沢井は、戸を指一本ぶんまで閉めた。
五晩目の朝、六時の巡視で、沢井は6号室に入った。
車椅子は、もうなかった。鈴木さんは起きていて、窓を見ていた。頬のあたりが、ひと月前より、平らになっていた。
「主人がな、ゆうべも来てくれた」
「鈴木さん」
沢井は、ベッドの脇に、膝をついた。目の高さを合わせた。
十一年、一度も言ったことのない言葉だった。新しく入ってきた職員に、言わないように教えてきた言葉だった。言えば、どうなるのかは知っていた。知っていて、ほかに持っているものが、なかった。
「ご主人は、二十年前に、亡くなっとられます」
鈴木さんは、沢井の顔を見た。
何を言われたのか分からない顔だった。それから、口が少し開いた。開いたまま、しばらく、何の音も出なかった。
「……いつ」
「二十年前です。鈴木さんが、六十三のときに」
鈴木さんの顔が、ゆっくりと崩れた。毎回、初めて聞いたように泣く、と、申し送りの綴りには書いてある。沢井がそれを自分の目で見たのは、四年前に一度、入ったばかりの職員が言ってしまったときだけだった。鈴木さんは、柵につかまって、背中を丸めて、声をあげて泣いた。子どもの泣き方だった。
沢井は、鈴木さんの背中に手を置いた。手の下で、背骨の一つ一つが動いた。
泣き声が少しずつ細くなって、鈴木さんは、柵につかまったまま、顔を上げた。濡れた目で、沢井を見た。
「ほな」
鈴木さんは言った。
「ゆうべの人は、誰ね」
沢井は、答えられなかった。
鈴木さんは、沢井の肩越しに、ベッドの脇の、何もない床を見ていた。
「あの人、うちの手、握っとったよ。主人の手やった。指の、ここの、節の太いの」
鈴木さんは、自分の右手の、人差し指の節を、左の指でなぞった。
「主人やなかったら、誰が、握っとったんね」
鈴木さんは、日勤の職員が来たときには、もう泣いていなかった。泣いたことも、何を言われたのかも、覚えていなかった。ただ、朝ご飯を一口も食べず、沢井の顔を見ると、柵を握って顔をそむけた。日勤の職員には、あの人に、何か、ひどいこと言われたんよ、と言った。何を言うたん、と職員に聞かれて、沢井は、言ったとおりのことを答えた。
岡田さんは、事務所の戸を閉めた。
「なんで、本当のこと言うたん」
沢井は、立ったままだった。
「あの人が泣くの、分かっとるやろ。沢井さんが、一番分かっとるやろ。新しい子に、言うたらいけんて教えとるの、沢井さんやろ」
「……はい」
「ご主人が帰ってきたて、喜びよったんよ。二十年ぶりに、朝、泣かんで済むようになったんよ。それを、なんで」
沢井は、口を開いた。体重が、と言いかけて、やめた。鈴木さんの体重が二週間で一キロ落ちたことは、看護師が記録に書いている。それは本当のことだった。だが、それを言えば、次に聞かれることには、何も答えられない。なんで、それと、ご主人が死んだことを言うのが、つながるん。
「すみません」
岡田さんは、しばらく沢井を見ていた。
「事故のあとから、沢井さん、変よ」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「来月から、しばらく、夜、外れてみる? 日勤に回ってもええんよ。誰も、沢井さんのこと責めとらんけん」
「……夜に、おらせてください」
沢井は言った。
「お願いします。夜に、おらせてください」
夜に沢井がいなければ、6号室の戸の前に立つ者はいない。立って、何をするわけでもない。それでも、誰もいないよりは、と思った。そう思っていることを、岡田さんには言えなかった。
岡田さんは、長く息を吐いた。
「今月は、このまま。来月のことは、また話そ」
その晩、沢井のいない夜勤のあとで、鈴木さんは、また、主人が帰ってきたと言ったそうだった。
休みの日の午後、沢井は病院へ行った。
施設の職員として行くのではなかった。岡田さんには言わなかった。売店で、何を持っていけばいいのか分からずに、紙パックのお茶を二本買った。
整形外科の病棟の、四人部屋の窓際だった。カーテンが半分引いてあった。
山岸さんは、ベッドの上で、少し頭を起こされて寝ていた。鼻に酸素の管が入っていた。左の腕に点滴がつながっていて、両方の手に、白いミトンがはめられていた。指の分かれていない、綿の手袋だった。夜中に点滴の管を抜いてしまうので、と、ベッドの脇にいた娘が言った。
「お父さん、沢井さん来てくれたよ」
山岸さんの目が、ゆっくりと沢井のほうへ動いた。施設にいた三週間のあいだに、少しずつ明るくなっていった顔ではなかった。三年間ベッドから起きたがらなかった頃の顔とも違った。頬の肉が落ち、口の周りの皮膚が、歯の形に沿って沈んでいた。沢井が十一年のあいだに何度も見てきた顔に、ずっと近かった。
「山岸さん」
沢井はベッドの柵に手を置いた。
「沢井です。痛いところ、ありませんか」
山岸さんは、ミトンの手を、布団の上で少し持ち上げた。持ち上げて、下ろした。
娘は、紙パックのお茶を受け取って、二本とも床頭台に置いた。床頭台には、麦わら帽子の奥さんの写真が立ててあった。
「夜がね、ひどいんです。看護師さんが、せん妄いうんですか、そういうのやて。夜中に起きて、ばあさん、ばあさん、て呼ぶんですって」
娘は写真のほうを見た。
「最初は、お母さんのこと呼びよるんかと思うたんです。でも、お母さんのことは、うちでは名前で呼びよったけん。ばあさんて言うたこと、一回もないんです」
沢井は黙っていた。
「救急の人も言うとりました。運ぶとき、ばあさん、待ってくれ、て。施設の人、誰か、おばあさんの職員さんおられます?」
「……おらんです」
「ほうですよね」
娘は笑おうとして、やめた。
「なんで、一人で立とうとしたんかね。歩けんの、自分が一番分かっとるのに」
沢井は、その答えを知っていた。知っていることを、言えなかった。言えないことを、娘の前で、ずっと持っていなければならなかった。
娘がナースステーションに呼ばれて出ていくと、病室には、沢井と山岸さんと、隣のベッドのテレビの音だけが残った。
山岸さんの唇が動いた。沢井は顔を近づけた。
「帰りたい」
「はい」
「帰りたい。あそこへ」
あそこ、という言い方を、沢井は聞きのがさなかった。
「お正月には、お家に帰ろうて、娘さんが」
「あそこへ、帰る」
山岸さんは、天井を見ていた。それから、目だけを、沢井のほうへ動かした。
「ばあさんは、おるか」
隣のベッドのテレビで、誰かが大きな声で笑った。
「……おられます」
本当のことだった。前の夜勤の晩も、6号室のベッドの脇に、車椅子はあった。
「わしを、待ちよるか」
沢井は、ミトンの手を見ていた。
6号室の、平らになっていく頬のことを思った。眠ったまま、誰かと話す形に動く口のことを思った。ゆうべの人は、誰ね。
もし、この人が、あそこへ帰ってきたら。
1号室に、もう一度、この人が寝るようになったら。あの車椅子は、6号室から、こちらへ戻ってくるかもしれない。
そう考えたのは、ほんの一瞬だった。一瞬だったことを、沢井は、あとで何度も思い出すことになった。
「……待っておられます」
沢井は言った。
「1号室で、待っておられます」
山岸さんは目を閉じた。ミトンの手が、布団の上で、ほんの少し握られた。笑ったのかどうか、沢井には分からなかった。
口で言った嘘だった。手帳にも、記録にも、残らない嘘だった。
帰りのエレベーターの前で、娘に呼び止められた。
「沢井さん、ちょっとだけ、ええですか」
二人で、廊下の長椅子に座った。窓の外に、病院の駐車場と、その向こうの低い山が見えた。
「先生がね、ここにずっとは置いとけんて。痛み止めが効いてきたら、退院の話になるて。家か、施設か、療養の病院か」
娘は膝の上で、ハンカチを畳んだり広げたりしていた。
「うちに連れて帰るつもりやったんです。お正月に。畑も、近所の人に頼んで、少しだけ耕してもろうて。大根、植えてもろうたんですよ。父が、ようできとったて言いよったけん。夢の話やて分かっとったけど」
沢井は、ハンカチを畳む娘の指を見ていた。
「家でね、寝床を窓のとこに置いたら、畑が見えるんです。二階やけど、ちょうど見えるんです。そこで、正月を迎えさせてやろうて」
娘は少し笑った。
「でも、父が、あそこへ帰るて言うんです。施設へ。家やのうて。何べん聞いても、あそこへ帰る、て」
沢井は、何も言わなかった。言えば、言わなかったことまで言うことになった。
「うちより、あそこがええんやね。沢井さんらに、よっぽど良うしてもろうとるんやね」
娘はハンカチを畳み終えて、膝の上に置いた。
「先生は、たぶん、もう長うないて。施設で看取りしてもらえるんですかね」
「……できます。うちは、前にも何人か、看取らせてもろうてます」
「ほな、帰らせてやりたいです。父の行きたいところへ」
娘は立ち上がり、頭を下げた。
「最後まで、よろしくお願いします」
沢井も立ち上がって、頭を下げた。顔を上げられなかった。二階の窓から見える大根のことが、頭から離れなかった。
看取りの話し合いは、十一月の下旬に、施設の相談室で開かれた。
往診の先生と、訪問看護の看護師と、岡田さんと、計画を作る担当の職員と、娘が、丸いテーブルを囲んだ。沢井は夜勤明けのまま、端の椅子に座った。岡田さんが、夜の様子を一番知っとるけん、と呼んだのだった。
先生は、紙に書いた説明を、ゆっくり読みあげた。骨折は手術をしていないので、体を動かすたびに痛みがある。痛み止めは続ける。食事は、食べられるだけ。点滴は、ご家族の希望で、しない。早ければ一、二週間、長くても、年は越せないかもしれない。
「ここで、最期まで過ごしていただくことになります。よろしいですか」
娘は、はい、と言って、書類に名前を書いた。山岸恵子、と、少し右に傾いた字だった。書きながら、
「夜は、私、泊まってもええですか」
と聞いた。岡田さんが、もちろん、と答えた。
「最期は、そばにおりたいんです。母のときは、間に合わんかったけん」
看護師が、頷いて、紙に何か書きつけた。夜間に急変があれば、すぐにご家族に声をかける。眠っておられても、起こす。それでよろしいですね、と看護師が言い、娘は、お願いします、と言った。
沢井は、端の椅子で、その言葉を聞いていた。眠っておられても、起こす。




