六
右の大腿骨の、付け根の骨が折れていた。
岡田さんは朝の八時に病院から戻ってきて、事務所の椅子に座ったまま、それを沢井に伝えた。救急外来の先生は手術を勧めた。手術をすれば、うまくいけば車椅子に座れるところまでは戻れる。しなければ、たぶん、このまま寝たきりになる。ただ、九十一で、この一か月で体重が三キロ落ちていて、心臓の音にも気になるところがある。麻酔に耐えられるかどうかは、やってみないと分からない、と。
「娘さんがな、手術はせんて決めんさった」
岡田さんは、机の上の自分の手を見ていた。
「痛い思いさせて、それで死なせたら、お母さんに顔向けできんて。痛み止めで落ち着いたら、退院の話になると思う」
沢井は、はい、と言った。
「事故報告、今日中にお願いね。明けで悪いけど」
「はい」
「沢井さん」
岡田さんが顔を上げた。
「なんで、部屋、離れたん」
事故報告書の様式は、何度も書いたことがあった。発生日時。場所。発見者。状況。原因と考えられること。今後の対策。
〈発生日時〉の欄に、三時五分ごろ、と書いた。〈場所〉に、1号室居室内、ベッドと出入口のあいだの床、と書いた。〈発見者〉に、自分の名前を書いた。
〈状況〉の欄で、ペンが止まった。
沢井は、記録に嘘を書いたことがない。十一年、一度もない。書いていないことは山ほどある。鈴木さんのご主人が電話をかけてきたとは、一度も書いていない。だが、書いたことは、全部、本当のことだった。夜勤の記録は、朝になって誰かが読み、それを信じて、その人の一日の世話を決める。嘘が一行あれば、その一日が嘘の上に立つ。
〈状況〉の欄に、沢井はこう書いた。
〈02:50ごろより、職員が居室出入口付近にて見守り。03:00ごろ、廊下にて物音あり。確認のため居室を離れ、7号室前まで移動。その間に、ご本人がベッド足元側より降床、数歩歩行し転倒されたと思われる〉
物音は、本当にあった。床が人の重みで鳴る音だった。7号室の前まで行ったのも、本当だった。沢井は、書いたものを読み返して、どの一行にも嘘がないことを確かめた。それなのに、読み終えたとき、紙の全体が嘘になっていた。
岡田さんは、報告書を最後まで読んで、〈7号室前まで移動〉の行に、ボールペンの先を置いた。
「7号室、空き部屋やろ。なんで、そんなとこまで行ったん」
沢井は答えなかった。
「誰か、おったん?」
事務所の窓の外を、デイサービスの送迎の車が通りすぎた。
「……誰もおらんかったです」
言ってから、それが、この報告書でたった一つの嘘だと分かった。書いたのではなく、口で言った嘘だった。
岡田さんは、長く息を吐いた。
「沢井さんが付いとるいうけん、替わってもろうたんよ。山岸さんの動きを分かっとる人が見とるけん、て」
「はい」
「空き部屋の音より、利用者さんを見て。沢井さんに、こんなこと言う日が来ると思わんかった」
沢井は、はい、と言った。ほかに言えることはなかった。
今後の対策の欄には、岡田さんが書いた。〈夜間の居室離床センサーの設置を検討。転倒リスクの再評価〉。山岸さんがここへ戻ってきたら、ベッドの下に、踏むとナースコールが鳴るマットが敷かれる。戻ってきたら、の話だった。
次の夜勤は、二日後だった。
1号室のベッドは、マットレスだけになっていた。シーツは剥がされ、床頭台の写真は、娘が病院へ持っていった。窓のカーテンは閉まっていた。
零時の巡視でも、一時の巡視でも、沢井は1号室の戸を開けた。開ける必要のない戸だった。マットレスの白い四角が、常夜灯の明かりの中にあるだけだった。
二時の巡視の最後に、7号室の戸を開けた。
車椅子は、そこになかった。
窓の前の床に、車輪の跡はなかった。シーツの山の上に、膝掛けが一枚、畳まずに置いてあった。
沢井は廊下に出て、1号室の戸を開けた。マットレスだけのベッドの脇には、何もなかった。
廊下の真ん中に立って、沢井は、並んだ戸を見た。一階の十の部屋の戸は、どれも、指一本ぶんずつ開いていた。夜勤の職員が、巡視のたびにそうしておく。中の気配が、廊下から分かるように。
6号室の戸だけが、指一本より、少し広く開いていた。
沢井は懐中電灯を床に向けたまま、戸を引いた。
カーテンが開いていた。外の街灯の明かりが、ベッドの上に斜めに落ちていた。鈴木さんは、仰向けに眠っていた。毎晩、柵につかまって廊下を見ている人が、両手を布団の上に出して、まっすぐに眠っていた。
ベッドの脇に、7号室の車椅子が止まっていた。ブレーキがかかっていた。老女がそれに座って、鈴木さんの顔のほうを向いていた。膝の上で手を重ね、少し首を傾けて、眠っている鈴木さんを見下ろしていた。
鈴木さんの口元が、動いていた。声にはならなかった。誰かと話している人の口の動きだった。話して、少し待って、また話す。
老女は、沢井のほうを見なかった。
沢井は、戸の枠に手をついた。
連れ戻そう、とは思わなかった。思えなかった。三日前の晩、肘を引いた手の、右の手首に、まだ鈍い痺れが残っていた。背中で聞いた、低くて短い音を、耳が覚えていた。鈴木さんは歩ける。柵につかまれば、一人で立てる。
沢井は戸を、指一本ぶんまで閉めた。
五時に、沢井は詰所の椅子で、コールを待った。
毎朝、だいたいこの時刻に、6号室のランプが点く。主人がな、まだ帰ってこんのよ。十一年のあいだ、沢井が夜勤の朝に聞かなかった日は、ほとんどない。
五時を過ぎた。五時半を過ぎた。表示盤のランプは、どれも点かなかった。
六時の巡視で、6号室の戸を開けた。車椅子は、なかった。カーテンは開いたままで、窓の外が灰色になりかけていた。
鈴木さんは、起きていた。柵にはつかまらず、枕に頭を載せたまま、窓を見ていた。
「おはようございます。鈴木さん」
「ああ、あんた」
鈴木さんは、こちらを向いて笑った。
「主人がな、帰ってきたんよ。ゆうべ」
沢井は、戸の把手を握ったまま、立っていた。
今日は遅うなるって、さっき電話ありましたよ。喉まで来ていたその言葉の、行き場がなかった。
「遅うなる言いよったけど、ちゃんと帰ってきた。そこに座ってな、ずうっと、しゃべりよった。あの人、しゃべらん人やったのにな」
鈴木さんは、ベッドの脇の、何もない床を見た。
「あんたらが、電話、取り次いでくれよったけんやね。ありがとうね」
七時前に来た日勤の職員は、申し送りの前に、表示盤の記録を見て声をあげた。
「鈴木さん、朝のコール、なかったんですか」
「なかった」
「えー、珍しい。具合悪いんかな」
職員は6号室を覗きに行って、すぐに戻ってきた。
「めっちゃ機嫌ええですよ。ご主人、帰ってきたんやて」
申し送りで、沢井は書いたとおりに読んだ。〈05:00〜06:00 6号室 入眠中。06:00 覚醒。穏やかに過ごされる〉。それは本当のことだった。
次の朝も、6号室のコールは鳴らなかった。その次の、沢井のいない朝も、鳴らなかったと聞いた。日勤の申し送りには〈ご主人のお話を、嬉しそうにされる〉と書かれ、岡田さんは、それを読んで、よかったねえ、と言った。毎朝の電話の嘘を、誰も言わなくてよくなった。
沢井の手帳には、山岸さんの頁のあとに、新しい頁ができた。
〈十一月四日 六号室。翌朝、コールなし〉
書いてから、最初の頁を開いた。
〈十月二日 一号室。翌朝、自分で起き上がる〉
同じ字で、同じ形をしていた。
休憩室で、村田さんと夜食を食べたのは、事故から一週間ほどたった晩だった。
二階はみな寝ていて、一階もみな寝ていた。二人とも、PHSを机の上に置いて、コンビニのおにぎりを食べた。村田さんは、事故のことを一度も聞かなかった。二階の利用者さんの話と、自分の娘の受験の話をした。
「そういえば、鈴木さん、朝、静かになったんやてね」
「……うん」
「ご主人、帰ってきたって。よかったよねえ。二十年やろ」
沢井は、お茶のペットボトルの蓋を、閉めたり開けたりした。
おにぎりの包装を畳みながら、村田さんが言った。
「沢井さん、7号室のこと、前も言いよったね」
沢井は、蓋を持ったまま、動けなくなった。
「最初の晩。知らんおばあちゃんがおる、て」
「……寝ぼけとったんよ」
「うん」
村田さんは、包装を小さく畳んで、ゴミ箱に落とした。
「私な、あの晩、あの車椅子押したやろ。重かったんよ。ほんまに」
村田さんは沢井の顔を見なかった。窓の外の、駐車場の明かりを見ていた。
「タイヤの空気、あとで見たんよ。抜けてなかった」
PHSが鳴った。二階の、八号室のコールだった。村田さんは立ち上がり、ごちそうさま、と言って、階段を上がっていった。
それきり、村田さんはその話をしなかった。沢井もしなかった。ただ、その晩から、二階へ上がる前に、村田さんは一階の廊下の奥を、一度だけ見るようになった。




