五
朝の申し送りが終わってから、沢井は事務所の戸を叩いた。
「岡田さん。今夜の一階、野々村さんと替わってもらえませんか」
岡田さんは、勤務表と沢井の顔を、順番に見た。
「明けで、そのまま入るん?」
「今日だけです」
「体、もたんよ。十六時間を二本続けるんやけん」
「山岸さんが、夜中に起きられることが増えとるんです。体重も落ちとるし。動きを分かっとる者が、もう一晩見ときたいんです」
嘘ではなかった。言わなかったことがあるだけだった。
岡田さんはしばらく黙って、ボールペンの先で勤務表の今夜の欄を叩いた。
「今日だけよ。明日は絶対休み。それと、昼間はちゃんと寝てきて」
野々村さんには、事務所の電話から沢井がかけた。休みの朝の、まだ寝起きの声だった。沢井が事情を話すと、ほんまにええんですか、と二回聞いた。
「来週、私が沢井さんの晩、どれか替わりますけん」
「ええんよ。こっちが頼んどるんやけん」
電話の向こうで、野々村さんが頭を下げているのが分かるような声だった。春に入ったばかりの子だった。入居者の一人一人に、何かしてほしいことはないですか、と聞いて回る。その丁寧さを、沢井は今夜だけは一階から遠ざけておきたかった。
家に帰って、布団に入った。カーテンを閉めても、昼の光は縁から漏れてきた。目を閉じると、7号室の戸の隙間に立っていた紺のカーディガンが見えた。肘に添えた手の下の、骨の細さが戻ってきた。三時間ほど、眠ったのか眠っていないのか分からないまま横になって、三時に起きた。シャワーを浴び、冷蔵庫にあったものを立ったまま食べて、四時半に家を出た。
夕食の時間、沢井は食堂で山岸さんの隣に座った。
山岸さんは、沢井の顔を見て、箸を止めた。
「今日は、野々村さんやなかったんか」
「替わってもろうたんです」
山岸さんは何も言わなかった。目を皿に戻し、煮物の人参を一つ、箸でつまんで、また置いた。それから、ゆっくりと粥を食べた。半分ほど残した。ここ三週間、毎回全部食べていた人だった。
「お腹、いっぱいですか」
「すまんね」
山岸さんはそれしか言わなかった。いつもの言い方だった。昨夜、礼ではなくなったその言葉が、また礼のような顔をして戻ってきていた。沢井には、そのほうが堪えた。
九時に玄関と非常口を施錠した。詰所のブザーの表示灯が、緑に変わった。
十時の体位交換で、沢井が肩と腰に手を入れても、山岸さんは目を開けなかった。眠っていないのは、息の音で分かった。沢井は背中にクッションを差しこみ、布団を肩まで掛けた。
「おやすみなさい」
返事はなかった。
零時の巡視。一時の巡視。一階の九人は、それぞれの寝息を立てていた。鈴木さんだけが一度コールを押し、主人がまだ帰らんと言い、遅うなるって電話ありましたよ、と沢井が答えると、ほうかね、と言って眠った。
二時の巡視の最後に、7号室の戸を開けた。
車椅子は窓のほうを向いていた。膝掛けが、座面の上に畳んで置いてあった。
誰も座っていなかった。
この部屋を二時に開けるようになってから、老女のいない晩は何度もあった。だが今夜は、それが違って見えた。沢井は懐中電灯で、シーツの山の陰と、ベッドのない壁際と、カーテンの裏を照らした。何もなかった。光を消すと、車椅子の座面に、外の街灯の明かりが白く溜まっていた。
1号室へ向かう廊下で、6号室の戸の隙間から声がした。
「あの人な、さっきまで、あんたのうしろにおったよ」
鈴木さんは柵につかまって、廊下を見ていた。
「どこへ行きました?」
「さあ。あんたが7号室覗きよる間に、おらんようになった」
沢井は1号室の戸を開けた。山岸さんは天井を見ていた。目は開いていた。部屋には、山岸さんしかいなかった。
沢井は詰所から椅子を持ってきて、戸の内側に置いた。手元灯をつけ、記録の綴りを膝に置いた。昨夜と同じだった。昨夜と違うのは、山岸さんが一度もこちらを見ないことだった。
三時の少し前に、軋む音がした。
車椅子の車輪の音ではなかった。床板が、人の重みで鳴る音だった。顔を上げると、戸の隙間に、紺のカーディガンが立っていた。戸の枠に片手を添えて、昨夜と同じように、部屋の中を覗いていた。
昨夜と違って、老女は沢井を見ていなかった。ベッドのほうを見ていた。
布団の擦れる音がした。山岸さんが、肘をついて、体を起こしかけていた。三週間前には二人がかりでも嫌がった動きを、一人でしていた。
「ばあさん」
かすれた声だった。山岸さんの右手が、布団の上から戸のほうへ伸びた。
沢井は立ち上がった。綴りが床に落ちた。今夜は、膝は震えなかった。昨夜、一度したことだった。
「トシさん」
横に並んだ。肘の下に、手を添えた。
「お部屋、こっちやないですよ。戻りましょうね」
一歩踏み出した。老女の体は、ついてこなかった。昨夜と同じように、床に根を張ったように重かった。沢井は待った。昨夜は、名前を呼んで、待っていれば、肘が少しずつ軽くなった。
今夜は、軽くならなかった。
「沢井さん」
後ろで、山岸さんが言った。
「やめてくれ。頼むけん」
沢井は振り向かなかった。肘に添えた手に、もう少し力を入れた。引っぱってはいけない。それは分かっていた。分かっていて、引いた。老女の足が、床を擦るようにして、半歩出た。
廊下に出た。7号室までの十歩もない廊下を、老女は一歩ずつ、一歩ずつ、沢井の手に体重を預けるようにして歩いた。重さは減らなかった。沢井の右の手首が、だんだん痺れてきた。車椅子の村田さんの「重っ」が、頭の中で鳴った。
6号室の前で、鈴木さんの声がした。
「あんた、うしろ」
沢井は振り向かなかった。振り向けば、手が離れる。手が離れれば、老女は1号室へ戻る。それだけを考えていた。
7号室の戸に手をかけたとき、背中のほうで、重いものが床に落ちる音がした。
布団を床に落とした音ではなかった。もっと低くて、短い音だった。
沢井の手から、老女の肘が抜けた。抜けたのか、自分で離したのか、分からなかった。沢井は走っていた。
山岸さんは、ベッドと戸のあいだの床に倒れていた。
ベッドの柵を越えたのではなく、柵の切れ目の、足元のほうから降りたのだと、あとで分かった。降りて、立って、二歩か三歩、歩いたのだと思う。歩けるはずのない足だった。右の脚が、膝から下を外へ向けてねじれていた。左の脚より、少し短く見えた。
「山岸さん」
沢井は膝をついた。体を起こそうとして、手を止めた。この形を、沢井は十一年のあいだに三回見ていた。動かしてはいけない。
「山岸さん、聞こえますか。沢井です」
山岸さんは、床に頬をつけたまま、目だけを戸のほうへ動かした。
「ばあさん、待って」
沢井が右の腿に軽く触れると、山岸さんは、喉の奥で聞いたことのない声を出した。
PHSで二階の村田さんを呼んだ。オンコールの看護師に電話をした。看護師は、すぐ救急車、と言った。沢井は119番に、施設の名前と、九十一歳の男性、転倒、右の大腿の付け根、と言った。言いながら、自分の声が仕事の声になっているのを聞いていた。
村田さんが階段を駆け降りてきた。部屋の入り口で一瞬止まり、それから膝をついて、山岸さんの頭の下に畳んだタオルを入れた。
「沢井さん、ご家族は」
「今、かける」
娘の番号を呼び出しながら、沢井は廊下を見た。
7号室の戸は閉まっていた。廊下には、常夜灯の明かりしかなかった。
山岸さんの手が、沢井のエプロンの裾をつかんだ。指に、驚くほど力があった。
「なんで、おったんね」
電話の向こうで、呼び出し音が鳴りつづけていた。
「今夜は、おらん晩やったろうが」
岡田さんは、救急車より先に着いた。家が近いのだと、沢井はその夜初めて知った。救急隊が山岸さんを担架に移すとき、山岸さんは一度だけ大きな声を出し、それから静かになった。岡田さんが救急車に乗った。夜勤の職員は、フロアを離れられない。それは決まりで、沢井もそれを知っていた。
救急車の音が遠くなると、村田さんは二階へ戻っていった。階段の途中で一度振り返ったが、何も言わなかった。
1号室の床に、山岸さんの倒れていた形が、濡れて残っていた。沢井は雑巾とバケツを持ってきて、床を拭いた。拭きながら、何回拭いたか分からなくなった。
四時の巡視をした。一階の八人は眠っていた。鈴木さんも眠っていた。
最後に、7号室の戸を開けた。
老女は車椅子に座っていた。窓のほうを向き、膝の上で手を重ねていた。膝掛けは、沢井が掛けていないのに、きちんと膝に掛かっていた。
カーテンは開いていた。外は、まだ暗かった。
沢井はカーテンを閉めなかった。戸を閉め、詰所の椅子に座って、手帳を開いた。今夜の日付を書いた。その下に、何を書けばいいのか分からなかった。昨夜も、同じところでペンが止まったことを思い出した。




