四
手帳を見返すと、老女が1号室へ来るのは、いつも二時の巡視が終わってからだった。三時より少し前に、廊下で車椅子の軋む音がする。沢井が気づいて顔を上げるころには、もう1号室の戸が開いている。
その晩、沢井は二時に山岸さんを左へ返したあと、詰所から折りたたみの椅子を持ってきて、1号室の戸の内側に置いた。手元灯と、記録の綴りも持ってきた。寝つけない入居者のそばで書き物をしながら見守るのは、夜勤ではよくあることだった。
「どうしたん、今日は」
山岸さんは目を開けていた。
「ちょっと、ここで書き物させてもらいますね。うるさかったら言うてください」
山岸さんは返事をしなかった。天井を見て、それから戸のほうを見た。沢井が椅子を置いた位置を、確かめるような目だった。
手元灯の輪の中で、沢井は申し送りを書いた。字は思うように進まなかった。廊下の時計が、三時の少し前を指した。
軋む音がした。
戸の隙間の、常夜灯の明かりの中に、紺のカーディガンが見えた。老女は車椅子に乗っていなかった。自分の足で立ち、戸の枠に片手を添えて、部屋の中を覗いていた。山岸さんのほうではなく、戸の内側に座っている沢井のほうを見ていた。
沢井は綴りを床に置いて、立ち上がった。膝が少し震えた。
夜中に部屋を間違えて歩いてくる人を、これまで何百人と部屋へ帰してきた。腕をつかんで引っぱってはいけない。正面に立ってもいけない。横に並んで、名前を呼んで、行き先を一緒に向く。
「トシさん」
名前を呼んだのは初めてだった。
「お部屋、こっちやないですよ。一緒に戻りましょうか」
沢井は老女の横に並び、肘の下にそっと手を添えた。カーディガンの袖ごしに、骨の細さが分かった。軽そうな腕だった。だが、7号室のほうへ一歩踏み出しても、老女の体はついてこなかった。床に根を張ったように重かった。
「沢井さん」
後ろで、山岸さんが言った。
「ええんよ。わしが呼んだんよ」
沢井は振り向かなかった。振り向けば、老女の肘から手が離れる気がした。
「もう遅いですけん。トシさんも、お部屋で休みましょうね」
老女が、沢井の顔を見上げた。しばらくそうしていてから、一歩、足を出した。それから、もう一歩。沢井の手の下で、肘が少しずつ軽くなった。
7号室まで、普段なら十歩もかからない廊下を、ずいぶん長く歩いた。
6号室の前を通るとき、戸の隙間から鈴木さんの目が見えた。鈴木さんはベッドの柵につかまって、二人が通り過ぎるのを黙って見ていた。それから、沢井にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「その人、帰したら、また来るよ」
車椅子に座らせ、膝掛けを掛けた。老女は膝の上で手を重ね、沢井の顔をまだ見ていた。
沢井は膝掛けの端を整えた。そのあいだも、老女の目は沢井の顔から動かなかった。何かを待っているようにも、何も待っていないようにも見えた。沢井は何も言わずに戸を閉めた。閉めた戸に手を当てたまま、しばらく息を数えた。
1号室へ戻ると、山岸さんは壁のほうを向いていた。二時に左へ返したはずの体が、自分で少し向きを変えていた。
「山岸さん」
「なんで、帰したん」
怒鳴るような声ではなかった。山岸さんがこの施設で声を荒らげたことは、一度もない。
「あんた、あのばあさんが見えよるんやろ。わしは知っとるよ。あんたが見えよるのは、顔で分かる」
「……山岸さん、最近、痩せてきとられるでしょう。私は、それが心配で」
「痩せよるのは、分かっとる。自分の体やけん」
山岸さんは、布団の中で自分の手首を握った。
「あんたは、いっつも様子見よう言う。娘には、正月まで待て言う。わしはな、九十一よ。あと何回、様子見たらええんね」
沢井は答えられなかった。答えられることは、何も持っていなかった。老女が命を削っているのか、ただ九十一の体が終わりへ向かっているのか、沢井にも分からない。分からないことを、分かっているように言うことはできなかった。
「八年、一回も夢に出てこんかった」
山岸さんは、壁を見たまま言った。
「ばあさんがな、会わせちゃるて言うたんよ。顔だけでええ。それで、ええんよ」
沢井は布団の端を直そうとして、手を止めた。山岸さんの肩が、触られるのを待っていない形をしていた。
「すまんね」
いつもの言い方だった。だが、それは礼ではなかった。
「沢井さんがおらん晩に、頼むけん」
詰所に戻ると、壁の勤務表が目に入った。
今月の一階の夜勤は、沢井と、もう二人の職員で回している。沢井の名前の入った晩には、自分で赤い丸をつけてある。丸と丸のあいだに、白い晩が並んでいた。
次の白い晩は、明日だった。
明日の一階は、春に入ったばかりの若い職員がひとりで見る。仕事は丁寧で、入居者の話をよく聞く子だった。何かしてほしいことはないですか、と、一部屋ずつ聞いて回るのを、沢井は何度も見ている。
沢井は椅子に座り、勤務表から目を離せないまま、手帳を開いた。今夜の日付を書き、その下に何を書けばいいのか分からなくて、ペンを止めた。
廊下の奥で、7号室の車椅子が、一度だけ軋んだ。




