三
山岸さんの娘が来たのは、夕食の三十分前だった。
山岸さんは窓際の車椅子に座っていた。この三週間、毎日、昼すぎになると窓のところへ連れていってくれと言う。三年間ベッドから起きたがらなかった人が、自分から言う。日勤の職員は、表情が明るくなった、と申し送りに書いた。
「お父さん、顔色ええねえ」
娘は紙袋から蜜柑を出して、山岸さんの膝に一つ載せた。山岸さんは蜜柑を両手で包み、窓の外を見たまま笑った。
「ゆうべ、畑に行ってきた」
「夢見たん?」
「夢やない。ばあさんが連れていってくれた。大根がな、ようできとった」
娘は声をあげて笑い、沢井を振り返った。
「最近、こんな話ばっかりなんですよ。でも楽しそうで」
沢井も笑った。笑いながら、山岸さんのシャツの襟を見ていた。首とのあいだに、指が二本入るほどの隙間がある。三週間前、そこは指一本も入らなかった。
沢井のエプロンのポケットには、小さな手帳が入っている。初めての夜から、紺のカーディガンを見た晩と部屋を、自分のためだけに書きつけてきた。
〈十月二日 一号室。翌朝、自分で起き上がる〉
〈十月九日 一号室。翌日、窓まで行きたいと言う〉
〈十月十六日 一号室。翌日から、畑の話〉
見た晩のあとに、山岸さんは一つずつ望みを口にし、一つずつ叶った。そして、それとは別のことも一つずつ起きた。ベッドから車椅子へ移すのに職員が二人がかりだったのが、一人でできるようになった。食事は毎回、全部食べているのに、沢井が看護師に頼んで毎週量ってもらった体重は、五十一キロから四十八キロ台まで落ちた。昼間に眠る時間が長くなった。
看護師は先生に伝え、先生は血液の検査をした。どこにも悪いところはなかった。九十一やけんね、と先生は言った。こういうふうに、ゆっくり枯れていく人もおる。
枯れていく人の顔を、沢井は十一年のあいだに何度も見てきた。山岸さんの顔は、そのどれとも違っていた。山岸さんは、毎日少しずつ、幸せそうになっていた。
「先生がええ言うたら、お正月は家に連れて帰ろうと思うとるんです」
娘が言った。
「お父さん、畑、ほんとに見たいやろ」
「見たい」
山岸さんはすぐに答えた。それから首を回して、部屋の入り口のほうを見た。
「ばあさんも、連れていっちゃるって言いよった。正月より、もっと早う」
「ばあさんて、誰?」
娘が入り口を振り返った。
戸は開いていて、廊下の常夜灯がまだ点く前の、夕方の薄い光が差していた。その光の中に、紺のカーディガンの老女が立っていた。両手を体の前で重ね、少し首を傾けている。山岸さんではなく、娘のほうを見ていた。娘が話すのを、聞いているように見えた。
「誰もおらんやん」
娘は笑って、山岸さんの膝の蜜柑を剥きはじめた。
沢井は車椅子のブレーキを確かめるふりをして、娘の横にしゃがんだ。
「体重が、この一か月で少し落ちとるんです。先生は心配ないと言われよるんですけど。お正月のことは、もう少し様子を見てから、先生と一緒に決めませんか」
娘の手が止まった。
「こんなに元気になっとるのに?」
「元気になっとられるのは、本当です」
「なら、なんで」
沢井は答えられなかった。答えようとすれば、入り口の老女の話をすることになる。
山岸さんが、剥きかけの蜜柑を娘の手から取って、一房、口に入れた。
「沢井さんは、いっつも、もうちょっと様子見ようて言う」
娘が笑い、山岸さんも笑った。
夜の十時、沢井は一人で山岸さんを左へ返した。肩と腰に手を入れて持ち上げると、山岸さんの体は、ほとんど抵抗なく沢井の腕の中で回った。
「すまんね」
山岸さんは目を閉じたまま言った。
「沢井さん。わしはな、いまがいちばん幸せよ」
沢井は背中にクッションを差しこみ、布団を肩まで掛けた。廊下に出ると、7号室の戸が、指一本ぶん開いていた。




