十
娘は、昼前に、葬儀社の車と一緒に施設を出た。
1号室の床頭台の引き出しを、一つずつ開けて、中のものを紙袋に入れていった。替えの下着。眼鏡。病院でもらった薬の袋。紙パックのお茶は、娘が手に取って、少し眺めてから、紙袋に入れた。
玄関で、沢井は頭を下げた。
「お世話に、なりました」
娘が言った。それから、紙袋を持ち替えた。
「起こしてもろうて、よかったです。手、握っとれたけん。母のときは、それもできんかったけん」
「はい」
「でも」
娘は、玄関の外の、葬儀社の車のほうを見た。
「父、最後まで、私のほう、見んかったです」
沢井は、頭を上げられなかった。
「呼んだんですよ。何べんも。恵子よ、こっちよ、て。でも、ずっと、あっちを見よった。あの車椅子のほう」
娘の声は、責めていなかった。責める先を、探していないような声だった。
「沢井さん、あれ、押しよるとき、重そうでしたね」
沢井は、答えなかった。
「空やったのに」
娘はそれだけ言って、頭を下げた。
「大根、抜きに行きます。父の代わりに。せっかく植えてもろうたけん」
顔を上げると、娘はもう、車のほうへ歩いていた。紙袋の底が、歩くたびに、膝に当たっていた。
夕方、帰る前に、岡田さんに呼ばれた。
岡田さんは、沢井の書いた記録を読んでいた。〈ご家族へ声かけ、付き添いいただく〉の行に、指を置いていた。
「最期、ちゃんと起こしてあげたんやね」
「はい」
「娘さん、手、握っとれたて。よかったわ。お母さんのとき、間に合わんかったて、ずっと言いよったけん」
岡田さんは、記録を閉じた。
「来月の夜勤、このままでええ? 人も足りんし、正直、沢井さんがおってくれたら助かるんよ」
「……お願いします」
沢井は頭を下げた。正しいことをした職員として、頭を下げた。岡田さんは、お疲れさま、と言った。
十二月のあいだ、6号室のコールは、毎朝、鳴った。
主人がな、まだ帰ってこんのよ。今日は遅うなるって、さっき電話ありましたよ。ほうかね。
鈴木さんは、昼間に眠らなくなった。食堂で、自分の箸で、ご飯を全部食べるようになった。体重は、少しずつ戻った。日勤の申し送りには〈ご主人のことを気にされ、朝方、不穏あり〉と書かれ、岡田さんは、それを読んで、また始まったねえ、と言った。
夜になると、鈴木さんはまた、柵につかまって、廊下を見るようになった。沢井が巡視で戸を開けるたびに、鈴木さんは沢井ではなく、沢井の肩越しの、廊下の奥を見た。
山岸さんが亡くなって二週間後に、1号室に新しい入居者が来た。
浅野さんという、八十八の女の人だった。一人暮らしの家で転んで、そのあと、家族が施設を探したのだという。夜になると、ここはどこかと聞き、家に帰ると言って、ベッドの柵を揺すった。沢井は、浅野さんの横に座って、浅野さんの家の話を聞いた。家の前に柿の木がある。今年は実がならんかった。息子が、もう来んでええて言う。帰りたいんよ、と浅野さんは言った。あの家に、一晩だけでええけん。話しているうちに、浅野さんは眠った。
床頭台の写真立てには、まだ何も入っていなかった。
沢井の手帳は、その月、一行も増えなかった。
一号室の頁は、〈十二月二日 一号室。三時四十分〉で終わっていた。六号室の頁は、〈十二月二日 六号室。翌朝、コール〉で終わっていた。その次の頁は、白いままだった。
7号室の戸を、沢井は、夜勤のたびに二時に開けた。老女は、いる晩と、いない晩があった。いる晩は、車椅子に座って、窓のほうを向いていた。カーテンは開いていた。いない晩、車椅子がどこにあったのか、沢井は知らない。7号室の窓の前にないとき、沢井は、それを探しに、ほかの部屋の戸を開けることを、しなかった。
正月の夜勤は、沢井が自分から入った。
一階は、いつもの夜と変わらなかった。食堂の壁に、昼間のレクリエーションで作った、色紙の門松が貼ってあった。九時に施錠をして、ブザーの表示灯が緑になった。
零時に、遠くで除夜の鐘が鳴りはじめた。巡視の途中で、沢井は廊下の窓から、その音のする方角を見た。暗くて、何も見えなかった。
二時の巡視。1号室の浅野さんは、右を下にして眠っていた。左へ返すと、目を開けずに、すみませんねえ、と言った。
6号室の鈴木さんは、起きていた。ベッドの柵につかまって、廊下を見ていた。
「主人がな、まだ帰ってこんのよ」
「今日は遅うなるって、さっき電話ありましたよ」
「ほうかね」
鈴木さんは、柵から手を離さなかった。
「あの紺の人、今夜は、来るかね」
沢井は、鈴木さんの布団の端を直した。
「……もう、遅いですけん。休みましょうね」
「ほうかね」
鈴木さんは、柵から手を離して、布団に入った。目は、閉じなかった。廊下の奥を、まだ見ていた。沢井は、戸を、指一本ぶん開けて、廊下に出た。
7号室の戸が、指一本ぶん開いていた。
沢井は、戸を引いた。
カーテンが開いていて、外の街灯の明かりが部屋に入っていた。シーツの山の前に、車椅子が窓のほうを向いて止まっている。そこに、白い髪を後ろで小さくまとめた、痩せた老女が座っていた。色の抜けた紺のカーディガンを着て、膝の上で両手を重ねていた。
沢井は、部屋に入って、カーテンを閉めた。シーツの山から膝掛けを一枚抜いて、老女の膝に掛けた。膝掛けの上から、ほんの少し手に触れた。冷たくて、乾いていた。
それから、しゃがんで、車椅子のブレーキを確かめた。レバーは、しっかりと下りていた。
「おやすみなさい、トシさん」
老女は、沢井を見なかった。閉まったカーテンのほうを、まだ向いていた。
沢井は部屋を出た。戸を、指一本ぶんだけ開けておいた。ほかの部屋と、同じように。
詰所に戻って、手帳を開いた。白い頁に、今夜の日付だけを書いた。その下には、何も書かなかった。
三時の少し前に、廊下の奥で、車椅子が一度だけ軋んだ。
それから、床が鳴った。
沢井は、手帳を閉じて、エプロンのポケットに入れた。詰所の隅に立てかけてある、折りたたみの椅子を取った。
廊下に出た。
常夜灯の明かりの中を、紺のカーディガンの背中が、ゆっくりと歩いていた。7号室のほうから、手前へ。一つ目の戸の前で、少し止まった。指一本ぶんの隙間から、中を覗いて、また歩いた。二つ目の戸の前で、少し止まった。
沢井は、椅子を抱えて、その後ろを歩いた。
近づきすぎないように。見失わないように。老女が戸の前で止まれば、沢井も止まった。老女が歩けば、沢井も歩いた。どの戸の前で、老女の足が止まったきりになるのか、沢井には分からない。止まったら、その戸の内側に、椅子を置く。そこから先のことは、そのときに決める。今夜も。次の夜も。
あんたが見て回ったあとを、ついて。最初の晩に、鈴木さんはそう言った。
今は、沢井が、ついて回っている。
一階に九人、二階に九人。7号室に、一人。
沢井は、十九人全員の名前を、顔と一緒に覚えている。




