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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第2章 言葉の届き方

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第9話 それは、つらい

 六月に入った金曜、入口の傘立てに、水を受ける小さい皿を足した。

 傘から落ちた水が、床の継ぎ目へ流れていたからだ。

 早苗が雑巾を片付けていると、里帆が戸の外で傘を畳んだ。入る前に水を切り、傘を置く向きまで確かめている。


「ここでいいですか」


「はい。そのままで」


 その手間の間に、早苗は受付の机の上を片付けた。

 里帆は予約していた七時半より、五分早かった。

 持ってきた袋には、灰色のカーディガンが一枚だけ入っている。

 早苗はまだ、それを受け取らなかった。


「使う前に、もう一度、聞いてもいいですか」


 里帆は座ってから言った。

 カーテンの外では、通常機が回っていた。洗濯待ちの客に声が届かないよう、二人とも自然に声を落とす。


「言った後で、母が何もしなかったら、送れなかったってことですか」


「反応が、目に見える物になるとは限りません。届いても、大きくは変わらないことがあります」


「じゃあ、私が思ってる、言えば分かってくれたかもしれないって、それも、確かめることになるんですね」


 早苗はすぐには答えなかった。

 本人の望みを、少し前向きな言い方へ替えることはできた。でも、替えて渡せば、彼女が今聞いたことへの返事ではなくなる。


「そうだと思います。分かってもらえなかった記憶を、持つかもしれません」


 里帆はうなずいた。

 袋の持ち手を膝の上へ置き直す。


「この前の土曜、電話する前に、話すことを書いたんです。母が何て言っても、一度は、仕事は自分で決めるって言おうと思って」


 早苗は待った。


「用意してた仕事の話にはならなくて。近所の方のことを聞いて、そのまま終わりました。言わずに済んで、ほっとしたんです。その後、また言わなかったって思って」


 里帆が苦く笑う。

 失敗でしたね、という返事を待っているようにも見えたが、早苗には分からなかった。


「今の電話で話す方を、やめるために使いたいわけでは、ないんですね」


「はい。今の話も、これからもあると思います。二年前のあのとき、あの一言は、言いたかった。それを、なかったことにしたくないです」


 早苗は控え帳を引出しから出した。

 里帆の前では、ほかの人の頁を伏せたまま、空いた所を開く。

 名前と、服の確認から始めた。

 カーディガンは里帆が自分で買い、ずっと所有している。袖口を直しても、同じ実物の服だった。


「二年前の六月十八日です。日曜で、午後から母の家へ行きました」


 食事をしたのは、母の家の小さい食卓だった。

 向かいに母が一人いた。

 ほかの誰かへ、まとめて届く言葉ではない。

 早苗が場所と相手を書き留める間、里帆は膝の上で、開いた手を重ね直した。


「そのとき、何を言おうとしたか、思い出せますか」


「心配してくれても、その言い方はつらい」


 里帆は目を落としたまま言った。

 声が細くなったが、文の終わりは聞こえた。


「先に、ありがとうって言った方が、怒らせないですか」


 早苗はペンを置いた。


「お母様を怒らせない文を、いま作ることはできません。当時、言おうとして飲み込んだ内容の中で、里帆さんが届けたいのは、どの言葉ですか」


 里帆はカーディガンの袋から、手を離した。


「今、言った文です。言い方がつらいって、伝えたかった」


 早苗はその一文を書いた。

 十八字。文末に別の願いは付け足さなかった。

 里帆に見せ、同じ文を確認してもらう。

 彼女は一度、唇を動かして読んでから、はい、と答えた。


 利用前の状況は、必要な分だけにした。

 母と離れて暮らし、連絡は続いている。多くは土曜に電話をかけ、言い方につらさを感じても、違う話題へ移してきた。


 早苗が書いた部分を、里帆は少し長く見ていた。


「仕事を、続けてないみたいには、ならないですね」


 早苗はペンを止めた。記録の文へ、もう一度、目を戻す。


「担当は変わりましたけど、会社を辞めたわけではないので。そこだけ、確認したくて」


「そうですね。言い方で、違う事実にしないようにします」


 必要のない勤務先の名前までは、書かなかった。

 早苗は短い補足を入れ、本人へ見せた。里帆は、はい、と答え、ようやく机から視線を離した。


「電話をしなくなったら、母が困るかもって思います」


 里帆が、控え帳を見たまま言った。


「でも、私から言わなくなっても、母の方から、かけられるんですよね。当たり前なのに、ずっと、自分が切らしたら終わりだと思ってました」


 早苗は母の方からかけるでしょう、と答えなかった。

 実際に、かけるかどうかまでは知らない。


「この後の連絡が、いまより減る可能性もあります。それも含めて、送りますか」


 里帆はすぐにはうなずかなかった。

 壁の向こうから、脱水の音が低く響いた。

 早苗は時計を見ずに待った。今夜のうちに、必ず動かさなければいけない理由はない。


「はい。送ります」


 答えた後、里帆は自分で袋を開けた。

 カーディガンを出し、袖口の裏を確かめる。早苗の直した糸は、薄い灰色の布へ落ち着いていた。

 ポケットはないが、折った中に物が入っていないか、本人が広げて確認した。

 値札も、手紙も、挟まっていない。


 七番機の前へ行くと、里帆は上の停止札を見た。


「服が、古くなるわけではないんですね」


「昔へ服を返すのではありません。使った服には、届けた一文の、白い縫い目が残ります。それ以外の新しい働きはありません」


 里帆は一度うなずき、槽へ服を入れた。

 蓋を閉じた指が、少し震えていた。

 早苗は袖をつかんで支えたりせず、隣で、待っているだけにした。


「私が押すんですね」


「はい。まだ、持ち帰ることもできます」


 里帆は息を吐いた。

 それから、ボタンへ触れた。

 水が入る音を聞くと、驚いたように肩が動いた。

 抜かれたコードへ視線を向け、服の見えなくなった槽へ戻す。

 声は出さなかった。


 早苗は控え帳へ開始時刻を記した。

 今夜、この機械を使うのは、この一人だけだ。

 受付へ戻った里帆は、机へスマホを置きかけ、鞄へ戻した。


「母へ電話しておいた方がいいかと、思ったんです。でも、今、何を話すか分からなくて」


「決めなくても、いいと思います」


 早苗は自分の椅子へ座った。

 彼女の母の返事を、先に聞いておくことはできない。

 台所へ水を取りに立つときだけ、よかったら、ともう一杯を勧めた。

 里帆はもらいますと答え、自分でコップを取った。


 カーディガンのない袋が、足元へ小さく畳まれていた。

 里帆は水を半分ほど残し、コップを置いた。

 早苗も自分の分を飲んだ。


 三十分ほどで、水音が止まった。

 里帆は足元の袋を取り、口を開いた。立とうとして、もう一度座る。

 早苗が控え帳へ目を落とすと、向かいから声がした。


「服、取ってきます」


 二人で七番機へ行った。

 里帆はカーディガンを広げ、内側を探した。白い糸を見つけると、そこだけを早苗へ向けた。


 『心配してくれても、その言い方はつらい』


 十八字が、灰色の布に残っている。

 早苗がうなずくと、里帆はすぐ表へ返した。直した袖口を一度通しかけ、やめて畳む。


「今日は、帰ってもいいですか」


「はい」


 早苗は受付へ戻り、里帆のコップを机の端へ寄せた。

 結果の欄は空いている。

 里帆は開いた帳面を見たが、椅子へは戻らなかった。


「すみません。まだ、何を話したらいいか」


「この続きは、別の日でも」


 里帆は袋を抱え、うなずいた。

 傘を取るとき、柄の向きを何度か変えた。開いた戸の前で、ありがとうございます、と言った。


 早苗は残った水を流し、二つのコップを洗った。

 控え帳には、服の一文を確認したことだけを足した。

 空欄を埋めるために、電話をかける用事はなかった。

 引出しへしまう前に、もう一度、その空いた所を見た。

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