第10話 電話の来なかった半年
翌週の土曜、里帆はシャツを一枚持ってきた。
袖のボタンをなくしたという。家に予備があるか探したが、同じ袋には別の服の物しか入っていなかった。
早苗は棚から近い色のボタンを二つ出し、布へ重ねた。
「来週の日曜に、お受取りでよろしいですか」
「はい。夕方なら」
「明日は、お母様へお電話ですね」
里帆の手が、シャツの袖を押さえたまま止まった。
日曜の夜に十分ほど話す。早苗には、彼女からそう聞いた記憶があった。
「半年、かけなかったんです。私からも、母からも」
早苗はボタンを置いた。
里帆は袖から手を離し、店の椅子の方を見た。毛布を畳んでいた客が、袋を持って入口へ向かうところだった。
「今の電話の話をしてたんですよね。すみません、急に」
「いえ。私が、先に」
戸が閉まってから、早苗は受付のカーテンを引いた。
引出しから控え帳を出すと、里帆も椅子へ座った。足元の袋から、灰色のカーディガンがのぞいている。
母と離れて暮らし、連絡は続いている。多くは土曜に電話をかける。
先週の金曜に書いた字には、十分という区切りも、半年という空白もなかった。
早苗の知っている日曜の電話は、違う経緯で続いている。
「あの夜は、話せなくて」
里帆が言った。
「帰って、土曜が来たら、いつもの時間に電話しそうになったんです。でも、そうしてなかった方のことも、覚えてて」
早苗は開いた頁を、二人の間へ置いた。
「あの日、母は怒りました」
早苗は続きを待った。
「そんなに悪く取るなら、何も言えないって。煮物を出して、待ってたのにって」
里帆は机に両手を置いた。
組んだ指をほどき、手のひら同士を、ゆっくり擦り合わせた。
「私も、せっかく作ったのにって言われたら、何も言えないって返したんです。それから、早く帰って」
言葉を届けた後に起きたのは、その場で自分が望んだ謝罪ではなかった。
里帆は母の家を出て、帰りの電車の中で、先に折れた方がいいのかと考えた。
それでも、その日のうちには電話しなかったという。
「次の土曜も、かけませんでした。その次も。向こうからも、来なかった」
早苗は控え帳を見た。
利用前の里帆は、言わなかったために続いていた電話を悔やんでいた。
いま目の前の里帆には、電話の来なかった期間の記憶もある。
「年末まで、何も。母から、送る物があるから今の住所で届くかって、連絡が来たんです」
里帆はその短い連絡を、何度も読み返したという。
謝ってほしいと思った。
何もなかったように送ってくるのかと、腹も立った。
けれど、話す機会ができたことには、ほっとした。
「どれか一つだけの気持ちだったら、返事もしやすかったんでしょうけど」
そう言って、里帆は小さく息を吐いた。
受取の連絡を、自分から電話で入れた。
母は普通に、食べ物の保存の話をした。
里帆はその後で、長い時間を全部、分かってもらおうとはしなかった。ただ、心配でも、性格や続かないという話にしないでほしいと伝えた。
「母は、そんな言い方したかしらって言いました。こっちは覚えてるのに、って、また思ったんです」
「そのときは、覚えてないなら仕方ないとは、言いませんでした。私はそう聞いて、つらかったって。今も同じ言い方をされたら、その話は終わりにしたいって」
一度の話で、短い電話ができるようになったのではなかった。
翌月には、また、聞くつもりのなかった助言が続いた。
里帆が話を終えた日もあれば、言い返して長くなった日もあった。
母から、今日はその話はしないから、と先に言ったこともある。
そうして、いまの十分ができた。
「あの一言から、ずっと言えた人になったわけじゃ、ないんですね」
早苗は確かめるように言った。
里帆はうなずいた。
「母も、ずっと分かってくれる人には、なってないです。あちらが私に言いたいことも、まだあると思う」
足元の袋から、灰色のカーディガンを取り出す。
里帆は袖を畳み、内側の白い文字を見せた。
早苗は一文を、声には出さずに読んだ。
『心配してくれても、その言い方はつらい』
届いた内容は、選んだ文と同じだった。
「半年、話さなかったのを、埋めることはできないですよね」
里帆の声が、少しだけ低くなった。
「はい。もう一度使って、そこだけ変えることはできません」
早苗は控え帳の了承欄へ目を落としかけ、里帆へ戻した。
「半年と聞くと、私は……」
よかったのかどうかを、また先に決めようとしている。
早苗は続けられなかった。
「うまく、言えません」
里帆は、私もです、と答えた。
「水野さんに謝ってほしくて来たんじゃないです。二つあると、どっちの母の話をしてるのか、自分でも、途中で確かめたくなって」
早苗は、毎週土曜に電話をしていた記憶を持たない自分へ、里帆があの孤立した半年を伝える難しさを考えた。
分かると簡単に言うより、知らない方を、そのまま聞くしかなかった。
「ここには、前の記録があります。必要な分を、一緒に確認することはできます」
里帆は控え帳へ目を落とした。
自分が書いてよいと答えた短い状況と、十八字の言葉が並んでいる。
「変える前は、何も言わないまま、毎週、普通に電話してたんです。普通に、って思ってたけど、土曜の朝から、何を言わないか考えてました」
新しい記憶では、半年、何も話さなかった。
どちらにも、楽ではない時間がある。
結果の申告を短く書き、読んでもらった。
母と約半年連絡を取らなかった。その後、言い方について話す機会ができ、現在は短い電話を続けている。
里帆が、ここまでは合っています、と言った。
帳面をしまい、早苗は先ほどのシャツを二人の間へ戻した。
里帆がボタンを選ぶ。厚みの違う二つを、親指と人差し指で順に挟んだ。
「こっちで。元の物とは違うけど、つかみやすいので」
早苗は番号を控え、預かり票を切り離した。
里帆は日付を確かめ、自分の鞄へしまった。
帰る前、彼女はカーディガンを羽織った。
白い縫い目は、外からは見えない。
「明日は、母が見た映画の話をすると思います。私、結末を言われる前に止めないと」
早苗は少し笑った。
「まだ、見ていない映画ですか」
「はい。勧めたいのと、全部話したいのが、同時に来るんです」
早苗は入口まで送り、傘を取りやすい向きへ移した。
客が帰った後、七番機の説明用の紙を読み直した。
怒るかもしれない、断るかもしれない。その文は、最初からあった。
早苗は、その横へ利用前に話した内容を照合するための小さい印だけを付けた。
次に誰かへ説明するとき、自分が期待した結果の方だけを、声を明るくして話していないか。
そこは、帳面の代わりに、自分で気をつけることだった。




