第11話 十分だけ話そう
里帆のシャツの袖には、似たボタンが二つ並んでいた。
一つは元からの物、もう一つは、早苗が付けた物だった。
同じ物は棚になかったので、色と厚さの近い候補を二つ示し、里帆に決めてもらっていた。
日曜の夕方、受け取りに来た彼女は、袋へ入れる前に袖を通した。
「こっちで、よかったです。仕事中、机へ腕を置いても、あまり当たらない」
早苗は手首の曲がる所を確かめた。
見た目が近いだけでは、使いやすいとは限らない。本人が動かす所まで見てから、仕上がりの確認を終えた。
「形が少し違うので、留めにくくありませんか」
「平気です。むしろ、前よりつかみやすいくらい」
代金を受け取り、受取済みの印を付ける。
その途中で、里帆のスマホが短く振動した。
画面を見た彼女が、少し考える。
「母からです。今日、早めに電話できるかって」
早苗は手元の時計を見ないようにした。
彼女は一通返し、シャツを畳んで袋へ入れた。
「外で、少し話してきます。この辺で、邪魔にならない所、ありますか」
「店の横の、庇の下でしたら。通り道と、ほかのお店の入口だけ空けて頂ければ」
里帆はうなずき、店を出た。
雨は止んでいたが、道路はまだ濡れている。
早苗からは、ガラス越しに、彼女が建物の横へ回る所まで見えた。
それから先は見えなかったし、声も聞こえなかった。
早苗は受取票をしまい、中央の台の端を拭いた。
空いた籠を持ち上げると、底に、子ども用らしい小さい靴下が一つ落ちていた。
客の物を勝手に捨てず、忘れ物の箱へ入れる。
受付へ掲げる短い案内を書いている途中で、ガラス戸が開いた。
里帆だった。
戻った理由を、早苗から尋ねるより先に、彼女が傘を指した。
「置いていったままでした」
二人で少し笑った。
里帆は傘を取り、畳み台の横で足を止めた。
「今日は、九分でした」
「お電話ですか」
「はい。私の話も、できました」
早苗は案内の紙を伏せ、顔を向けた。
「この前の映画の、次に見るやつを勧められました。結末は、言わないでって、最初に言えたので」
彼女は少し笑い、シャツの袋を持ち替えた。
「仕事の方も聞かれたんです。新しい担当で疲れてるんじゃないかって」
早苗の目が、思わず里帆の顔へ向いた。
彼女はその動きに気づいたように、うなずく。
「疲れてはいるので、それは、そうって答えました。でも、休みの日のことまで決められるのは嫌だったから、そこは自分で考えるって」
うまく言えましたね、と早苗は答えかけた。
点を付ける言葉にしないように、聞き直す。
「伝えた後も、お話は続いたんですね」
「少し。母は、別に決めたわけじゃないって言いました。そこで全部、分からせる話にすると、九分では終わらないので」
里帆は足元へ視線を落とした。
傘の先が、皿の縁へ当たっている。少しずらし、まっすぐ立て直した。
「分かってないから、何度も言わなきゃって思うと、どこまでも話せるんです。でも、私も、今日は買った物をしまって、夕飯にしたい」
里帆は鞄の中で、スマホの位置を確かめた。
「切った後で、短すぎたかなって、思うんです。前は、もっと話してたから」
早苗は、以前の土曜の長い電話を、彼女と同じようには思い出せなかった。
里帆の方も、それを答え合わせしてほしいわけではなさそうだった。
「でも、今、続きをかけて話す用事はないんですよね。だから、今日はしまいます」
鞄の内側の口を閉じ、自分の手で押さえた。
話を短くできたことと、その後で気にならなくなることは、同時には来なかった。
「次は、二週間後の日曜にしました。来週、私が夕方、出かけるので」
「お楽しみが?」
「友達と、展示を見に行くんです。帰る時間が、まだ決まってなくて」
里帆がそう言うと、早苗は思わず、いいですね、と返した。
母との関係についての採点より、その予定の話の方が、今は聞きたかった。
「布の展示なんです。染めた色を、光に透かして見る所があるらしくて」
早苗は棚の糸を振り返った。
灯りで色が変わる話なら、自分にも心当たりがあった。
「昼の光だと、違って見える物もありますね。仕事で、よく迷います」
「そうなんですか。水野さんなら、また違う見方になるんでしょうね」
里帆は展示の名前を教えた。
早苗は開いている曜日を聞き、水曜もあると知って、手帳へ書いた。
休みに何をするかは、必要な買い出しだけから選ばなくてもよかった。
里帆が帰った後、若い男性が、乾燥したタオルの中を探していた。
早苗はさっき拾った靴下について、尋ねた。
色と柄を言うと、男性の顔が明るくなる。
「それ、うちです。片方だけ、洗う前から消えたと思ってました」
箱から渡すと、彼は籠の中のもう片方と合わせた。
同じ柄が二つ並ぶ。
「良かった。帰ってから、もう一回、鞄を全部出す所でした」
早苗は案内の紙を、まだ貼らずに済ませた。
受付を閉めるころ、匡史が洗濯袋を抱えて来た。
早苗が手帳をしまうのを見て、仕事は終わりですか、と聞く。
「はい。今日は、この分で」
言ってから、早苗は作業灯を消した。
彼は受付の奥へは来ず、いつもの機械の前で服を分け始めた。
早苗も住居へ戻るつもりだったが、思い出して、棚から空の小袋を取った。
「りんごのパン、この前、店でも売っていましたね」
「一日、少しだけ。今日は、売切れました」
「買いました。前と同じ端で、うれしかったです」
匡史が笑った。
「真ん中じゃない所を、そんなに褒めてもらうとは」
早苗も笑い、空の袋を、ごみへ分けた。
「次、水曜に、駅の向こうの展示を見に行こうと思ってるんです」
予定を話すと、匡史は場所を確かめ、あの建物、入口が裏にもあるから気をつけて、と言った。
行くべきかどうかを決める助言ではなく、迷いやすい角の話だった。
早苗は手帳の端へ、小さな矢印を描き足した。
住居へ戻ると、乾燥機の低い音が扉越しに聞こえた。
里帆が言った展示の予定を、もう一度見る。
母へ電話をした人は、母へ電話をすることだけで一日を終えるわけではない。
自分も、誰かの話を聞いた一日を、それだけで閉じなくてよかった。
早苗は冷蔵庫を開け、買っておいたトマトを取り出した。
今日は温めるのではなく、冷たいまま、塩を少しだけ掛けて食べたかった。




