第12話 ブラウスの染み
襟の染みは、窓際で見ると、作業灯の下より薄かった。
早苗はブラウスを裏返し、折ってあった襟を起こした。
薄い紙に包んで箱へ戻したのは、四月の初めだった。二か月以上たっても、染みは勝手にはなくならなかった。
裾の緩んだ糸を指で拾う。
引けば、ほつれが広がる。
そのままにする理由を、作業を知らないからとは言えなかった。
六月の水曜、受付は休みだった。
早苗は午前に洗濯を済ませ、服を干した後で、この一枚を取り出した。
ほかのブラウスと同じように、手入れを考えればよかった。
表示に合う方法を選び、分からないことは、確かめてからにする。
箱の底には、前の家で使っていた小さいポーチがあった。
中身は、古い予備ボタンと、短くなった鉛筆だった。
捨てられなかった理由を、どの物にも一つずつ付けようとすると、片付けは進まない。
早苗は鉛筆を台所の引出しへ移した。
予備ボタンは、持っている服の物か、後で確かめる。
ブラウスは椅子の背へ掛けたまま、昼食を作った。
店へ出たのは、夕方の清掃のためだった。
受付は開けず、通常機の周りと、入口の水の跡を確かめる。
ガラス戸の外に、匡史が立っていた。
洗濯袋と、空の小箱を持っている。
「今日は、店も休みでした?」
「いえ。洗濯は、いつもどおりです」
早苗が戸を開けると、匡史は洗濯袋を先に入れた。
「受付の字が、太くなってるから。一瞬、全部休みかと」
「その下、もう少し大きくしましょうか」
「読めば分かるので。読まずに聞いた俺の方です」
彼はいつもの機械へ向かい、服のポケットを確かめた。
早苗はモップを受付の脇へ戻し、通り道を空ける。
水曜には、仕事を終えた人とは違う時刻の匡史に会うこともあった。
今日は、自分の部屋を片付けていたという。
「この箱、要ります?」
洗濯を始めてから、匡史が空箱を持ち上げた。
菓子の入っていた小さい箱だった。汚れや匂いが残っていないことを、彼自身が確かめる。
「糸とか、入れるのに使えるかと思って。でも、余計な箱を増やすだけだったら、俺が持って帰るので」
早苗は受付の棚を見た。
短い糸を巻き直すための紙片が、封筒からはみ出していた。
「小さい物を分けるのに、使えそうです。一つ、頂いても」
「はい。一つしかないので、ちょうどいいです」
早苗は笑い、受け取った。
住居へ置いてこようとして、椅子に掛けたブラウスが、開いた扉の向こうにあるのを思い出す。
匡史からは、まだ見えない位置だった。
彼が何かを尋ねたわけではないのに、隠すように扉を閉めたくなった。
早苗は箱を受付の机へ置いた。
閉める前の住居扉へ目を向け、自分から話した。
「前に着ていた服を、出していたんです。今日」
匡史は返事を急がず、早苗を見た。
「直せる所があるのに、手を付けられなくて。お客さんの物だと、ここを直すって分かるんですけど」
「自分の物は、後回しになりますね」
そのくらいの話で終えてもよかった。
匡史は、見ましょうか、とも言わなかった。
早苗は住居の扉を閉め、受付の椅子へ座った。
今はほかに客がいない。
洗濯機の残り時間は、まだしばらくあった。
「離婚の話を始めた日に着ていた服なんです」
匡史の視線が一度動き、それから戻った。
「そうでしたか」
理由を先へ補うような言葉は続かなかった。
早苗は机の上の小箱の角を、指で確かめた。
「結婚して、九年でした。親のことで、誰が何をするかとか、転勤の話とか。そのたびに、自分は平気だと答えてたんです」
尚之が、何も尋ねなかったわけではない。
聞かれたときに、早苗は自分で、大丈夫と言った。
言わないままのことまで、気づいてほしかった。
そういう話をすると、全部、自分の説明不足だったという結論へ持っていきたくなる。それも、まだ、簡単すぎる気がした。
「ここへ来たのは、その後で?」
「はい。離婚した後です」
匡史はうなずいた。
早苗は、どう思いますか、と尋ねるのをやめた。
これだけ聞いて、九年間を判定できる人には、したくなかった。
「あの七番機のことも、話していいですか。変な話なんですけど」
匡史は奥の停止札を見た。
「聞きます。でも、機械の修理なら、俺も分からないですよ」
「修理のお願いでは、ないです」
早苗は少し笑ってから、七番機の働きを説明した。
服を着ていた日の、飲み込んだ一言を届ける。
一人一生に一回。相手の返事は選べず、普通の記録は変わる。
使った本人だけが前と後の記憶を持ち、早苗には、その特権がない。
誰が使ったか、どんな結果だったかは、話さなかった。
匡史は途中から、笑わずに聞いた。
水の入る音を、電源をつながない機械から聞いたことを早苗が話すと、抜かれたコードへ視線を落とす。
「それ、俺が、最初から知ってたことになる場合もあるんですか」
「変わった方の出来事に、三枝さんが関わっていれば、その記憶になると思います。でも、前の方は覚えません」
「俺が、前はこうだったよって、言ってあげられるわけじゃないんですね」
「はい」
彼は両手を膝へ置いた。
「分かったと言っていいのか、まだ分からないです。説明は、聞きました」
その返事に、早苗は少し息がしやすくなった。
「私は、あのブラウスを使いたいと思ってるのかもしれません。でも、何を変えたいのか、まだ、うまく言えなくて」
匡史は七番機ではなく、早苗を見た。
「その服は、いま、置いてあるんですよね」
「はい。住んでいる方の部屋に」
「じゃあ、今日、決めなくても、なくならないですか」
早苗は少し考えた。
今夜しか使えないわけではない。自分が使う義務もない。
それらは全部、客へ説明してきたことだった。
「なくなりません。自分で処分しなければ」
「だったら、俺が今、決める手伝いをする話ではなさそうですね」
匡史は小箱を見た。
「箱を増やす役には、なりましたけど」
早苗は思わず笑った。
彼も笑った。深刻な話をやめさせるための笑いには、感じなかった。
洗濯機の音が、終わりに向けて静かになる。
「俺も、父へ店の話を、まだ全部言ってないです。言った後、どうなるか考えると、いまのまま働いた方が早いので」
匡史はそれだけ話し、立った。
早苗へ同じ答えを選ばせる言葉は、付け足さなかった。
自分の洗濯物を取り出し、空箱とは別の袋へ戻す。
「今日の話、外へは、話しません。仕事の手が要るなら、俺にできる分は、聞いてください」
早苗は、ありがとうございます、と答えた。
匡史を送った後、早苗は住居へ戻った。
椅子の背のブラウスを、ハンガーへ掛け直した。
今夜、洗うとは決めなかった。
それでも、薄紙へ包んで箱の底へ戻す代わりに、ほかの服と同じ棚へ掛けた。
手前には、明日着るシャツがある。
その奥の淡い青を確かめ、早苗は棚の戸を、静かに閉めた。




