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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第3章 戻らないために

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第13話 走らないジャージ

 ジャージの名前は、洗っても消えないくらい、濃く書いてあった。

 宮坂(みやさか)、と内側の白い札にある。

 持ってきた女性は、その字を早苗へ向けてから、札の姓に名を添えるように、宮坂千帆(ちほ)です、と名乗った。


「これ、直すほどの物なのか、分からないんですけど」


 七月の初め、受付を開けてすぐの時刻だった。

 千帆は紺色のジャージの裾を開き、縫い目を示した。

 途中の糸が切れ、輪になった部分が外へ出ている。布自体の傷みは、それほど大きくない。

 早苗は手のひらへ広げる前に、触れてよいか確かめた。


「ここを、縫い直したいんですね」


「はい。でも、着るかは、まだ」


 早苗はペンを止めた。

 今すぐ着る予定がないから直さなくていい、と決めるのも違った。


「使う時期に合わせて、急いで仕上げる必要はない、ということですか」


「それは、そうです。急いではないです」


 千帆は口を閉じ、表の胸の所へ目を向けた。

 学校名と、陸上部の文字が刺繍されている。

 早苗には、そこの学校の部活がどんなものかは分からない。

 速い人も、遅い人も、その同じ字を着たのだろうと思った。


「高校のです。もう、卒業したので」


 千帆は十九歳だと言った。

 早苗が自分の年を答える必要はなかったが、十九のころ、仕事を始めるまでの時間をどんなふうに数えていたか、一瞬、思い出そうとした。

 すぐには出てこなかった。

 目の前の服へ、視線を戻す。


「ほつれは、このままだと広がることがあります。着るかどうかは別にして、ここだけ直すことはできます」


 料金を伝えると、千帆は少し考え、お願いしますと答えた。

 受付票へ連絡先を書く。書き終えた後、白い札を、指でまた表へ返した。


「母が、取っておけばって言って。そんなに頑張ったんだからって。でも、最後までいたわけでもないので」


 千帆は白い札を押さえたまま、続けた。


「途中で辞めました。怖くなって、走れなくなったって、うまく言えなくて」


 乾燥機の音が大きくなった。

 千帆が振り向いたので、早苗は、続きは別の時間にも伺えますと伝えた。

 彼女は一度考え、今日、少しだけならと答えた。

 受付のカーテンを閉める。

 外の客が困ったら声をかけられるよう、相談中の札へ替えた。


「最後の方は、走る前から、息が変になる感じがして。でも、走ってないのに何がつらいのって、自分でも思ってたんです」


 千帆は椅子の端へ座っていた。

 膝の上で、両手の指を組み替える。

 早苗は自分が聞いた感覚から、病名や理由を付けることはしなかった。


「誰かに、そのことを話せましたか」


「辞めた後で、少し。学校でも、家でも、話せる人はいたと思います。でも、そのときには、自分が何を話したいのか分からなくて」


 顧問と面談した日があったという。

 成績や、次の大会の話から、しばらく走れていない理由を聞かれた。

 千帆はそこで、怖いですと言おうとした。

 けれど、怖くない人だけが残る場所なら、自分が辞めればいいのだと思った。


「先生に、そう言われたんですか」


 早苗が確かめると、千帆は首を振った。


「言われてないです。私が、そう思って。何か別のことを言って、終わりました」


 早苗は、思い込みでしたね、と返さなかった。

 顧問が何を考えていたかは、ここにいる二人には分からない。


「去年のことなのに、前の服みたいに見えます」


 千帆は机の上のジャージを見た。


「捨ててしまえば、着なくていいのに。直したら、走らなきゃいけない感じがして」


「補修を頼んだから、走る約束になるわけではありませんよ」


 早苗は受付票を、彼女へ向けた。

 裾の縫い直し。それ以上の依頼は、まだ書いていなかった。

 千帆は字を見て、ゆっくり肩を下げた。


「そうですよね。普通に、家で着てもいいんですよね」


 うなずいてから、早苗は七番機について、聞くかどうかを尋ねた。

 千帆が帰るつもりであれば、そのまま服の受取日だけを決められた。

 彼女は、どんな話ですか、と聞いた。


 過去のその場で飲み込んだ一言を、一人へ届ける。

 早苗が説明を始めると、千帆は最初、目を大きくした。

 途中から、ジャージの札へ視線を落としたまま聞いていた。

 同じ服を着ていた具体的な場面と、当時本当に言おうとした内容しか選べないことを、早苗は先に伝えた。


「速く走れる方へは、変えられないんですか」


「結果を、指定することはできません。相手の返事も、選べません」


「休んでも、置いていかれないようには?」


 早苗は首を振った。

 彼女がいま欲しい保証を、少しだけなら渡せるふりはできなかった。


「その後に起きることを、一つずつ選ぶことはできません。話した結果、あまり変わらないこともあります」


 千帆は、そうなんだ、とつぶやいた。

 顔を上げ、机の端の受付票を、自分の方へ引き寄せる。


「戻って走りたいのか、走らなくてよかったって言ってほしいのか、まだ分かんないです」


 早苗は紙を取らずに待った。

 利用を決めるには早いと思い、今日は補修だけにしましょうかと提案した。

 千帆はうなずき、受取日を確かめた。


「胸の字は、そのままですよね」


 千帆が尋ねたので、早苗は依頼の範囲を、もう一度指で示した。


「今回は、裾だけです。ほかへ手を入れるときは、先にお伺いします」


 千帆は刺繍の上へ手を置き、ありがとうございます、と答えた。

 早苗は受付票にも、裾だけ、と短く添え、本人へ見せてから控えを渡した。


「直した服を見てからでも?」


「もちろん。それで、七番機は使わないと決めても構いません」


 彼女は机の上のジャージから手を離した。

 袋は空のまま、自分で鞄へ入れた。

 早苗は受付票を預かり、普段の棚へ服を移す。

 白い文字の特別な縫い目は、まだどこにもなかった。


 その夜、裾を直す前に、早苗は糸の切れた所をもう一度確かめた。

 出ていた輪を、引っぱらずに戻す。

 余分にほどかず、縫い終わりを留めた。

 ジャージを広げると、胸の学校名が見えた。


 翌朝、早苗は店の前の歩道を掃いた。

 小さい子どもが、保護者の少し前を走り、白い線の所で立ち止まる。

 その動きを見て、千帆の話を勝手に当てはめそうになった。

 目の前の子どもは、ただ、そこまで走っただけだ。

 早苗はほうきを動かし、道路側へ出た砂を、塵取りへ集めた。


 仕上がったジャージは、受付の棚に掛かっている。

 早苗は受取日の札を、正面から読めるように付け直した。

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