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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第3章 戻らないために

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第14話 優勝したかったわけじゃない

 裾の戻ったジャージを、千帆はその場で着た。

 腕を通し、前のファスナーを途中まで上げる。

 鏡は受付にないので、下を向き、両方の袖を交互に引いた。


「こっちも、思ったより長かった」


 裾ではなく、袖口を見ていた。

 早苗が確かめると、千帆は笑って、前から長かったです、と答えた。


「走るとき、手を隠してるって言われました。寒かっただけなんですけど」


 その短い思い出まで、全部つらいわけではないらしかった。

 千帆は袖口を一度折り、直した裾を確かめた。

 引っ掛からないことを見てから脱ぎ、代金を払った。

 補修の受取は、それで終わった。


「あの話は、まだ、決められてません」


 自分から言い、千帆は、急かされてもいないのに、と少し笑った。

 早苗は、受取のときに答える必要はないと伝えた。

 千帆はうなずき、服を畳んで鞄へ入れる。


「でも、この服を着ると、走ってたときのこと、嫌な方だけじゃなくて、思い出すんですね」


 楽しかった日もあった。

 練習が終わった後、友達と、何も関係のない話をしながら帰った日もあるという。

 その全部が、辞めた一日から、嫌だったはずの物になっていた。

 早苗は、ならば戻りたいのですね、と話を急がなかった。


「また、お時間のあるときに」


 そう伝えると、千帆は自分で扉を押し、帰っていった。


 次に訪ねてきたのは、七月の終わりに近い金曜だった。

 日が長く、受付を閉める時刻になっても、入口の前に明るい部分が残っている。

 千帆は事前に連絡をして、夜の相談を予約していた。

 今日はジャージを着ず、鞄の中へ入れている。


「先生へ、何て言えば、休んでから戻してもらえたんだろうって、考えてたんです」


 カーテンを閉めた受付で、彼女は最初にそう言った。

 早苗は控え帳をまだ出さずに聞いた。


「先生が何て言うか、ずっと考えてて。休んでいいよって言ってくれたら、それで戻れたのかなって。でも、戻って、また同じだったら」


 千帆は鞄のファスナーを閉めた。すぐに、少し開け直す。


「すみません。行ったり来たりで」


「戻りたい気持ちも、あるんですね」


「ある、と思います。走れたときの方には。でも、辞めたかっただけって思われるのは嫌で」


 早苗は次の言葉を探し、控え帳を引き寄せかけた手を止めた。


「辞めたいんじゃない、って言えばよかったのかな。いや、それも違う。あのときは、もう行きたくなかったし」


 カーテンの向こうで、硬貨が落ちる音がした。

 千帆はその音が終わってから、もう一度言った。


「怖いって。それは、言いたかったです」


「あの面談は、いつでしたか」


「去年の五月二十日です。月曜で、放課後。部室じゃなくて、校舎の小さい面談室でした」


 相手は顧問の一人だった。

 千帆はその日、ジャージへ着替えた後で呼ばれた。

 廊下で、上着の裾が片側だけ折れているのに気づき、直してから入ったという。

 早苗には、彼女がどんな顔をしてその椅子へ座ったかは分からない。本人の話す、小さい動作だけを追った。


「走るときの、何が怖いかは、言えそうだったんですか」


「そこまで、うまく分けられてなかったです。次の練習を考えると、また同じになるって思って。そのまま言っていいのか、分からなくて」


 早苗は意味を整えた言葉へ、直そうとはしなかった。


「もう走ることが、怖いです」


 千帆が、自分の声で言った。

 最後まで言ってから、顔を上げる。


「それを、途中まで言いかけました。もう、って言って、その後、別の話をして」


 早苗は文を控え帳へ写した。

 十二字。

 本人へ向け、これで合っているか確かめる。

 千帆は目で読み、同じ文を声には出さずに、うなずいた。


 ジャージは、入部したときに買ってもらった、千帆自身の物だった。薄くなった名札は、二年目に自分で書き足したという。

 早苗は札を確かめ、あの日に着た同じ服だと記録した。


「これを言ったら、その後もちゃんと説明しないと、だめですか」


 千帆は机の十二字を見た。


「休んで、いつ戻るかとか。何が怖いかとか。今だって、聞かれたら、分かんない所があります」


「そこまで決めてからでないと使えない、ということはありません」


「じゃあ、そのままでも」


「はい。ただ、その一言で怖さがなくなるとは、約束できません」


 千帆はうなずき、机から少し身を引いた。


「なくなってほしいですけど」


 笑いかけて、笑わなかった。

 早苗も、分かります、とは言わずに待った。


「家では、前より話してます。母に、もう大丈夫なのって聞かれると、大丈夫って言いそうになりますけど」


 早苗は利用前の状況を、短く書いた。怖さを言えず退部し、卒業後は運動から離れている。

 千帆はその字を読み、卒業後、という所で止まった。


「速かった人のことも、今でも、むかつくときがあります。先生にそれを言いたいんじゃないんです。でも、そういうのも、あって」


 早苗はペンを置いた。

 しばらくして、千帆が十二字の方へ指を戻した。


「こっちです。怖いって言いたかったのは、ほんとです」


 一生に一回であること、結果を選べないことを、早苗はもう一度伝えた。使った本人だけが前と後の記憶を持ち、早苗は変わった後しか覚えない。

 千帆は途中で、二つあったら混ざりませんか、と聞いた。


「順番が曖昧になる方もいます。全部を正確に覚えられる、ということではありません」


「そっか」


 千帆は鞄の中のジャージを見た。


「使いたいです。今は、そう思ってます」


 今夜、そのまま動かす必要はなかった。

 翌週の金曜なら、帰る時間に余裕が取れるという。

 早苗はその夜の予定を確かめ、ほかの予約がないことを見た。

 開始前に、変わらず使う意思があるか、改めて尋ねることも伝えた。


「また、迷ってもいいんですね」


「はい。服を入れる前に、相談してください」


 千帆は鞄からジャージを出しかけ、そのまま口を閉め直した。

 ここへ預けていかなくてもよかった。

 次に持ってくるまでは、家で着ても、着なくても、彼女の服だった。


 受付を出ると、通常機を使いに来た人が、一台の前で待っていた。

 早苗は相談中の札を戻し、表示を一緒に確かめる。

 千帆は入口で靴の先をそろえ、少し待ってから、会釈して帰った。

 その姿を見送っている間に、早苗は自分の一文も、同じように短くできるのだろうかと思った。

 平気ではない。それから先に、一緒に考えてほしかった。

 昔の自分は、二つを一度に言おうとして、どちらも言わなかった。


 机へ戻り、控え帳を施錠した。

 千帆の十二字を、自分のための答えへ使うことはしない。

 住居の棚の奥に、淡い青のブラウスが掛かっている。

 今夜も、その位置へ手を伸ばす必要はなかった。

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