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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第3章 戻らないために

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第15話 休むと言えた日

 八月最初の金曜、千帆はジャージを、腕に抱えて持ってきた。

 白い札の名前が、畳んだ布の間から見えている。

 早苗は控え帳を開き、前に選んだ十二字を見せた。


「今夜、使いますか」


 千帆は一度読んで、はい、と答えた。

 場面と相手を確かめ、ジャージのポケットを自分で探る。空だった。


 七番機の蓋を閉じるとき、袖が縁へ残った。

 千帆はあ、と声を上げ、開け直した。布を押し込まず、畳む向きを変えて入れる。

 ボタンへ触れると、水の音がした。


「ほんとに、動くんだ」


 抜かれたコードを見て、それから早苗を見た。

 早苗もうなずいた。千帆が受付の椅子へ座ってから、開始時刻を控え帳へ書く。


 待つ間、千帆は電車の時刻を二度見た。

 早苗は店の忘れ物を片付けた。籠の底に残っていたハンカチを、見つけた機械の番号を書いた札と一緒に箱へ入れる。

 戻ると、千帆はスマホを膝へ置いていた。


「家には、遅くなるって言ってあります」


「はい」


「何時に帰るか、聞かれたので。終わったら連絡するって」


 千帆は言い終えてから、まだ明るい画面を消した。

 三十分ほどで、七番機の音が止まった。


 千帆は顔を上げたが、椅子から立たなかった。


「コーンを洗ったんです、私」


 早苗は、机へ置いた帳面から目を離した。


「卒業の前。下の所に砂が詰まってて。水を入れたら、変な所から出て、靴がびしょびしょになって」


 千帆は自分の靴を見た。

 今は乾いている。

 早苗には、彼女が休んだ後、部の補助をするようになったと聞いた記憶があった。

 控え帳を開く。


 怖さを言えず退部し、卒業後は運動から離れている。


 自分の字を読んでいる間にも、千帆は続けた。


「前の方には、その日がないんです。コーンの、あの穴をふさいでた砂のことも、知らなくて」


 早苗はペンを取らず、顔を上げた。


「先生には、話せたんですね」


「はい。怖いって言ったら、最初、うん、って。それだけで。聞こえなかったのかなと思いました」


 顧問は少し黙った後、次の練習をどうするか聞いたという。

 千帆は、考えたくないと答えた。


「そんなこと言っていいのかって、自分でも思いました。でも、その日は、今週は休もうって話になって。戻る日も、決められなくて」


 千帆は椅子の脚の近くへ、足を引いた。


「休んでも、学校で会うじゃないですか。走ってる子にも。今日は何したのって、聞かなきゃいいのに聞いて、後で嫌になって」


 顧問とは、ほかに話を聞いてもらえる場所についても相談した。

 それでも、部へ行かない日が続いた。家ではジャージをしまい、着ていく物を選ぶたび、棚の奥を見た。


「夏に、道具を返しに行ったんです。辞めるつもりで。そしたら、コーンの数が合わなくて、数え直すのを手伝って」


 次には、短い時間だけ寄った。

 その後、練習を手伝う係を顧問と相談して引き受けた。


「みんなのために、って、そんなのじゃないです。私がいないと困るでしょって、思った日もあります。走る子の方が、大事にされてる気がして」


 早苗はうなずいた。

 千帆はすぐに、でも、と続けかけて、やめた。

 外を車が一台通った。カーテンの下の明るい所を、影が横切る。


「最後の日は、走る子も一緒に片付けたんです。卒業の前に。ホース、貸してって言われて、渡して」


 千帆は両手を見た。


「私、靴濡れてるよって笑われて。そっちだって、って言って。あのときは、何秒で走ったとか、考えてなかったです」


 机の端にあるティッシュを、千帆が一枚取った。

 折って持ったまま、しばらく黙る。

 早苗も椅子へ座り直した。


「よかったかは、まだ分かんないです」


 千帆が言った。


「辞めた方の私が、逃げたみたいになるのも嫌だし。でも、あの片付けの日は、覚えていたいです」


 早苗は、卒業まで補助を続けたことと、最後の片付けに参加したことを、控え帳へ書いた。

 途中まで書いた所を、本人へ向ける。


「走った大会の結果は、同じだと思います。最後に出た大会も。休んだ後に、試合で走った記憶はないです」


 その確認を足し、今の運動については、まだ何も決めていないと記した。

 千帆は読んで、はい、と答えた。

 濡れた靴の話は、書かずに残った。


 千帆のスマホが短く鳴った。

 画面を見て、彼女はあ、と言った。


「部の子です。帰省してるから、お茶しないって」


 指が画面へ触れ、止まった。


「この子と、卒業してからも会ってたんだ。こっちでは」


 早苗は帳面を閉じた。

 千帆は相手の文を読み直している。


「前の方では、卒業してから話してないです。誘われなかったのか、私が返さなかったのか……そこは、うまく分かれない。でも、今、返す相手はいるんですね」


 短い文を打ち、消した。


「会いたいけど、走ってる話になったら、嫌かも。元気そうだったら、それも、嫌かもしれないです」


 早苗は返事を探した。

 千帆の指が先に動いた。


「とりあえず、いつまでいるかだけ、聞きます。今日は、そこまでで」


 送ってから、スマホを伏せた。

 画面の光が消えても、千帆は少し、その位置を見ていた。


 七番機の前へ戻り、服を取り出した。

 千帆がファスナーを開ける。内側の脇、早苗が直した裾より少し上に、白い文字があった。


 『もう走ることが、怖いです』


「これ、人に見られたら」


 千帆は裏から表へ返した。白い文字は隠れた。


「ここでお聞きしたことは、私からは話しません」


 早苗が言うと、千帆はうなずいた。

 裾を持ち上げ、もう一度内側を見る。


「見せたい日も、あるかもしれないです。今日は、まだ」


 ジャージを畳み、鞄へしまった。

 名札を外へ出すか迷い、そのまま口を閉じる。


 帰る前、千帆は電車の時刻を見た。


「走れば、一本前に間に合うかも」


 画面を早苗へ向けかけて、引っ込めた。


「いや、乗換えがある。たぶん、同じです」


 二人で小さく笑った。

 千帆は家へ連絡を送り、スマホをしまった。


「今日は、歩いて帰ります」


 ガラス戸を開けると、夜の空気が入ってきた。

 千帆は歩道へ出てから、鞄を肩へ掛け直した。駅の方へ向く前に、一度だけ、早苗へ頭を下げた。


 店へ戻ると、七番機は止まっていた。

 早苗は白い停止札を掛け直した。

 受付の机には、千帆が折ったティッシュが一枚、使わないまま残っていた。

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