第16話 誰かの隣を走る
店の掲示板へ紙を貼るとき、千帆は一番下の段を選んだ。
買物袋を置いて腰を下ろした人にも、見やすい高さだった。
地域の練習会の案内。歩く人も、ゆっくり走る人も参加できる、小さい集まりだという。
早苗は空いている場所を示し、紙の端が浮かないように押さえた。
「宮坂さんが、参加されるんですか」
「最初は、手伝いに行きます。受付とか、道具を並べる方で」
千帆はテープを切り、指から離した。
八月の半ばだった。
七番機を使った後にも、家では例のジャージを着ていると聞いていた。
彼女の方から、案内を貼れるか尋ねに来たのだった。
「走る方は、まだ、どうするか分からないので。手伝いで行ってもいいか、先に聞きました」
主催者からの返事は、初めは見ているだけでもいい、というものだった。
手伝えることがあれば、当日、相談して決める。
千帆はその返事を見て、行ってみようと思ったという。
「でも、向いてるかは、分かんないです。学校でちょっとやったからって、知らない場所でも、すぐできるわけじゃないので」
早苗は、向いていますよとは言わなかった。
千帆が初めての場所でどう動くかを、自分はまだ知らない。
掲示を見ながら、紙の地図の入口を確かめた。
店からは、歩いて十五分ほどの広場だった。
「時間が合えば、少し、のぞいてもいいですか」
「はい。でも、見に来られると、ちゃんとやらなきゃってなるかも」
千帆が笑った。
早苗は、見学というより、私も参加してみたくて、と返した。
自分も、家と店の往復以外に、近所のことを知りたかった。
当日の朝、清掃を終えた早苗は、帽子を持って広場へ行った。
到着すると、木陰の机の横で、千帆が腕時計を見ていた。
例のジャージは着ていない。薄いシャツに、動きやすそうなズボンだった。
早苗は受付の人へ挨拶し、案内を見て来たことを伝えた。
「歩く方もありますよ。途中まででも」
勧められ、早苗は短い方の道を選んだ。
千帆に会うだけなら、机の前で立ち話をして帰れた。
でも、来たからには、知らない道を少し歩いてみたかった。
受付の用紙へ名前を書き、借りる物はないことを確かめる。
千帆は別の担当者から、コーンを置く場所を聞いていた。
「この角から先、ここまでで合ってますか」
彼女は自分の理解した範囲を、指で示した。
相手が一つ手前だと直すと、うなずいて持ち直す。
早苗はそこで視線を外し、歩く人の集まる方へ向かった。
広場の外へ出る道は、普段、駅へ行く道とは違っていた。
同じ住宅地の裏に、低い塀の続く細い通りがある。
前を歩く人が、曲がり角の鉢植えを見て立ち止まった。
早苗も少し遅れて止まる。
誰かが競うわけではなくても、人と同じ道を行くには、自分の足元以外も見る必要があった。
広場へ戻ったとき、千帆は片付ける道具の数を確かめていた。
その横で、一人の女性が、次回の案内の字を読むために紙を顔へ近づけている。
富美だった。
「あら、早苗さんも来たの」
「少し、歩きました。安田さんは?」
「途中まで。次も来られるかと思ったら、案内が、この中にあるって」
富美がスマホを示した。
地域の催しを知らせる画面は開いているが、別の日の案内が上に出ている。
早苗もその画面の使い方は、よく知らなかった。
どこへ触ればいいのか、二人で考えていると、千帆が近づいてきた。
「次の練習会の日ですか。いま、開いても大丈夫ですか」
富美は、自分で持ったまま見せた。
千帆は画面を勝手に受け取らず、ここを少し下へ、と指を添える。
富美が動かし過ぎると、少し戻す所も教えた。
次回の日付が見える。
「これ、閉じたら、また迷うわね」
富美が言い、千帆へ、もう一回、自分でやってみてもいいかと頼んだ。
千帆は、はい、と答えた。
早苗は横で見ていたが、二人の間の画面を奪って、代わりに終えることはしなかった。
「できた。これなら、自分で見られる」
富美はうなずき、礼を言った。
教えた千帆の方も、どこで分かりにくくなるのかが分かったように、画面を見ていた。
「最初、私は日付だけ見て、こっちも同じだと思ってました。場所が違ったので、行く前に気づいてよかったです」
その後、富美は借りた小さい道具を受付へ返しに行った。
早苗は空いた机の端を拭くのを手伝い、使った布を、別の籠へ分けた。
「私も、一個、コーンの位置を間違えました」
千帆が小声で言った。
「でも、聞いたから、置く前に直せたんですよね」
早苗が言うと、千帆は、はい、と返した。
それから少し考え、今日できたのは、そこまでです、と笑う。
「走ってる人を見て、まだ、目を離したくなるときはありました。手伝ってたら全部平気、ではなかったです」
早苗は彼女が片付けた道具を見た。
「次は、受付の方を、少しだけやってみます。帰る時刻を、先に決めて」
千帆は主催者に相談したことを話した。
休みたいときに伝える相手も、確かめたという。
早苗は本人の決めた時刻を、自分の店の予定へ置き換えそうになった。
それはそれぞれ、自分で考えておけばよかった。
机の向こうから、次の片付けを頼む声がした。
千帆はすぐに全部を引き受けず、どこまでなら今の時間で終えられるかを聞いた。
担当者と二人で数を確かめ、半分ずつ持つことにする。
早苗は自分が拭いた机の布を返し、別れの挨拶をした。千帆が次に何をして帰るかまで、その場へ残って見続ける必要はなかった。
帰り道、富美と途中まで歩いた。
次の催しの画面を開くのに、まだ少し時間がかかると、富美は言った。
「分かる人に頼む方が早いわね。でも、自分で見る所を、一つだけでも覚えたいの」
早苗はうなずいた。
店へ戻ると、通常の洗濯機を使う客が二組いた。
誰も、早苗がどこへ行っていたかを尋ねない。
必要な案内は入口へ出してある。
受付を開けるまで、まだ時間があった。
早苗は住居へ戻り、水を飲んだ。
自分の足で歩いた後の、椅子へ座る感覚があった。
手帳を開き、来月、叔母へ会いに行くための連絡を入れる。
聞きたいことがある、と添えた。
自分が管理を始める前、千鶴がどんな一度を使ったのか。
最初の頁を読むだけで済ませず、本人が話してくれる所まで、ちゃんと聞いてみたかった。




