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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第3章 戻らないために

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第16話 誰かの隣を走る

 店の掲示板へ紙を貼るとき、千帆は一番下の段を選んだ。

 買物袋を置いて腰を下ろした人にも、見やすい高さだった。

 地域の練習会の案内。歩く人も、ゆっくり走る人も参加できる、小さい集まりだという。

 早苗は空いている場所を示し、紙の端が浮かないように押さえた。


「宮坂さんが、参加されるんですか」


「最初は、手伝いに行きます。受付とか、道具を並べる方で」


 千帆はテープを切り、指から離した。

 八月の半ばだった。

 七番機を使った後にも、家では例のジャージを着ていると聞いていた。

 彼女の方から、案内を貼れるか尋ねに来たのだった。


「走る方は、まだ、どうするか分からないので。手伝いで行ってもいいか、先に聞きました」


 主催者からの返事は、初めは見ているだけでもいい、というものだった。

 手伝えることがあれば、当日、相談して決める。

 千帆はその返事を見て、行ってみようと思ったという。


「でも、向いてるかは、分かんないです。学校でちょっとやったからって、知らない場所でも、すぐできるわけじゃないので」


 早苗は、向いていますよとは言わなかった。

 千帆が初めての場所でどう動くかを、自分はまだ知らない。

 掲示を見ながら、紙の地図の入口を確かめた。

 店からは、歩いて十五分ほどの広場だった。


「時間が合えば、少し、のぞいてもいいですか」


「はい。でも、見に来られると、ちゃんとやらなきゃってなるかも」


 千帆が笑った。

 早苗は、見学というより、私も参加してみたくて、と返した。

 自分も、家と店の往復以外に、近所のことを知りたかった。


 当日の朝、清掃を終えた早苗は、帽子を持って広場へ行った。

 到着すると、木陰の机の横で、千帆が腕時計を見ていた。

 例のジャージは着ていない。薄いシャツに、動きやすそうなズボンだった。

 早苗は受付の人へ挨拶し、案内を見て来たことを伝えた。


「歩く方もありますよ。途中まででも」


 勧められ、早苗は短い方の道を選んだ。

 千帆に会うだけなら、机の前で立ち話をして帰れた。

 でも、来たからには、知らない道を少し歩いてみたかった。

 受付の用紙へ名前を書き、借りる物はないことを確かめる。

 千帆は別の担当者から、コーンを置く場所を聞いていた。


「この角から先、ここまでで合ってますか」


 彼女は自分の理解した範囲を、指で示した。

 相手が一つ手前だと直すと、うなずいて持ち直す。

 早苗はそこで視線を外し、歩く人の集まる方へ向かった。


 広場の外へ出る道は、普段、駅へ行く道とは違っていた。

 同じ住宅地の裏に、低い塀の続く細い通りがある。

 前を歩く人が、曲がり角の鉢植えを見て立ち止まった。

 早苗も少し遅れて止まる。

 誰かが競うわけではなくても、人と同じ道を行くには、自分の足元以外も見る必要があった。


 広場へ戻ったとき、千帆は片付ける道具の数を確かめていた。

 その横で、一人の女性が、次回の案内の字を読むために紙を顔へ近づけている。

 富美だった。


「あら、早苗さんも来たの」


「少し、歩きました。安田さんは?」


「途中まで。次も来られるかと思ったら、案内が、この中にあるって」


 富美がスマホを示した。

 地域の催しを知らせる画面は開いているが、別の日の案内が上に出ている。

 早苗もその画面の使い方は、よく知らなかった。

 どこへ触ればいいのか、二人で考えていると、千帆が近づいてきた。


「次の練習会の日ですか。いま、開いても大丈夫ですか」


 富美は、自分で持ったまま見せた。

 千帆は画面を勝手に受け取らず、ここを少し下へ、と指を添える。

 富美が動かし過ぎると、少し戻す所も教えた。

 次回の日付が見える。


「これ、閉じたら、また迷うわね」


 富美が言い、千帆へ、もう一回、自分でやってみてもいいかと頼んだ。

 千帆は、はい、と答えた。

 早苗は横で見ていたが、二人の間の画面を奪って、代わりに終えることはしなかった。


「できた。これなら、自分で見られる」


 富美はうなずき、礼を言った。

 教えた千帆の方も、どこで分かりにくくなるのかが分かったように、画面を見ていた。


「最初、私は日付だけ見て、こっちも同じだと思ってました。場所が違ったので、行く前に気づいてよかったです」


 その後、富美は借りた小さい道具を受付へ返しに行った。

 早苗は空いた机の端を拭くのを手伝い、使った布を、別の籠へ分けた。


「私も、一個、コーンの位置を間違えました」


 千帆が小声で言った。


「でも、聞いたから、置く前に直せたんですよね」


 早苗が言うと、千帆は、はい、と返した。

 それから少し考え、今日できたのは、そこまでです、と笑う。


「走ってる人を見て、まだ、目を離したくなるときはありました。手伝ってたら全部平気、ではなかったです」


 早苗は彼女が片付けた道具を見た。


「次は、受付の方を、少しだけやってみます。帰る時刻を、先に決めて」


 千帆は主催者に相談したことを話した。

 休みたいときに伝える相手も、確かめたという。

 早苗は本人の決めた時刻を、自分の店の予定へ置き換えそうになった。

 それはそれぞれ、自分で考えておけばよかった。


 机の向こうから、次の片付けを頼む声がした。

 千帆はすぐに全部を引き受けず、どこまでなら今の時間で終えられるかを聞いた。

 担当者と二人で数を確かめ、半分ずつ持つことにする。

 早苗は自分が拭いた机の布を返し、別れの挨拶をした。千帆が次に何をして帰るかまで、その場へ残って見続ける必要はなかった。


 帰り道、富美と途中まで歩いた。

 次の催しの画面を開くのに、まだ少し時間がかかると、富美は言った。


「分かる人に頼む方が早いわね。でも、自分で見る所を、一つだけでも覚えたいの」


 早苗はうなずいた。


 店へ戻ると、通常の洗濯機を使う客が二組いた。

 誰も、早苗がどこへ行っていたかを尋ねない。

 必要な案内は入口へ出してある。

 受付を開けるまで、まだ時間があった。


 早苗は住居へ戻り、水を飲んだ。

 自分の足で歩いた後の、椅子へ座る感覚があった。

 手帳を開き、来月、叔母へ会いに行くための連絡を入れる。

 聞きたいことがある、と添えた。

 自分が管理を始める前、千鶴がどんな一度を使ったのか。

 最初の頁を読むだけで済ませず、本人が話してくれる所まで、ちゃんと聞いてみたかった。

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