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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第3章 戻らないために

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第17話 叔母さんが洗った服

 千鶴は、早苗の持ってきた紙袋より、早苗の顔を先に見た。


「少し、日焼けした?」


「この前、近所を歩いたから。ちゃんと帽子はかぶったんだけど」


「そう。店の中だけにいると、季節を、洗濯物の量で覚えるから」


 九月の午後、早苗は叔母の療養先を訪ねた。

 電車とバスを乗り継いで、一時間余りだった。

 会う時刻は、千鶴の都合を確かめてから決めた。今日は部屋でゆっくり話せるというので、ほかの予定は入れずに来た。


 紙袋には、頼まれた薄い上着と、小さい菓子が入っている。

 菓子は早苗が食べたい方も一つ選んだ。

 叔母がそちらを先に指したので、袋を開ける前から、二人で笑った。


「じゃあ、半分にしよう」


 早苗が言うと、千鶴は、そうしましょう、と答えた。

 買ってきた物へ、すぐ役割が決まった。


 店の普通の報告から始めた。

 補修の受付は、水曜を休みにした。大きい直しは、外の専門店へ見積りを頼んでいる。

 初月より依頼は増えたが、毎月同じだけ来るとは、まだ分からない。

 千鶴は数字を聞き、記録の置き場所を確かめた。

 早苗は、洗濯機の売上と自分の収入は分けていると答える。


 先月の補修の利益は、材料代などを引いて、三万四千円ほどだった。

 初めに置いた目標へ、少し近づいている。それでも、糸をまとめて買う月と、そうでない月は違う。

 千鶴も、もう安心ねとは言わず、依頼の数と、受付に使っている時間の方を聞いた。

 日常のことを済ませてから、持ってきた控え帳を取り出した。


「叔母さんの頁、ここで見てもいい?」


「ええ。ほかの人の所は、閉じたままにしておいて」


 早苗は最初の方だけを開いた。

 管理の注意の後に、日付と、服と、一文が記してある。

 使ったのは、早苗の母へ言葉を届けるためだった。

 千鶴がまだ三十代のときの、記録だった。


「頼ってくれたら、うれしい」


 早苗が読むと、千鶴はうなずいた。

 何度も読むために、紙を古くしたような顔ではなかった。

 けれど、その文の書いてある位置へは、迷わず目を向けた。


「お母さんへ、言えなかったの?」


「そう。あの子が、一人で片付けようとしていた日に」


 選んだ場面は、三十年前の秋、妹の家の食卓だった。

 早苗は五歳で、その日は別の部屋で遊んでいたという。

 千鶴と妹の二人だけが、食卓の所にいた。

 妹が仕事と家の用事の話をし、千鶴は手伝えることを考えた。

 そのとき着ていたのは、茶色の長袖シャツだった。


「手を貸そうかって聞くより先に、向こうが、できるからって言ったのよ。私も、そう、それならよかったって」


 千鶴は自分の膝へ目を落とした。


「本当は、頼ってもらったら、私はうれしいのに。そう言えば、邪魔をするつもりじゃないって伝わるかもしれないと思った。でも、口にしなかった」


 早苗は控え帳の服の記載と、場面を確かめた。

 使ったのは、その日から一年余り後だった。

 服は千鶴が買い、ずっと自分で持っていた物だった。


「シャツも、まだある?」


「持ってきてもらったの。そこの、下の袋」


 千鶴が指す先を、早苗は確かめてから開けた。

 薄い布へ包んだ、茶色のシャツがある。

 襟の折れる部分は柔らかくなり、ボタンは一つだけ、形がわずかに違っていた。

 早苗は叔母の許可を得て、裏を開く。

 白い文字が、脇の内側に並んでいた。


 『頼ってくれたら、うれしい』


 表から見えない所に残る、小さい一文だった。

 早苗は字の上へ爪を掛けず、布の端を持ったまま読んだ。


「前の方は、どうだったの」


 尋ねると、千鶴は少し考えた。


「大きい違いを、全部、私が説明できるわけじゃない。あの子が何を考えていたかは、今も、聞いた分しか知らないし」


 古い方の記憶では、妹からの連絡が減っていた。

 千鶴が、何かあったら連絡して、と言うたび、何もないから大丈夫と返ってきた。

 当時始めた店も忙しく、千鶴自身も、連絡の減った分を、仕事で埋めた。

 互いに、邪魔をしないことが、よい関わり方のようになっていったという。


「今の方では、頼ってくれた?」


「何回かはね。買物を一つ頼まれたのが、最初だったと思う。それから、早苗を少し預かったこともあった」


 早苗は、叔母の家で折り紙をした記憶を探した。

 それは確かにあった。千鶴の店の椅子で眠くなった日も覚えている。

 でも、それが言葉の届かなかった人生にもあったかは、自分には分からない。

 控え帳を読んでも、古い方を、自分の記憶に足すことはできなかった。


「じゃあ、私の覚えてることは、変わった後なんだね」


「ええ。そう」


 千鶴は簡単にうなずいた。

 それから、シャツを畳む早苗の手元を見た。


「だからって、あなたのお母さんが、いつでも楽に頼める人になったわけじゃない。私が、どんな頼みでも引き受けられる人になったわけでもないのよ」


 都合がつかず、断った日もあった。

 互いの言い方で、気まずくなったこともある。

 早苗が子どものころ、家の中で我慢した日や、待った時間が、全部なかったことになったのではなかった。


「あの一言で、早苗の子ども時代まで、よかったことにしないでね。私がよく覚えてるのは、私の所へ届いた違いだから」


 早苗はシャツの袖を重ねた。

 母へ尋ねたら、叔母と同じ二つの人生の比較は、返ってこないだろう。

 母には、いまの一つしかない。


「叔母さんも、お客さんの後は、帳面を見たんだね」


「もちろん。自分で書いた字を、自分が知らないと思うことが、何度もあった」


「慣れる?」


「帳面を見る手順には。でも、知らない話を、知っていたふりをしないのには、毎回、気をつけたわ」


 早苗はうなずいた。

 自分だけが、すぐに管理人らしくなれないのではなかった。


「私、誰かに、使ってよかったって言ってもらいたくなる。何も約束してないって説明したのに、終わると、安心したくて」


 千鶴は、早苗の顔を見た。


「そうね。私もあったと思う。でも、使った人が話すことを、こちらの安心のために、短くしない方がいい」


 答えは、それ以上、きれいに整わなかった。

 早苗は自分の手で、控え帳を閉じた。

 使わなかった人の名前を記す欄を、作らずにいたことを思い出す。

 使った人の感想も、良い悪いの二つへ分けずに残していこうと思った。


 帰る前、千鶴は、暮らす方はどう、と尋ねた。

 早苗は糸と食器の置き場所、それから近所の道の話をした。

 自分のブラウスのことも、話した。

 千鶴は、使えばいいとも、使わない方がいいとも言わなかった。


「あの部屋で、寝られてる?」


 聞かれ、早苗は、うん、と答えた。

 それが今日は、無理に相手を安心させるためだけの返事ではなかった。

 店へ戻るバスの時刻を見て、自分から、そろそろ帰るねと言った。

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