第17話 叔母さんが洗った服
千鶴は、早苗の持ってきた紙袋より、早苗の顔を先に見た。
「少し、日焼けした?」
「この前、近所を歩いたから。ちゃんと帽子はかぶったんだけど」
「そう。店の中だけにいると、季節を、洗濯物の量で覚えるから」
九月の午後、早苗は叔母の療養先を訪ねた。
電車とバスを乗り継いで、一時間余りだった。
会う時刻は、千鶴の都合を確かめてから決めた。今日は部屋でゆっくり話せるというので、ほかの予定は入れずに来た。
紙袋には、頼まれた薄い上着と、小さい菓子が入っている。
菓子は早苗が食べたい方も一つ選んだ。
叔母がそちらを先に指したので、袋を開ける前から、二人で笑った。
「じゃあ、半分にしよう」
早苗が言うと、千鶴は、そうしましょう、と答えた。
買ってきた物へ、すぐ役割が決まった。
店の普通の報告から始めた。
補修の受付は、水曜を休みにした。大きい直しは、外の専門店へ見積りを頼んでいる。
初月より依頼は増えたが、毎月同じだけ来るとは、まだ分からない。
千鶴は数字を聞き、記録の置き場所を確かめた。
早苗は、洗濯機の売上と自分の収入は分けていると答える。
先月の補修の利益は、材料代などを引いて、三万四千円ほどだった。
初めに置いた目標へ、少し近づいている。それでも、糸をまとめて買う月と、そうでない月は違う。
千鶴も、もう安心ねとは言わず、依頼の数と、受付に使っている時間の方を聞いた。
日常のことを済ませてから、持ってきた控え帳を取り出した。
「叔母さんの頁、ここで見てもいい?」
「ええ。ほかの人の所は、閉じたままにしておいて」
早苗は最初の方だけを開いた。
管理の注意の後に、日付と、服と、一文が記してある。
使ったのは、早苗の母へ言葉を届けるためだった。
千鶴がまだ三十代のときの、記録だった。
「頼ってくれたら、うれしい」
早苗が読むと、千鶴はうなずいた。
何度も読むために、紙を古くしたような顔ではなかった。
けれど、その文の書いてある位置へは、迷わず目を向けた。
「お母さんへ、言えなかったの?」
「そう。あの子が、一人で片付けようとしていた日に」
選んだ場面は、三十年前の秋、妹の家の食卓だった。
早苗は五歳で、その日は別の部屋で遊んでいたという。
千鶴と妹の二人だけが、食卓の所にいた。
妹が仕事と家の用事の話をし、千鶴は手伝えることを考えた。
そのとき着ていたのは、茶色の長袖シャツだった。
「手を貸そうかって聞くより先に、向こうが、できるからって言ったのよ。私も、そう、それならよかったって」
千鶴は自分の膝へ目を落とした。
「本当は、頼ってもらったら、私はうれしいのに。そう言えば、邪魔をするつもりじゃないって伝わるかもしれないと思った。でも、口にしなかった」
早苗は控え帳の服の記載と、場面を確かめた。
使ったのは、その日から一年余り後だった。
服は千鶴が買い、ずっと自分で持っていた物だった。
「シャツも、まだある?」
「持ってきてもらったの。そこの、下の袋」
千鶴が指す先を、早苗は確かめてから開けた。
薄い布へ包んだ、茶色のシャツがある。
襟の折れる部分は柔らかくなり、ボタンは一つだけ、形がわずかに違っていた。
早苗は叔母の許可を得て、裏を開く。
白い文字が、脇の内側に並んでいた。
『頼ってくれたら、うれしい』
表から見えない所に残る、小さい一文だった。
早苗は字の上へ爪を掛けず、布の端を持ったまま読んだ。
「前の方は、どうだったの」
尋ねると、千鶴は少し考えた。
「大きい違いを、全部、私が説明できるわけじゃない。あの子が何を考えていたかは、今も、聞いた分しか知らないし」
古い方の記憶では、妹からの連絡が減っていた。
千鶴が、何かあったら連絡して、と言うたび、何もないから大丈夫と返ってきた。
当時始めた店も忙しく、千鶴自身も、連絡の減った分を、仕事で埋めた。
互いに、邪魔をしないことが、よい関わり方のようになっていったという。
「今の方では、頼ってくれた?」
「何回かはね。買物を一つ頼まれたのが、最初だったと思う。それから、早苗を少し預かったこともあった」
早苗は、叔母の家で折り紙をした記憶を探した。
それは確かにあった。千鶴の店の椅子で眠くなった日も覚えている。
でも、それが言葉の届かなかった人生にもあったかは、自分には分からない。
控え帳を読んでも、古い方を、自分の記憶に足すことはできなかった。
「じゃあ、私の覚えてることは、変わった後なんだね」
「ええ。そう」
千鶴は簡単にうなずいた。
それから、シャツを畳む早苗の手元を見た。
「だからって、あなたのお母さんが、いつでも楽に頼める人になったわけじゃない。私が、どんな頼みでも引き受けられる人になったわけでもないのよ」
都合がつかず、断った日もあった。
互いの言い方で、気まずくなったこともある。
早苗が子どものころ、家の中で我慢した日や、待った時間が、全部なかったことになったのではなかった。
「あの一言で、早苗の子ども時代まで、よかったことにしないでね。私がよく覚えてるのは、私の所へ届いた違いだから」
早苗はシャツの袖を重ねた。
母へ尋ねたら、叔母と同じ二つの人生の比較は、返ってこないだろう。
母には、いまの一つしかない。
「叔母さんも、お客さんの後は、帳面を見たんだね」
「もちろん。自分で書いた字を、自分が知らないと思うことが、何度もあった」
「慣れる?」
「帳面を見る手順には。でも、知らない話を、知っていたふりをしないのには、毎回、気をつけたわ」
早苗はうなずいた。
自分だけが、すぐに管理人らしくなれないのではなかった。
「私、誰かに、使ってよかったって言ってもらいたくなる。何も約束してないって説明したのに、終わると、安心したくて」
千鶴は、早苗の顔を見た。
「そうね。私もあったと思う。でも、使った人が話すことを、こちらの安心のために、短くしない方がいい」
答えは、それ以上、きれいに整わなかった。
早苗は自分の手で、控え帳を閉じた。
使わなかった人の名前を記す欄を、作らずにいたことを思い出す。
使った人の感想も、良い悪いの二つへ分けずに残していこうと思った。
帰る前、千鶴は、暮らす方はどう、と尋ねた。
早苗は糸と食器の置き場所、それから近所の道の話をした。
自分のブラウスのことも、話した。
千鶴は、使えばいいとも、使わない方がいいとも言わなかった。
「あの部屋で、寝られてる?」
聞かれ、早苗は、うん、と答えた。
それが今日は、無理に相手を安心させるためだけの返事ではなかった。
店へ戻るバスの時刻を見て、自分から、そろそろ帰るねと言った。




