第18話 今の連絡先
尚之の連絡先は、消さずに残していた。
ただ、上に並ぶ名前が増え、用事を送らない期間が長くなるにつれ、見えない所へ下がっていた。
十月のある夕方、その名前が久しぶりに一番上へ来た。
『こちらへ届いた封書が二つある。今の住所へ送っていい?』
早苗は受付の作業を止め、文を読み直した。
元の住所へ届く物については、送付先を一つずつ変えてきたつもりだった。
でも、何かを、まだ変え忘れている。
封書の外側にある送り主だけを教えてもらい、早苗は、自分で連絡する所を手帳へ書いた。
中身を開けてもらう必要はなかった。
『ありがとう。前に伝えた住所のままで大丈夫です』
そこまで打ち、送った。
変わらない住所を知らせた、ただの事務連絡だった。
画面を伏せれば、やり取りはそこで終えられた。
作業台には、子ども用の上着が広がっている。
名札の位置を変えたいという依頼だった。古い縫い目を外すときに布を傷めないよう、早苗は一針ずつ糸を拾っていた。
途中で手を止めたままだったことに気づき、針を針山へ戻した。
話の続きを考えながら、他人の服へ刃を入れたくなかった。
受付の外から、声がした。
二番機の前で、客が困った顔をしている。
いつもの表示へ戻らず、運転を始められないという。
早苗は表示と、説明のある箇所を確かめたが、その場で直せる範囲ではなかった。
「確認のため、この機械は使わないようにします。別の空いている物をご案内してもよろしいですか」
客へ先に説明し、通常設備の連絡先へ確認した。
案内に従って使用を止める札を出し、修理の担当へ表示の内容を伝える。
来てもらえるのは、翌朝だった。
清掃の時刻と重なるので、その間の補修作業は、後へずらすことにした。
客は空いている一番機で、洗濯を始めた。
早苗が二番機の前へ戻ると、別の人が奥の機械を見ていた。
「あっちも、止まってるの?」
七番機の白い札を指している。
「あちらは、普通の洗濯用には使えません。ご利用頂けるのは、こちらです」
早苗は空いている通常機を示した。
相談を求められてもいない所で、七番機の話を始めることはなかった。
時計を見ると、受付を閉めるまで、あと二十分だった。
名札の位置を決める依頼者が来る予定は、明日だ。
早苗は引き受けた範囲を確かめ、古い糸を外した所までで片付けた。
明朝の保守の立会いを含めても、約束した時刻には間に合う。
七時に札を返し、住居へ戻った。
スマホには、尚之から、分かった、という返事が来ていた。
その下に、念のため、住所を確認する短い文がある。
早苗は自分の分だけを読み、相手の今の暮らしについて、そこから何かを推測するのをやめた。
以前の家に、まだ自分の物が多く残っているわけではない。
封書が来たことだけで、九年間がそのまま待っているように考えたくなかった。
住所の確認を返す。
それから、手が止まった。
尚之がいつも使う、分かった、という短い文を、久しぶりに読んだ。
これで相手に分かってもらえたのか、それとも、聞いたというだけなのか。
昔は、その違いを確かめないまま、早苗も、うん、と返していた。
棚の戸を開くと、淡い青のブラウスがある。
外の空気が冷たくなり、手前のシャツは長袖へ替わっていた。
ブラウスだけは、同じ奥に掛かっている。
早苗は布を取り出さず、戸を閉めた。
その服を着ていた日の尚之と、いま画面の向こうにいる尚之は、同じ一人でも、同じ晩の続きを待っているわけではなかった。
『今度、少し話す時間を取れますか』
打った文を、早苗は消しかけた。
相手が、封書を送るだけでは済まないのかと思うかもしれない。
その不満を先に避けようと、別に急ぎではないし、無理ならいい、と続けたくなった。
そこで、一度、スマホを机へ置いた。
話したいと思った用事まで、自分で取り消す必要があるだろうか。
台所で湯を沸かす。
待つ間に、冷蔵庫の小さい容器を取り出し、夕飯に食べる物を皿へ移した。
まだ送っていない文は、画面に残っていた。
湯が沸いてから、早苗は戻り、短い一文だけを送った。
尚之の返事は、食事を終えた後に来た。
『電話でなく、会って?』
早苗は、会って話せれば、と返した。
何かをその場で決めてもらうためなのか、ただ、言っていないことを聞いてほしいのか。
まだ整理しきれてはいない。
『封書のこととは別に、話せたらと思っています』
そう添えた。
尚之から、分かった、と返る。
今度は、その後に、日程を相談する文が続いた。
食品の仕事は、年末に向けて予定が詰まっているという。
早苗も、すぐ明日と頼む話ではなかった。
年明けの落ち着く時期に、一度、時間を取ることにした。
候補の中から、一月の終わりの水曜を選ぶ。
場所と細かな時刻は、近づいてから、双方の予定を確かめて決める。
それを、どちらかが思い出すのを待つ形にしないよう、早苗は自分の手帳へ、連絡する日も書いた。
『その週で、私から、もう一度連絡します』
送ると、尚之は、ありがとう、と返した。
短い連絡の後、画面は静かになった。
何のために会うのかを、全部分かったふりは、しなかった。
会えば元に戻れるという約束も、そこにはなかった。
翌朝、保守の担当者が来た。
早苗は二番機の前を空け、通常の売上の記録と、異常が出た時刻を渡した。
専門の人が確かめている間は、指示された場所で待つ。
分からないことを、分かる人へ頼んだ。
修理後、どこを確認してから利用を再開すればいいかを聞き、案内の札を戻した。
七番機には触れないまま、通常の店の仕事が一つ終わった。
名札の依頼者は、午後に来た。
早苗が前と同じ側の少し下を示すと、相手は、子どもが自分で見える方を先に聞いてみます、と答えた。
早苗は必要な長さを控え、確認後に縫う約束へ変えた。
その日の夕方、尚之が送ったと知らせてきた。
早苗は受け取ったら連絡すると返した。
封書は封書として、届けば、自分で開ければよかった。
数日後、二通とも手元へ届いた。
一つは以前利用した店からの案内、もう一つは、しばらく読んでいなかった会報だった。
早苗は宛名を見て、送付先だけでなく、名前も古いままの物があると気づいた。
高瀬早苗。九年使った字を、知らない人の名前のようには思えなかった。
それでも、いまの自分へ届く物には、いまの名前を伝えたかった。
必要な手続きを確かめ、手元の登録情報を直す。
案内の紙を残す分と、もう送ってもらわなくてよい分へ分けた。
尚之へは、受け取ったことと、送り主の方へも自分で連絡したことを伝える。
机の隅に積んでいた、ほかの案内も二つ確かめた。
そこまでで、今日はやめることにした。家の中の物を全部整理してからでなければ、誰かと話せないわけではない。
手帳を開くと、水曜の欄はまだ空白の多い先の月にあった。
早苗は前の頁へ戻り、明日受け取る材料のことを確かめた。
尚之へ会う日まで、残りの暮らしを待たせておくつもりはなかった。
作業灯を点け、選んでおいた糸を、針へ通した。




