第19話 式服を出せない弟
式服の袋は、持ち手の所が何度も折り返されていた。
中の服より先に、袋の角が机へ当たった。
野口誠は、すみません、と言いながら、出しかけた物をまた押し戻した。
五十歳だと受付票へ書いた手は大きく、親指の爪の脇に、小さい傷があった。
「襟を、見てほしくて。長い間、しまってたので」
十一月の初め、昼を過ぎると、入口から入る風が冷たくなっていた。
早苗は机の上の布を敷き直し、ここへ、と示した。
誠は袋の口を広げたが、そこでまた止まった。
「親父の退院祝いに、着た物なんです。六年前の」
濃い灰色の上着が、少しずつ出てきた。
早苗は片側が引っ掛かっているのを見て、袋を支えてよいか聞いた。
誠がうなずいたので、底の方を持つ。
二人で角度を変えると、服は引っぱらずに出せた。
「父は、今もいます。もう、その頃と同じように何でもとは、いかないんですけど」
誠は、早苗が何も尋ねていないのに、先にそう言った。
声の響きから、祝いの日の服を持ってきたことが、何か別の意味へ取られるのを避けたかったようにも思えた。
早苗は、そうなんですねと答え、襟へ目を戻した。
汚れの確認だけなら、受付でできる。
早苗は素材と、手入れの表示を見た。
自分の作業台で洗ったり、染み抜きを請け負ったりする物ではなかった。
必要なら、対応できる専門店へ相談してもらう話になると伝える。
「ここでは、全部、できないんですね」
「はい。できる範囲を、先にお伝えしています。内側の小さいほつれなら確認できますが、襟のこの汚れは、専門の方へ見てもらう方がよいと思います」
誠は一度、袋へ目を落とした。
困らせたかと思ったが、早苗は請け負えるふりをしなかった。
彼は少し考え、見てもらうだけでも、と答えた。
上着の前を合わせたとき、ボタンの裏の糸が、一か所だけ長く出ていた。
早苗は引かずに、どこから続いているか確かめた。切れているわけではなく、使う前に手入れすればよい部分だった。
「今、着てみてもいいですか」
誠が尋ねたので、早苗は机の脇を空けた。
腕を通すと、彼は肩を二度動かした。内側のほつれへ指が当たり、ああ、ここか、と言う。
「着られないのかと思って、出すのも面倒だったんです。着られるなら、手入れしておいた方がいいですね」
早苗は預かる前に、本人がどう使いたいかを聞いた。
新しく買う予定はない。急な用事で探し直す前に、今持っている物を確かめたかったのだという。
彼が着替えて戻した上着は、机の上へ平らに広がった。
内側には、ほどけかけた所が一つあった。外からは目立たないが、そのまま腕を通すと引っ掛けそうだった。
「これ、姉がしまったんです。前は」
誠が言った。
早苗は、保管の仕方が原因とは、まだ判断できないと考えていた。
彼は布を見ずに続ける。
「片付ける方は早いんです。でも、必要なときには、こっちへ、どうするって送ってくるだけで」
早苗は、どなたのことですかと聞き返さず、続きを待った。
姉への不満は、式服の話を越えていた。
父のところへ行く予定を立てるのも、日々の買物を気にするのも、最初に自分が考えてきたという。
「向こうは、忙しいって。俺だって、仕事してるんですけどね」
乾燥機を使っていた客が、畳み台へ来た。
早苗は受付票を伏せ、誠へ、込み入ったお話でしたら別の時間にも、と伝えた。
誠は初めて周りを見たように、顔を上げた。
「すみません。服を見てもらいに来たのに」
「補修の確認は、このままで大丈夫です。お話は、ほかの方へ聞こえない方がよろしければ」
彼は少し黙り、七時の後に戻っていいかと尋ねた。
早苗はその晩の予定を確認し、時間を決めた。
式服は今日すぐに預からず、本人が持ち帰ることにした。
できる補修の見積りと、専門店へ尋ねる箇所を、別の紙へ書く。
誠はそれを袋の外側へ入れた。
再び来たとき、彼は先ほどより、ゆっくり服を出した。
袋の隅には、小さい買物の紙が入っていた。
誠はそれを服と分け、鞄へしまった。
「父の所へ寄ってきました。砂糖がないって言われてたので」
早苗は一度、うなずいた。
早苗は受付のカーテンを閉め、椅子を勧めた。
相談の内容は、やはり父と姉のことだった。
「六年前も、姉に言おうと思ってたんです。俺一人じゃ、無理だって。退院したから終わりじゃないのに、その後のことを、みんな、何となく俺がやるつもりで」
早苗は、姉がそう言ったのか、確かめた。
誠は一度、口を閉じた。
「全部とは、言ってないです。でも、俺が父の近くに住んでたので。姉は少し離れてるし、子どものこともあって、来るだけで大変だとは言いました」
早苗は、姉の方の事情を、ここで全て分かったことにはしなかった。
「そのとき、野口さんは、何と答えたんですか」
「大丈夫、こっちで見ておくって」
誠は自分の手を見た。
「何で言ったのか、今なら、分からないです。父の前で、祝いの日に、できない話をしたくなかったのかもしれないけど」
言わなければ、誰が困るかを、彼は先に考えた。
言った後、自分で選んだ役目なのだからと、手伝ってほしいと頼みにくくなった。
早苗はその順序を、口に出して短く確かめた。
誠は、そうです、と答えた。
「姉が何をしてるか、こっちには見えません。何もしてないって、言いたくなる。でも、言うと、そっちだって知らないでしょうって返ってくる」
いまは、必要な連絡を短く送り合うことが多いという。
父のことを話すたび、前に誰が何をしたかまで戻り、同じ所で止まってしまう。
誠はそこで、式服を指した。
「これ、あのとき着たまま、しまってました。着るたび、俺が一言、言ってたらって思いそうで」
早苗は七番機の話を、聞くかどうか尋ねた。
服を使えば姉に協力させられると受け取られたら、先へ進めない。
説明をする前に、相手の反応は選べない話だと伝えた。
誠は戸惑った顔をしたが、聞くと答えた。
早苗が条件を話している間、彼は何度も上着へ目を向けた。
過去の一場面と、飲み込んだ一文。
別の服で送り直すことはできず、他人の返事も、手伝う量も指定できない。
「姉が、何も引き受けなくても?」
「その可能性はあります。話した結果、違うことを相談するかもしれませんが、望む分担になるという保証はできません」
誠は背もたれへ体を預けた。
「じゃあ、言ったって、何も変わらないかもしれない」
「はい。お姉様の返事は、選べませんので」
「それは、聞きました」
早苗は口を閉じた。
誠は上着へ手を伸ばしたが、畳まずに置いた。
「分かってますよ。分かってるから、困ってるんです」
カーテンの向こうで、乾燥機の終了音が鳴った。
誠は声を落とした。
「今だって、頼めば絶対やってくれると思ってないです。それでも言わないと、明日のことが決まらない。父から砂糖がないって来たら、帰りに寄れるか考える。姉へ頼むなら、また説明する。買うのは十分でも、その前から、ずっと」
早苗の前には、使い方の条件を書いた紙があった。
誠がそこへ目を向ける。
「姉を思いどおりにしたい人だって、思ってます?」
違います、と答えかけた。
さっき、姉に協力させるつもりなら先へ進めないと、自分は考えた。
「そういう使い方を望んでいるのかと、先に考えていました」
「そりゃ、協力はしてほしいですよ」
誠は式服の袖を重ねた。左右がずれ、一度広げ直す。
「してほしいです。もう、俺が頼むのも嫌だって日があります。何もしなくていいよって言われたい日も。だから、何を言いたいんだって聞かれると……」
そこで言葉が切れた。
早苗は紙を裏返した。
「すみません。同じ説明を、繰り返しました」
誠は返事をしなかった。
上着を畳み終え、袋を開く。
「今日は、持って帰ります。今、何か決める気になれないので」
「はい」
早苗は机の端の見積りへ手を伸ばしかけた。
誠が、自分の袋の外側を示す。
「それ、昼にもらってます」
同じ紙が、すでに入っていた。
早苗は手を戻した。
誠が帰ると、机に小さい糸くずが残った。
拾ってから、裏返した紙を表へ戻す。
条件には、間違ったことは書いていない。
早苗は一行目を読んだ所でやめ、引出しへしまった。
買うのは十分でも、その前から、ずっと。
誠の途切れた言葉の続きを、今になって考えていた。




