第20話 支えてほしかった人
誠は、専門店から戻った上着を、持ってきた袋から出した。
襟の汚れは前より薄くなっていたが、早苗が見たことのある擦れは残っている。
買い替えたのではない。
本人が六年前に着た、同じ実物だった。
「全部落ちるわけじゃないと、最初に言われました。こっちの内側は、縫い直してもらってもいいですか」
誠は、前に早苗が示した小さいほつれを指した。
早苗はうなずき、受付票を出す。
通常の補修は、その依頼として預かる。七番機の利用は、それとは別の相談だった。
受取日と金額を決めるところまで終えてから、夜に話す約束を確認した。
誠が帰った後、別の客が、厚い上着の丈を相談しに来た。
日曜に着たいのだという。
早苗が手元で直せる範囲ではなく、外へ見積りを頼む必要があった。希望の日までに間に合うかは、相手へ確かめなければ分からない。
待ってもらえば、自分に仕事が残る。
でも、曖昧なまま服を預かれば、客の選べる時間が減る。
「こちらから専門店へ確認はできます。ただ、今日の段階で、日曜までのお約束はできません」
客は少し迷い、今回は、持っている別の上着を着ると答えた。
今日決められる服があってよかったと、早苗は思った。
依頼を受けなかった分の受付票は作らず、参考の料金だけ伝える。
相手は礼を言い、上着を持って帰った。
早苗は棚に空いた場所を見た。
誠の上着へ戻り、約束した内側の補修を、先に終える。
小さいほつれでも、期限を決めて預かった物だ。夜の話を気にして、そちらを後へ追いやりたくなかった。
十一月の中旬、店を出る人の上着が厚くなった。
夕方の終わりに受付のカーテンを閉めると、外の冷たい空気が少し遠くなる。
誠が再び来たときには、早苗の補修は済んでいた。
彼は仕上がりを確かめ、代金を払った。
それから、手を机の上へ置いた。
「この前は、途中で帰ってしまって」
誠は言い、膝の鞄を少しずらした。
早苗は、こちらこそ、と言いかけた。先に答えれば、また、彼の話を途中で閉じることになる。
「聞いてほしかっただけなのかと思ったんです。帰ってから。でも、それだけでもなくて。姉に何とかしてほしいのも、本当です」
誠は小さい手帳を出した。
開いたが、すぐには読まなかった。
「今、話してもいいですか」
「はい」
「姉も仕事をしてたし、子どもの学校の用事もあった。これは、聞いてます。でも、実際にどんな一日だったかは、知らないです。忙しいって言われると、こっちはもっと、と思って、それ以上聞かなかったので」
手帳の端に、書いてから消した跡があった。
誠はそこを指で押さえた。
「姉が何をしてたか、俺が説明する話にしようとしたら、ほとんど書けなかった」
早苗は、机に広げた上着を少し脇へ寄せた。
「でも、父のことは、俺が全部平気だったわけじゃないです。姉が忙しかったら、俺は平気じゃないといけないって、思ってたのかもしれません」
「この前も、そう話そうとしていたんですね」
誠は少し考えた。
「そうだったかもしれないです。あのときは、何で分からないんだって、先に思ってた」
そこで初めて、手帳を閉じた。
いま使っている、家族の外の相談先についても話した。たどり着いたのは、自分が用事を抱えきれなくなった後だったという。
「もっと早く聞けば、とは思います。でも、六年前の俺は、家のことは家でやるもんだと、思ってたので」
早苗は控え帳を出し、誠が選ぶ場面を確かめた。
六年前、十月六日。父が退院し、自宅で食事をした日だった。
祝いの席が終わり、姉と二人で食卓の物を片付けていた。
父は隣の部屋にいた。
届ける相手は、そのとき、目の前で皿を重ねていた姉一人だった。
「姉が、この先、どうするって聞いたんです。父の所へ来る日とか、買物とか。俺、そこで一瞬、言おうと思いました」
誠は、上着の肩を見た。
当時の自分の体が、その布の中にあったことを確かめるようだった。
「俺一人では、支えきれない」
声に出した文は、短かった。
早苗は十二字を、控え帳へ記した。
誠へ向けると、彼はしばらく見つめ、そうです、と答えた。
「半分やってくれって、いまなら言いたくなる。でも、あの日、飲み込んだのは、こっちです。一人では無理だって」
早苗は書いた一文を、誠の方へ向けた。
「この言葉で、合っていますか」
「はい。断られたら、腹は立つと思います。それも、先に言っておきます」
早苗はうなずいた。
「立たないって、約束はできないです。でも、俺が無理だったって、言った所から……そこからは、始めたいです」
利用前の状況を短く記す。
当時は自分が引き受けると答え、その後、家の用事を抱えた。遅れて外へ相談した。現在、姉とは必要な連絡を中心に、分担の話で意見が合わない。
父は現在も生存している。
上着は誠が自分で買い、六年前から持ち続けていた。早苗は内側の擦れを確かめ、控え帳へ記した。
「送ったら、六年前の自分は、その後のことを知ってるんですか」
「未来の情報を持って話し合うわけではありません。その日の声で一文が届き、相手の返事と、その後のご本人の行動へつながります」
誠は少し考え、うなずいた。
「父がどうしたいかも、俺が、先に分かってるつもりでした。あの頃。家に戻れたんだから、それでいいんだろうと」
早苗は控え帳を誠へ向けた。彼は一文と利用の条件を読み返し、今夜使うと答えた。
通常機を使っていた客が帰り、店が静かになった。
誠はポケットを一つずつ確かめる。
ハンカチと、補修の受取票が出てきた。
彼はそれを机へ置き、裏の胸ポケットへも手を入れた。
そこは空だった。
上着を自分で持ち、七番機の前へ行く。
早苗が蓋を開けると、誠は一度、服の肩を整えた。
折り目をきれいにするためではなく、布が外へ残らない向きを探したらしかった。
槽へ入れ、蓋を閉じる。
もう一度、やめることもできると伝えてから、早苗は横へ退いた。
誠は自分の指で、ボタンへ触れた。
水が入る音がして、肩を少し引く。
抜かれたコードを見た後は、何も言わずに、音を聞いていた。
早苗は開始時刻を記す。
あの一文が届く食卓を、覗くことはできなかった。
受付へ戻ると、誠のスマホが震えた。
彼は相手を見て、出てもいいかと聞いた。
早苗がうなずくと、誠は店の入口側へ少し離れた。
父からの電話らしかった。早苗は内容を聞き取ろうとせず、机へ残ったハンカチを、本人の鞄の近くへ置いた。
電話を終えた誠は、椅子へ戻った。
「明日の買物で、頼みたい物があったみたいです」
それだけ話し、スマホを鞄へしまった。
「結果が変わっても、明日の用事は、あるんですね」
誠がつぶやいた。
「変わった後のことは、終わってから、ご本人に聞くしかありません。でも、これからの用事が、全部なくなるという話ではありません」
早苗が答えると、誠は、そうですね、と言った。
鞄から手帳を出し、いま聞いた用事を書いた。
その普通の紙も、必要なら、変わった暮らしに合わせて更新される。
控え帳の中に、自分で了承した一文があることを確かめ、誠はまた、手帳を閉じた。
早苗は作業灯の向きを少しずらした。
彼の目へ直接入らず、机の字が見える角度にする。
店の奥から、布の回る低い音が届いていた。
ここで待つ二人には、姉が最初に何と返すのか、まだ、分からなかった。




