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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第2章 言葉の届き方

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第8話 母には言えない

 灰色のカーディガンは、袖口だけが少し濃くなっていた。

 早苗は客に確かめてから、布を裏返した。

 端の糸がほどけ始めている。今なら、広がる前に拾って留められそうだった。


「洗うたび、ここばかり触ってしまって」


 新井里帆(あらいりほ)は、自分の手首を押さえてみせた。

 薄い七分袖の下から、腕時計の跡がのぞく。カーディガンを脱いでも、癖のように袖の端を探しているらしかった。


「引っ掛けた覚えは、ないんです。でも、もう古いので」


「直せると思います。表から見える所は、なるべく目立たないようにしますが、元と全く同じには戻せないかもしれません」


「着られればいいです。捨てようと思ったこともあるんですけど、まだ、着心地がよくて」


 五月も終わりに近かった。

 入口のガラスへ、細い雨が筋を作っている。

 乾燥だけを使いに来る客が続き、中央の畳み台には、空の籠が二つ並んでいた。

 早苗は預かり票へ、袖口のほつれ、と書いた。

 見積りと受取予定を伝えると、里帆はスマホの予定表を開いた。


「土曜は、母へ電話する日だから、その後で」


 言いかけて、少し顔をしかめる。


「すみません。店の方へ言うことじゃないですね」


「お受取りは、別の日でも大丈夫です。受付の時間内でしたら」


 里帆は曜日を見直し、火曜にします、と答えた。

 それから、カーディガンのボタンへ指を置く。


「これも、母と会ったときに着てた物なんです。あのとき捨ててたら、今ごろ着なくて済んだのかなって」


 早苗は糸の色を探す手を止めた。

 捨てたいほど嫌いな服と、捨てずに着ていたい服が、里帆の中で重なっている。

 店の入口が開き、傘を畳む音がした。

 里帆がそちらを見たので、早苗は作業の説明へ戻した。


「ボタンの緩みも一緒に確認します。お預かりしてよろしいですか」


 里帆はうなずき、手を離した。

 早苗は彼女が書いた受取日を、声に出して確かめた。


 火曜、仕上がったカーディガンを渡すと、里帆は袖へ手を通さず、裏の縫い目を見た。

 糸を拾い直した端を、指の腹でそっとなぞる。


「引っ掛からなくなった」


「引っぱらずに、手で形を整えてください。お洗濯は、これまでどおり、表示に合わせて」


 里帆は代金を払い、服を自分の袋へ入れた。

 ほかの客は二人いたが、受付を待っている人はいない。

 彼女は入口まで行き、一度戻ってきた。


「この前、話しかけたこと、覚えてますか」


「お母様と会った日のことですか」


「はい。変な言い方をして、すみませんでした」


 早苗は椅子を示す前に尋ねた。


「少し、お話しになりますか。それとも、別のお時間にしましょうか」


 里帆は畳み台の方を見た。

 知らない人へ聞こえる所で話し始めたことを、今になって気にしたようだった。


「できたら、別の時間に」


 早苗は受付の終わる七時の後を提案した。

 里帆が帰ると、早苗は机の上の糸をしまった。

 カーディガンの灰色に近い糸を、見つけるまでに三色比べていた。それでも、本人の袖へ戻れば、机の上とは違って見える。


 七時十五分、里帆がもう一度来た。

 夕飯を買ってきた袋は、持ったまま自分の膝へ置いた。

 早苗は受付のカーテンを閉め、向かいの椅子へ座る。


「母の家までは、電車で二時間くらいです。普段は電話で。買った物とか、仕事であったこととか、そういう話をするつもりでかけるんですけど」


 里帆は袋の持ち手をほどき、結び直した。


「いつの間にか、どうしてそうしたのって、説明する電話になってるんです」


 早苗は、自分の母の話へ置き換えずに聞いた。

 里帆の母は、荷物を送ってくれる人でもあるという。

 里帆が忙しい時期には、日持ちする食べ物を詰めて、返事はいらないから、と添えてくる。

 それを開けて、うれしいことも、本当にあった。


「でも、仕事で担当が変わったって話すと、あなたは続かないからって。自分から希望を出した担当替えなんです。それを言うと、心配してるだけなのにってなる」


 早苗は、さぞ嫌だったでしょうと答えかけた。

 答える代わりに、いま話したことで合っているか、短く確かめた。


「二年前の六月に、家で一緒にご飯を食べたんです。このカーディガンを着て。新しい担当の仕事が、まだ慣れないって話したら、また続かないんじゃないのって」


 里帆は首の後ろへ手を当てた。


「言い返すつもりじゃなかったんです。ただ、その言い方は、つらいって。心配してくれてるのは分かるけど、って」


 そのとき、母が用意した煮物が、まだ温かかったという。

 自分のために作ってくれた物を前にして、不満を言うのが悪い気がした。

 結局、仕事の話をやめ、別の話題へ変えた。


「その後も、電話はしてます。土曜、買い物から帰った後とか。話さない方が楽なのか、話さなくなったらもっと気になるのか、自分でも分かりません」


 早苗は机の端を見た。

 言えなかったことを、いま、目の前の人が話している。

 七番機を使うことが、この後の当然の順番になるとは、思わない方がよかった。


「今、言うこともできますね」


 早苗が言うと、里帆はうなずいた。


「はい。そう思って、電話の前に考えるんです。でも、あの日言ってたら、こんなにためなくて済んだのかって、何回も思い出して」


 早苗は、過去へ一文を届ける七番機について、聞くかどうかを尋ねた。

 里帆は最初、笑っていい話なのか分からないような顔をした。

 早苗も、説明しただけで信じてもらえるとは思っていなかった。

 無料であることと、補修の支払いとは別の話だということを伝える。

 里帆が聞きたいと答えてから、条件を話した。


 説明の途中で、里帆が尋ねた。


「母が、分かったって言ってくれる方へ、変えるんですか」


「そこは、選べません。届いた言葉に、どう答えるかは、お母様が決めます」


「もっと怒らせることも?」


「はい。あり得ます」


 里帆はカーディガンの入った袋を見た。

 少し前まで、直った袖口を確かめていた服だった。


「考えます。今すぐ、母の所へ行けと言われたみたいで、ちょっと怖い」


「今日は、ここまでにしましょうか」


 早苗は控え帳を出さなかった。

 里帆はうなずき、椅子から立つ。


「この服は、直してもらってよかったです。それは、先に言っておきます」


 早苗は、ありがとうございます、と答えた。

 里帆が帰った後、机の上には、相談の中身を記した紙は残らなかった。

 普通の受付簿に、受取済みの印が一つあるだけだった。

 早苗は住居へ戻り、買っておいた豆腐を冷蔵庫から出した。

 自分の夕飯を用意する間にも、さっき聞いた煮物の話を思い出した。

 豆腐を皿へ移し、今夜は温めて食べることにした。

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