第7話 パン屋の作業着
白い作業着の背中へ、小さな丸が一つ張りついていた。
洗濯表示を確かめるために広げた男性が、それを指でつまんで取る。直径一センチほどの、薄い紙だった。
「値札ですか」
「袋の封をするシールです。自分にも付いてた」
彼は笑って、作業着とは別に持っていたごみ袋へ入れた。
五月の夕方だった。早苗が預かり物の整理をしていると、彼は機械へ服を入れる前に、内側の紐の結び方を尋ねに来た。
絡みにくいようにまとめてから、表示に合う方法を選ぶ。その間にも、裾から小さい紙が一つ落ちた。
「今日は、よく働いた服ですね」
「服だけでも、休ませないと」
男性は三番機へ服を入れ、料金を払った。
戻ってきた手には、洗濯かごではなく、茶色の紙袋があった。
「駅の裏の、三枝ベーカリーです。千鶴さんが、姪御さんが来ると言ってたので。一度、ちゃんと挨拶をと思って」
早苗は立ち、名乗り直した。
水野早苗です、と言うのにも、そろそろ慣れてきた。
「三枝匡史です。店では、だいたい裏にいます。遅くなると、ここへ洗いに来るので」
匡史は紙袋を持ち上げた。
早苗が受け取ろうとすると、彼は、先に言っておきます、と手を止めた。
「売れ残りを押しつけに来たわけではないです。試しに焼いたのが二つあって。食べ物、何か、苦手な物あります?」
早苗は袋の中をのぞく前に、何でも、と答えた。
「何でも大丈夫です。ありがとうございます」
「甘いのと、甘くないのだと?」
「どちらでも」
言ってから、さっきと同じ答えだと気づいた。
匡史は受付の机へ袋を置かなかった。糸や布を広げた作業台だと、ちゃんと見えているらしかった。
代わりに、空いている椅子へ、自分の袋ごと置く。
「困ったな。これだと、俺が二つとも食べても、同じ返事をもらえそうだ」
早苗は少し笑った。
「そういう意味では」
「分かってます。嫌いな物を渡すと困るので、聞いただけです。でも、二つとも平気なら、好きな方を持っていってください」
紙袋の口を開く。
中には、別々の小袋に入った丸いパンが二つあった。一つは細長い切れ込みがあり、もう一つは、表面へごく薄く砂糖が掛かっている。
チーズ入りと、りんご入りだという。
「同じ生地で、合う方を探してるんです。二つとも商品にするかは、まだ決めてません」
「食べて、感想を?」
「もしあれば。返事を作るために食べなくていいです」
早苗は二つの袋を見比べた。
どちらが余っているか、どちらの感想が欲しいかを聞けば、選びやすいと思った。
でも、匡史は今、好きな方と言った。
棚へ片付けた針山から視線を戻し、砂糖の掛かった方を指す。
「りんごの方を、頂いてもいいですか」
「はい。そっち、端まで入ってるか、ちょっと心配なやつです」
「心配な方を、選んでしまいました」
「じゃあ、真ん中からかじらないでください。調査が終わらなくなる」
笑いながら袋を受け取る。
温かくはなかったが、紙の口から甘い匂いがした。
食べるのは受付を終えてからにしようと、住居側の小棚へ置いた。
匡史は洗濯機へ戻り、残り時間を確かめた。
それから椅子へ座り、自分のチーズパンの袋を開ける。
早苗も机へ戻った。
人がいるから話し続ける、という空気にはならなかった。
糸の色を選び、袖口の端を指で押さえる。作業灯の下で、青の糸が少し緑に見えた。
「それ、同じ色にはならないんですね」
匡史が言った。
早苗の手元へ近づくのではなく、椅子から、糸の並んだ棚を見ている。
「布と糸だと、光の当たり方も違うので。完全に同じより、縫ったときに浮かない方を探します」
「なるほど。焼く前に同じ色でも、焼いたら違うのに、ちょっと似てる」
早苗は針を止め、パンの切れ込みを思い出した。
「試作は、三枝さんが考えて?」
「今回は。普段の店は、父と母が始めたので。定番が強いんです。変えなくていいって言われると、それも、まあ、売れてるので」
匡史はパンの残りを袋へ戻した。
早苗は、家業を継ぐのですか、と聞きそうになり、言葉を選び直した。
「別の物も、作ってみたいんですか」
「はい。自分で、少し違う店をやってみるのも。でも、ここをどうするかと一緒に考えると、進まなくて」
引き継ぐか、独立するか。
彼が二つを口にした後、乾燥機の扉が閉まる音がした。
入口から来た客へ、早苗は会釈する。匡史もそれきり、込み入った話を続けなかった。
早苗は縫い始めた糸を、最後まで通した。
洗濯が終わると、匡史は作業着を取り出し、袖を一本ずつ広げた。
表示を確かめ、乾燥へ移す分と、持ち帰って干す分を分ける。
さっきまで一つだった籠の中に、空きができた。
「水曜、受付は休みなんですね」
「はい。買い出しや、自分の用事に」
「うちも、水曜休みです。店が休みでも、何かしてる日、ありますけど」
早苗も、この前の水曜、帰ってすぐに見積りを書き始めたことを思い出した。
材料を買いに行く日を作っただけでは、何もしない時間まで勝手にできるわけではなかった。
「この前、二駅先まで行ったんです。昼も買って帰ろうと思っていたのに、店を見てるうちに、遅くなって」
「何を食べたんですか」
「駅で、立ったままパンを一つ」
匡史が手の中の袋を見た。
早苗も、同じことを考えて笑った。
「次は、座って食べます」
「俺も今、人の店で立ち食いしなかっただけなので。あまり偉そうなことは」
彼が帰った後、早苗は受付の最後の一件を仕上げた。
七時を過ぎ、カーテンを閉じてから、台所へパンを持っていく。
皿の上に置き、椅子に座った。
端から食べると、最初の一口では、りんごに届かなかった。
二口目に、柔らかい角切りが出てきた。
甘さより、焼いた皮に残るかすかな苦さが好きだった。
早苗は最後の端を見た。そこにも、一つだけ、小さいりんごが入っていた。
翌日の夕方、匡史が持ち帰った物とは別の作業着を洗いに来た。
早苗は、昨日はありがとうございました、と礼を言い、いつもの、おいしかったですを続けかけた。
「端にも、入っていました」
匡史が顔を上げる。
「りんご。二口目から、最後まで」
「よかった。端がただのパンになると、最初にがっかりするので」
「でも、最初の一口は生地だけなのが、私は好きでした。甘い所へ行く前に、皮の味が分かって」
言い終わると、思ったより長い感想になっていた。
店で専門の仕事をしている人へ、余計なことを言っただろうか。
匡史はしばらく考え、それなら切れ込みの入れ方は変えなくていいか、と独り言のように言った。
「ありがとうございます。りんご、少なかったって言われるかと思ってた」
「少ないとは思いませんでした。私は、あの端がよかったです」
二度目は、言い直さずに済んだ。
彼はうなずき、洗濯機へ向かった。
早苗は作業灯を点ける前に、机の上の糸くずを集めた。
住居側の小棚には、洗って乾かした皿が一枚、朝のまま置いてあった。




