↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第1章 一着目の昨日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/30

第5話 知らない勤務先

「港町物流には、結局、二年近くいたんですね」


 早苗が言うと、健太はゆっくり顔を上げた。

 七番機の水音は、もう止まっている。

 服を取り出す前に、二人とも、受付の椅子へ座ったままでいた。

 早苗は彼が話した職歴を思い浮かべた。期間を決めた仕事が先月終わり、今は次を探している。それで、面接用のスーツのボタンを直しに来た。

 不自然なところは、何もなかった。


「水野さんも、そっちを覚えてるんですね」


 健太の声は、少しかすれていた。


「そっち、というのは」


 言いかけて、早苗は控え帳を開いた。

 見たことのある自分の字が、最初に目へ入る。

 三年前の四月十二日。東岸フーズ、採用担当者。

 服は本人の紺色の上着。一文は、その条件では、長く働けません。

 その下に、東岸フーズへ入社、その後退職、現在求職中、と書いてあった。


 早苗はその社名を、もう一度読んだ。

 健太がそこで働いたと聞いた記憶は、なかった。

 面接で条件を話し、採用には進まなかった会社として、彼から聞いている。

 同じ会社の名前が、帳面の中だけ、違う場所にいた。


「私が、書いたんですね」


 健太は、はい、と答えた。


「入った方では、去年辞めました。遅い時間の仕事も、何とか続けたんですけど。帰ると、次の日の準備だけで終わって。面接で聞いておけばって、ずっと思ってました」


 早苗は相づちを打ちかけ、口を閉じた。

 いま、初めて聞く話だった。

 帳面には、それを聞いた自分がいた。

 説明を知らなければ、書き間違いだと思っただろう。


「もう一つの方では、入らなかった?」


「はい。言ったら、その働き方も含めて採用するのでって、返されました。僕も、じゃあ大丈夫ですって戻しそうになったんですけど」


 健太は机の縁へ指を置いた。

 指先が、紙のない所をなぞる。


「言っちゃった後なので。長くは無理だと思っていますって、もう一回、答えたんです」


 二度目の言葉を送ったわけではない。

 一度届いた文を聞いた相手が答え、その場の健太が、続きの返事をしたのだ。

 早苗は、彼が話す順序を確かめながら聞いた。


「担当の人は、怒らなかったです。ただ、条件が違うまま入っても困るからって。その日は、それで終わりました」


 その会社へ就職しなかったことを、良かったですね、とすぐには言えなかった。

 あの日の健太は、帰り道で落ち込んだという。

 言わなければ働けたかもしれないと考え、駅のベンチへ座った。

 それでも、応募先を探し直した。

 その後に勤めたのが、港町物流だった。


「こっちは、勤務する時間を、先に確認できました。期間がある仕事だってことも、最初から知ってました」


「その期間が、先月で」


「終わりました。延びるかなとは思ったんです。でも、次の仕事の量が決まらないからって」


 彼は笑おうとして、少し失敗した。


「今、仕事がないのは、どっちでも同じです」


 早苗は、膝へ置いた自分の手を見た。

 洗濯が終わったら、もっと明瞭な答えが出ると思っていたのかもしれない。

 変わったことと、変わらなかったことを、それぞれの棚へ簡単に分けられるような。

 健太の目の前には、金曜の夜があり、その後の暮らしがあった。

 違う会社で働いたとしても、明日の生活費を使わずに済むわけではない。


「二つとも、全部、同じくらい思い出せますか」


「全部ではないです。細かい順番が、混ざる所もあります。でも、どっちの会社で何をしてたかは分かる。前の方の、帰りの電車で寝過ごしたことも。もう一つの方の、倉庫の休憩室の匂いも」


 健太は少し黙り、机から手を離した。


「どっちも、自分でやってた感じがするんです。片方を、見ただけの話にはできない」


 早苗は帳面へ、本人が二つの職歴を覚えていることを記した。

 残すのは、彼が確かめていいと答えた範囲だけにする。

 新しい職歴と、今も求職中であることを書き、彼に見せる。

 健太が読んで、合っています、と答えた。


 鞄を持とうとして、健太はスマホを取り出した。

 画面を自分の方へ向けたまま、指で何度か送る。


「仕事の予定を入れてたんです。ここも、港町物流の方になってる」


 早苗には、彼が見ている文字は読めなかった。

 健太は画面を伏せ、机へ置いた。


「入らなかった方の会社で、遅くなる日を覚えようとして入れた予定は、ないんですね。自分は、入れたのを覚えてるのに」


 変わった後の暮らしで必要になった予定が、いま、その端末にある。健太のもう一つの記憶を、同じように持ってはいなかった。

 彼はしばらく伏せた画面を見た後、自分で鞄へしまった。


 七番機の前へ戻ると、蓋は軽く開いた。

 取り出した上着を、健太が両手で広げた。

 濡れて、床へ水が垂れるような状態ではなかった。乾いた布に指を沿わせ、裏側を探す。


「ここ」


 彼が示した脇の内側に、細い白い糸があった。

 早苗は近づいたが、勝手には触らなかった。

 健太が角度を変え、作業灯の下へ持ってくる。


 『その条件では、長く働けません』


 小さい文字が、縫い目になっていた。

 早苗が付け直したボタンからは、離れた所だった。

 糸の端を探してほどけるような、普通の縫い方には見えない。

 それでも、言葉は読めた。


「これ、次に洗っても残るんですよね」


「はい。叔母からは、そう聞いています。この後の手入れは、服の表示に合わせてください。縫い目に、別の働きはありません」


 健太は裏を返し、表から見た。

 紺色の上着は、三日前に持ってきたのと同じ形をしている。

 ただ、その三日前に彼がどんな職歴を話したかについて、早苗の記憶と帳面は違っていた。

 早苗は、古い方を知っているふりをしないように、彼の言葉を待った。


「取り消したい、とは、今は思ってません」


 健太が言った。


「でも、良かったかって聞かれたら、まだ、うまく答えられないです」


「今、答えなくてもいいです」


 早苗は言ってから、自分へも同じように確かめた。

 この洗濯に、成功という印を付けてもらいたかったのだろうか。

 安心するために、使った人から、正しかったという返事を取ろうとしていなかったか。


「気持ちが変わったときも、お話は聞けます。ただ、もう一度送って直すことはできません」


「はい。それは、分かってます」


 彼は上着を畳んだ。

 慣れた袖の折り方が、少しだけもたつく。白い文字を折って隠すことに、ためらったのかもしれなかった。

 早苗には、そこまでは分からない。


「ボタンは、ちゃんと使えます」


 健太が内側を留めてみせた。

 早苗はそこで初めて、はっきり笑えた。


「そこは、確認して頂けてよかったです」


 受付で、預かり物がないことを二人で確かめる。

 健太は自分の鞄を持ち、ガラス戸の前で振り返った。


「次の面接でも、また、大丈夫ですって言いそうになると思います」


 早苗は、もう言いませんよ、と励ましかけた。

 飲み込んで、待つ。


「だから、聞きたいこと、先に紙へ書いておきます。今度は、今の方を」


 健太はそう言って帰った。

 店へ戻り、控え帳を閉じる。

 東岸フーズという会社で彼が働いた人生を、早苗は思い出せなかった。

 それでも、その頁を、書き間違いのように消すことはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。