第5話 知らない勤務先
「港町物流には、結局、二年近くいたんですね」
早苗が言うと、健太はゆっくり顔を上げた。
七番機の水音は、もう止まっている。
服を取り出す前に、二人とも、受付の椅子へ座ったままでいた。
早苗は彼が話した職歴を思い浮かべた。期間を決めた仕事が先月終わり、今は次を探している。それで、面接用のスーツのボタンを直しに来た。
不自然なところは、何もなかった。
「水野さんも、そっちを覚えてるんですね」
健太の声は、少しかすれていた。
「そっち、というのは」
言いかけて、早苗は控え帳を開いた。
見たことのある自分の字が、最初に目へ入る。
三年前の四月十二日。東岸フーズ、採用担当者。
服は本人の紺色の上着。一文は、その条件では、長く働けません。
その下に、東岸フーズへ入社、その後退職、現在求職中、と書いてあった。
早苗はその社名を、もう一度読んだ。
健太がそこで働いたと聞いた記憶は、なかった。
面接で条件を話し、採用には進まなかった会社として、彼から聞いている。
同じ会社の名前が、帳面の中だけ、違う場所にいた。
「私が、書いたんですね」
健太は、はい、と答えた。
「入った方では、去年辞めました。遅い時間の仕事も、何とか続けたんですけど。帰ると、次の日の準備だけで終わって。面接で聞いておけばって、ずっと思ってました」
早苗は相づちを打ちかけ、口を閉じた。
いま、初めて聞く話だった。
帳面には、それを聞いた自分がいた。
説明を知らなければ、書き間違いだと思っただろう。
「もう一つの方では、入らなかった?」
「はい。言ったら、その働き方も含めて採用するのでって、返されました。僕も、じゃあ大丈夫ですって戻しそうになったんですけど」
健太は机の縁へ指を置いた。
指先が、紙のない所をなぞる。
「言っちゃった後なので。長くは無理だと思っていますって、もう一回、答えたんです」
二度目の言葉を送ったわけではない。
一度届いた文を聞いた相手が答え、その場の健太が、続きの返事をしたのだ。
早苗は、彼が話す順序を確かめながら聞いた。
「担当の人は、怒らなかったです。ただ、条件が違うまま入っても困るからって。その日は、それで終わりました」
その会社へ就職しなかったことを、良かったですね、とすぐには言えなかった。
あの日の健太は、帰り道で落ち込んだという。
言わなければ働けたかもしれないと考え、駅のベンチへ座った。
それでも、応募先を探し直した。
その後に勤めたのが、港町物流だった。
「こっちは、勤務する時間を、先に確認できました。期間がある仕事だってことも、最初から知ってました」
「その期間が、先月で」
「終わりました。延びるかなとは思ったんです。でも、次の仕事の量が決まらないからって」
彼は笑おうとして、少し失敗した。
「今、仕事がないのは、どっちでも同じです」
早苗は、膝へ置いた自分の手を見た。
洗濯が終わったら、もっと明瞭な答えが出ると思っていたのかもしれない。
変わったことと、変わらなかったことを、それぞれの棚へ簡単に分けられるような。
健太の目の前には、金曜の夜があり、その後の暮らしがあった。
違う会社で働いたとしても、明日の生活費を使わずに済むわけではない。
「二つとも、全部、同じくらい思い出せますか」
「全部ではないです。細かい順番が、混ざる所もあります。でも、どっちの会社で何をしてたかは分かる。前の方の、帰りの電車で寝過ごしたことも。もう一つの方の、倉庫の休憩室の匂いも」
健太は少し黙り、机から手を離した。
「どっちも、自分でやってた感じがするんです。片方を、見ただけの話にはできない」
早苗は帳面へ、本人が二つの職歴を覚えていることを記した。
残すのは、彼が確かめていいと答えた範囲だけにする。
新しい職歴と、今も求職中であることを書き、彼に見せる。
健太が読んで、合っています、と答えた。
鞄を持とうとして、健太はスマホを取り出した。
画面を自分の方へ向けたまま、指で何度か送る。
「仕事の予定を入れてたんです。ここも、港町物流の方になってる」
早苗には、彼が見ている文字は読めなかった。
健太は画面を伏せ、机へ置いた。
「入らなかった方の会社で、遅くなる日を覚えようとして入れた予定は、ないんですね。自分は、入れたのを覚えてるのに」
変わった後の暮らしで必要になった予定が、いま、その端末にある。健太のもう一つの記憶を、同じように持ってはいなかった。
彼はしばらく伏せた画面を見た後、自分で鞄へしまった。
七番機の前へ戻ると、蓋は軽く開いた。
取り出した上着を、健太が両手で広げた。
濡れて、床へ水が垂れるような状態ではなかった。乾いた布に指を沿わせ、裏側を探す。
「ここ」
彼が示した脇の内側に、細い白い糸があった。
早苗は近づいたが、勝手には触らなかった。
健太が角度を変え、作業灯の下へ持ってくる。
『その条件では、長く働けません』
小さい文字が、縫い目になっていた。
早苗が付け直したボタンからは、離れた所だった。
糸の端を探してほどけるような、普通の縫い方には見えない。
それでも、言葉は読めた。
「これ、次に洗っても残るんですよね」
「はい。叔母からは、そう聞いています。この後の手入れは、服の表示に合わせてください。縫い目に、別の働きはありません」
健太は裏を返し、表から見た。
紺色の上着は、三日前に持ってきたのと同じ形をしている。
ただ、その三日前に彼がどんな職歴を話したかについて、早苗の記憶と帳面は違っていた。
早苗は、古い方を知っているふりをしないように、彼の言葉を待った。
「取り消したい、とは、今は思ってません」
健太が言った。
「でも、良かったかって聞かれたら、まだ、うまく答えられないです」
「今、答えなくてもいいです」
早苗は言ってから、自分へも同じように確かめた。
この洗濯に、成功という印を付けてもらいたかったのだろうか。
安心するために、使った人から、正しかったという返事を取ろうとしていなかったか。
「気持ちが変わったときも、お話は聞けます。ただ、もう一度送って直すことはできません」
「はい。それは、分かってます」
彼は上着を畳んだ。
慣れた袖の折り方が、少しだけもたつく。白い文字を折って隠すことに、ためらったのかもしれなかった。
早苗には、そこまでは分からない。
「ボタンは、ちゃんと使えます」
健太が内側を留めてみせた。
早苗はそこで初めて、はっきり笑えた。
「そこは、確認して頂けてよかったです」
受付で、預かり物がないことを二人で確かめる。
健太は自分の鞄を持ち、ガラス戸の前で振り返った。
「次の面接でも、また、大丈夫ですって言いそうになると思います」
早苗は、もう言いませんよ、と励ましかけた。
飲み込んで、待つ。
「だから、聞きたいこと、先に紙へ書いておきます。今度は、今の方を」
健太はそう言って帰った。
店へ戻り、控え帳を閉じる。
東岸フーズという会社で彼が働いた人生を、早苗は思い出せなかった。
それでも、その頁を、書き間違いのように消すことはしなかった。




