第4話 四十字にできないこと
金曜の夕方、健太は先にボタンを確かめた。
早苗が上着を広げると、内側の小さいボタンを留めて、外した。表へ返し、前を一度合わせる。
「ありがとうございます。これで、気にしなくて済みます」
支払いを終え、受取欄へ名前を書く。
そこまで済ませてから、彼は鞄へ伸ばしかけた手を止めた。
「この前の話、まだ、聞いてもらえますか」
早苗は時計を見た。
受付を閉めるまで、あと四十分。中央の台では、二人の客が洗濯物を畳んでいる。
「ここだと、少し声が聞こえます。七時の後、改めてお時間を取ることもできますが」
「じゃあ、一度帰ります。ご飯を食べてきます」
健太はそう答え、上着を紙袋へ戻した。
今度は畳み直す手が、前より速かった。
七時半に再び来たとき、彼は細い布の袋を持っていた。
中身は同じスーツだった。裾や裏に見覚えがあることを確かめ、早苗は受付へ通した。
カーテンを引く前に、健太が店の奥を見た。
「まだ、電源は入ってないんですね」
「入れません。通常の機械を動かす方法とは、別です」
彼は、そっか、と小さく言った。
信じると決めた顔、と早苗には言い切れなかった。椅子へ座った膝は、落ち着かず一度開いて、また閉じた。
早苗自身も、この機械が動くところを、まだ見たことがない。
そのことは、前回、隠さず話していた。
「使う方へ、気持ちが傾いていますか」
「はい。でも、言うことが、まとまらなくて」
健太は鞄から紙を出しかけ、手を止めた。
「長く書いてきたんです。三年前からのこと。これを全部説明したら、何て言えばいいか、分かるかなと思って」
早苗は紙を受け取らなかった。
彼が説明を始める前に、机の上の空いた所へ手を置く。
「経緯は聞けます。でも、私がよい一文を作って、お渡しすることはできません。三年前のその場で、川原さんが言おうとしたことだけですから」
健太は紙を鞄へ戻した。
追い返したように聞こえなかったか、早苗は彼の顔を見た。
「今日に決めなくても、構いません」
「いえ。聞きたいです。僕が、どこから話せばいいのか、まだ分かってないだけなので」
早苗は控え帳を引出しから出した。
過去の頁を見せず、空いた頁だけを開く。
「その服を着ていたのは、いつですか」
「三年前の四月十二日です。面接の日程を、何回も見直したので、そこは覚えています」
会社は、東岸フーズ。
面接室には、採用担当の男性が一人いたという。
先に聞いていた時間帯と、実際に入る可能性のある勤務の説明が違った。健太は翌朝からの予定を考え、続けられるだろうかと思った。
その日の彼が知っていたのは、そこまでだった。
「辞めることになるから、入らない方がいい、とは言えないんですよね」
「当時は、まだ知らなかったことですから」
「今の僕なら、言えるんですけど」
健太は両手を膝へ置いた。
窓の外で、自転車のブレーキが短く鳴った。
彼は音が消えるのを待つように、少し黙った。
「条件の説明を聞いたとき、無理だと思ったんです。短い間なら頑張れるかもしれないけど、長くは。言ったら、働く気がないと思われる気がして」
早苗はうなずいた。
自分にも分かると答えそうになり、やめる。分かる部分があっても、あの面接室に座っていたのは早苗ではなかった。
「本当に口へ出しかけたのは、そのことですか」
「はい。長くは働けないって」
健太が顔を上げた。
「その条件では、長く働けません」
言ってから、口を閉じた。
早苗はすぐには書かなかった。
健太自身が、いま声にした文を聞き直す時間を待った。
「それです。あの日、言いかけたのは」
確かめてから、早苗は控え帳へ書いた。
声にした文を、そのまま写す。
句読点も含め、十四字。
四十字には、まだ余裕がある。
「この文を、その日の担当の方へ、川原さんの声で届ける。これで合っていますか」
「はい」
書いた所を彼の方へ向ける。
健太は目で追い、もう一度うなずいた。
早苗は、今の状況も短く記した。東岸フーズへ入社し、その後退職。現在は仕事を探している。
彼がこの店で預けたいと思った範囲を、確かめながら残した。
「選んだ言葉を聞いて、採用を見送られるかもしれません。違う所で働いても、そこで困るかもしれない。今と、あまり変わらない所へ来る可能性もあります」
健太は、はい、と答えた。
「一生に一回です。別の服で、送り直すことはできません」
「それも、分かっています」
「私の記憶は、変わった後だけになります。前のことは、川原さんの申告と、この帳面で確認します」
彼は控え帳へ目を落とした。
早苗に覚えていてもらうためではなく、自分が何を選んだかを残す頁だった。
「今の仕事探しまで、終わるって話ではないんですね」
「はい」
「それでも、あそこで、平気なふりをしなかった自分が、どうなったかは知りたいです」
早苗はその返事を、了承の欄へ短く記した。
面接に受かりたい、とは書かなかった。
通常機の最後の客が、洗い上がった物を持って帰った。
早苗は受付のカーテンを開け、健太と七番機の前へ行く。
運ぶのは彼自身だった。
上着と、同じときに着ていた組のズボンを袋から出す。使う一着は、言葉を飲み込んだときに着ていた上着だけにした。ズボンは袋へ戻す。
「修理してもらった所は、そのままで?」
「同じ服ですから。私が付け直したボタンに、別の力があるわけではありません」
言ってから、早苗も少しだけ笑った。
何も特別ではない糸で直したことが、今はありがたかった。
ポケットを、健太が一つずつ確かめた。
内側から、受取を済ませた預かり票が出てくる。
「これ、残ってました」
小さい紙を鞄へしまうと、両手で上着を持ち直した。
早苗は七番機の蓋を開けた。
槽の中は空で、乾いていた。引越し初日に水音を聞いた後も、勝手に水がたまっている様子はなかった。
健太が自分で服を置く。
「まだ、やめられますか」
彼が聞いた。
「はい。触れる前なら、そのまま持って帰れます」
早苗は始動ボタンから、体を離した。
入口のガラスには、二人が少しずれて映っている。
彼の手を導けば、それは、彼が選んだことになるのだろうか。
早苗は何も言わずに待った。
健太は蓋を閉じた。
ボタンの上へ指を置く前に、紺色の上着が見えなくなった窓を一度見た。
「お願いします」
彼自身の指が、丸いボタンへ触れた。
奥で、水が入る音がした。
早苗は抜かれた電源コードを見た。
壁のフックに掛かったまま、動いていない。
槽だけが、ゆっくり回り始めていた。
健太が一歩後ろへ下がり、早苗もその隣へ立った。
今さら、信じていいですかと尋ねられても、言葉が足りなかった。
「座って、待ちましょう」
早苗は受付の方を示した。
控え帳を開いた机と、向かい合わせの椅子は、そのままにしてある。
健太が座り、空いた膝の上へ手を置いた。
早苗は時刻を記し、帳面を閉じた。
七番機から届く水音のほかに、過去の誰かの声は聞こえなかった。




