第3話 スーツのポケット
スーツの上着を受け取る前に、早苗は置き場所を作った。
補修受付の机には、直したタオルと、まだ手をつけていない作業ズボンがある。二つを別の棚へ移し、机の上へ白い布を広げる。
客の持ってきた紺色の上着は、畳んだまま、なかなか紙袋から出てこなかった。
「内側のボタンなんです。外から見えない所で」
男性は袋へ片手を入れたまま言った。
二十代半ばくらいだろうか。淡い色のシャツの袖を、一回だけ折っている。
早苗は、確認してもいいですか、と尋ねた。
「はい。お願いします」
ようやく出てきた上着の内側で、留め糸が切れかけていた。
外のボタンは、まだしっかりしている。表の布にも、目立つ擦れはない。
早苗が机へ広げようとすると、片側だけが沈んだ。
「ポケットに、何か入っていますか」
「あ、すみません。全部出したつもりで」
男性は上着を自分の方へ戻し、胸の内ポケットを探った。
折った紙と、一本の細いペンが出てくる。ほかも指で確かめてから、再び早苗へ渡した。
折り目の間に、企業説明会、という字が見えた。
早苗は紙から視線を外し、ボタンの下の生地を見た。
「土台は傷んでいないので、付け直せます。お急ぎですか」
「来週使えれば。それより、取れそうなまま着るのが、何となく嫌で」
見えない所でも、気になると指で触ってしまう。
早苗にも分かることだった。
料金を伝えると、男性はうなずき、受付票へ名前を書いた。
川原健太。
受取日を確認する途中で、彼のペンが一度止まった。
「これ、就活のときに買った物なんです」
早苗は上着を持ったまま、次の言葉を待った。
「三年前。ちゃんとした所へ入れば、しばらく着なくなると思ってたんですけど。案外、また使うんだなって」
「お仕事の面接に?」
「はい。辞めたので。次の所を探してます」
店の奥で、乾燥機が止まった。
待っていた客が立ったので、早苗は受付票を伏せた。健太も声を落とす。
預かり票の控えを切り離そうとすると、健太が上着の襟へ目を向けた。
「最初の面接で、聞けばよかったんです」
「聞けば、というと」
「求人に出てた時間と、説明された働き方が、少し違って。遅い時間もあるって言われて。でも、その場で、どれくらいですかって聞けなかった」
ペンの先が、受付票の余白を押していた。
早苗は、適職の相談に答えられる人間ではなかった。
それでも、自分も答えを先へ用意しないように、言葉を待った。
「大丈夫です、って言ったんです。その方が、欲しい返事だと思ったので」
早苗の指先で、紙の角が曲がった。
健太は気づかずに、薄く笑った。
「自分が大丈夫かは、後で考えればいいと思ってました」
早苗は受付票を机へ置いた。
七番機の話をするべきか、まだ迷った。
人が悔やんでいる言葉を聞くたびに、あの機械へ案内する店にはしたくない。
叔母からは、宣伝するよう頼まれていない。
けれど、知らないまま話を終えることを、健太自身が選んだとも言えなかった。
「少し、変わったお話があります。聞かずに、ボタンの付け直しだけでお帰りになっても大丈夫です」
健太が顔を上げた。
「仕事の紹介ではありません。面接の助言でもなくて。ここにある、七番機の話です」
彼はカーテンの外へ目を向けた。
停止札は、受付の入口からも見える。
「壊れてる洗濯機ですか」
「通常の洗濯には使えません。ですから、それを直すためのお金をお願いする話ではないです」
そこまで言うと、健太は少しだけ肩を下げた。
早苗は、何と疑われていたのかを、遅れて察した。
確かに、この持ちかけ方は、安心できるとは言い難かった。
「今日、何かを決めなくてもいいんですよね」
「はい。むしろ、持ち帰って考えてほしい話です」
「じゃあ、聞きます」
早苗はほかに受付を待つ人がいないことを確かめ、カーテンを引いた。
入口の札は、相談中へ替える。
机の反対側の椅子を勧めたが、健太は座る前に、上着をもう一度見た。
同じ実物の服を、本人がその日に着ていたこと。
その場にいた一人へ、本当に言おうとして飲み込んだ言葉を届けられること。
早苗は、叔母に確かめた範囲を、一つずつ話した。
健太は途中で、そんな、と一度だけ言ったが、帰るとは言わなかった。
「面接を、受けなかったことにできるんですか」
「出来事を指定することはできません。送れるのは、その場で言いかけた一文だけです。聞いた方がどう答えるかは、その方が決めます」
「採用を取り消されるかもしれない?」
「そうなるかもしれません。ならないかもしれません。今よりいい職歴になるという約束はできないんです」
健太は折った紙を、机へ置いた。
裏側だった。早苗に見せるためではなく、手を空けたかったらしい。
「それで、三年前から、別のことをした自分になる」
「その言葉からつながることが、変わるそうです。使ったご本人は、前と後の記憶を、両方持つ。それ以外の人は、変わった後だけを覚えます」
「水野さんも?」
「はい。私もです」
早苗が管理人であることは、彼の古い人生を覚えておく保証にはならない。
そのことを伝えるときが、一番言いにくかった。
できると言うだけなら、どれだけ簡単だろうと思った。
「控え帳へ、必要なことだけ、同意を頂いて記します。ご本人の話を聞いて、前と後を確かめるために。でも、写真や録音が、そのまま残るわけではありません」
一生に一回、一着も一回。
やり直しのための、もう一度はない。
早苗が説明を終えると、健太は上着の袖口へ指を添えた。
「この服は、その面接で着ました。買った時のまま、ずっと僕の物です」
「それは、もし使うと決めたら、改めて確認します」
「今、入れなくていいんですね」
「はい。今日はボタンを預かるだけでも」
健太が、短く息を吐いた。
早苗は受付票の控えを切り、彼の方へ向けた。
取れかけたボタンを直す金額だけが、そこに書いてある。
「三百円」
健太が読んだ。
「こちらは、今してほしいと頼んだ分ですから」
そう言ってから、彼は少し笑った。
早苗も、はい、と答えた。
健太は金曜の受取日を確かめ、帰っていった。
折った紙とペンは、自分の鞄へしまっていた。
早苗は相談中の札を戻し、カーテンを開けた。
ちょうど洗濯を終えた客が、籠を持って中央の台へ来る。
店は、何事もなかったように動いていた。
上着の裏を確かめ、似た色の糸を選ぶ。
緩んだ糸を取り除いてから、ボタンを付け直した。
強く締めればいいわけではない。留めるときに布がつれない程度に、必要な余裕を残す。
早苗は一度留め、外して、もう一度留めた。
今頼まれたのは、ここまでだった。
仕上がった上着を受付の棚へ掛ける。
その下へ、預かり票を付けた。
名前のある票が一枚下がっただけで、七番機までの短い距離が、朝とは違って見えた。
早苗は叔母へ、説明を聞いて帰った人がいた、とだけ連絡した。
名前も、悔やんでいた仕事のことも、メッセージへは書かなかった。




