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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第1章 一着目の昨日

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3/30

第3話 スーツのポケット

 スーツの上着を受け取る前に、早苗は置き場所を作った。

 補修受付の机には、直したタオルと、まだ手をつけていない作業ズボンがある。二つを別の棚へ移し、机の上へ白い布を広げる。

 客の持ってきた紺色の上着は、畳んだまま、なかなか紙袋から出てこなかった。


「内側のボタンなんです。外から見えない所で」


 男性は袋へ片手を入れたまま言った。

 二十代半ばくらいだろうか。淡い色のシャツの袖を、一回だけ折っている。

 早苗は、確認してもいいですか、と尋ねた。


「はい。お願いします」


 ようやく出てきた上着の内側で、留め糸が切れかけていた。

 外のボタンは、まだしっかりしている。表の布にも、目立つ擦れはない。

 早苗が机へ広げようとすると、片側だけが沈んだ。


「ポケットに、何か入っていますか」


「あ、すみません。全部出したつもりで」


 男性は上着を自分の方へ戻し、胸の内ポケットを探った。

 折った紙と、一本の細いペンが出てくる。ほかも指で確かめてから、再び早苗へ渡した。

 折り目の間に、企業説明会、という字が見えた。

 早苗は紙から視線を外し、ボタンの下の生地を見た。


「土台は傷んでいないので、付け直せます。お急ぎですか」


「来週使えれば。それより、取れそうなまま着るのが、何となく嫌で」


 見えない所でも、気になると指で触ってしまう。

 早苗にも分かることだった。

 料金を伝えると、男性はうなずき、受付票へ名前を書いた。

 川原健太(かわはらけんた)。

 受取日を確認する途中で、彼のペンが一度止まった。


「これ、就活のときに買った物なんです」


 早苗は上着を持ったまま、次の言葉を待った。


「三年前。ちゃんとした所へ入れば、しばらく着なくなると思ってたんですけど。案外、また使うんだなって」


「お仕事の面接に?」


「はい。辞めたので。次の所を探してます」


 店の奥で、乾燥機が止まった。

 待っていた客が立ったので、早苗は受付票を伏せた。健太も声を落とす。

 預かり票の控えを切り離そうとすると、健太が上着の襟へ目を向けた。


「最初の面接で、聞けばよかったんです」


「聞けば、というと」


「求人に出てた時間と、説明された働き方が、少し違って。遅い時間もあるって言われて。でも、その場で、どれくらいですかって聞けなかった」


 ペンの先が、受付票の余白を押していた。

 早苗は、適職の相談に答えられる人間ではなかった。

 それでも、自分も答えを先へ用意しないように、言葉を待った。


「大丈夫です、って言ったんです。その方が、欲しい返事だと思ったので」


 早苗の指先で、紙の角が曲がった。

 健太は気づかずに、薄く笑った。


「自分が大丈夫かは、後で考えればいいと思ってました」


 早苗は受付票を机へ置いた。

 七番機の話をするべきか、まだ迷った。

 人が悔やんでいる言葉を聞くたびに、あの機械へ案内する店にはしたくない。

 叔母からは、宣伝するよう頼まれていない。

 けれど、知らないまま話を終えることを、健太自身が選んだとも言えなかった。


「少し、変わったお話があります。聞かずに、ボタンの付け直しだけでお帰りになっても大丈夫です」


 健太が顔を上げた。


「仕事の紹介ではありません。面接の助言でもなくて。ここにある、七番機の話です」


 彼はカーテンの外へ目を向けた。

 停止札は、受付の入口からも見える。


「壊れてる洗濯機ですか」


「通常の洗濯には使えません。ですから、それを直すためのお金をお願いする話ではないです」


 そこまで言うと、健太は少しだけ肩を下げた。

 早苗は、何と疑われていたのかを、遅れて察した。

 確かに、この持ちかけ方は、安心できるとは言い難かった。


「今日、何かを決めなくてもいいんですよね」


「はい。むしろ、持ち帰って考えてほしい話です」


「じゃあ、聞きます」


 早苗はほかに受付を待つ人がいないことを確かめ、カーテンを引いた。

 入口の札は、相談中へ替える。

 机の反対側の椅子を勧めたが、健太は座る前に、上着をもう一度見た。


 同じ実物の服を、本人がその日に着ていたこと。

 その場にいた一人へ、本当に言おうとして飲み込んだ言葉を届けられること。

 早苗は、叔母に確かめた範囲を、一つずつ話した。

 健太は途中で、そんな、と一度だけ言ったが、帰るとは言わなかった。


「面接を、受けなかったことにできるんですか」


「出来事を指定することはできません。送れるのは、その場で言いかけた一文だけです。聞いた方がどう答えるかは、その方が決めます」


「採用を取り消されるかもしれない?」


「そうなるかもしれません。ならないかもしれません。今よりいい職歴になるという約束はできないんです」


 健太は折った紙を、机へ置いた。

 裏側だった。早苗に見せるためではなく、手を空けたかったらしい。


「それで、三年前から、別のことをした自分になる」


「その言葉からつながることが、変わるそうです。使ったご本人は、前と後の記憶を、両方持つ。それ以外の人は、変わった後だけを覚えます」


「水野さんも?」


「はい。私もです」


 早苗が管理人であることは、彼の古い人生を覚えておく保証にはならない。

 そのことを伝えるときが、一番言いにくかった。

 できると言うだけなら、どれだけ簡単だろうと思った。


「控え帳へ、必要なことだけ、同意を頂いて記します。ご本人の話を聞いて、前と後を確かめるために。でも、写真や録音が、そのまま残るわけではありません」


 一生に一回、一着も一回。

 やり直しのための、もう一度はない。

 早苗が説明を終えると、健太は上着の袖口へ指を添えた。


「この服は、その面接で着ました。買った時のまま、ずっと僕の物です」


「それは、もし使うと決めたら、改めて確認します」


「今、入れなくていいんですね」


「はい。今日はボタンを預かるだけでも」


 健太が、短く息を吐いた。

 早苗は受付票の控えを切り、彼の方へ向けた。

 取れかけたボタンを直す金額だけが、そこに書いてある。


「三百円」


 健太が読んだ。


「こちらは、今してほしいと頼んだ分ですから」


 そう言ってから、彼は少し笑った。

 早苗も、はい、と答えた。


 健太は金曜の受取日を確かめ、帰っていった。

 折った紙とペンは、自分の鞄へしまっていた。

 早苗は相談中の札を戻し、カーテンを開けた。

 ちょうど洗濯を終えた客が、籠を持って中央の台へ来る。

 店は、何事もなかったように動いていた。


 上着の裏を確かめ、似た色の糸を選ぶ。

 緩んだ糸を取り除いてから、ボタンを付け直した。

 強く締めればいいわけではない。留めるときに布がつれない程度に、必要な余裕を残す。

 早苗は一度留め、外して、もう一度留めた。

 今頼まれたのは、ここまでだった。


 仕上がった上着を受付の棚へ掛ける。

 その下へ、預かり票を付けた。

 名前のある票が一枚下がっただけで、七番機までの短い距離が、朝とは違って見えた。

 早苗は叔母へ、説明を聞いて帰った人がいた、とだけ連絡した。

 名前も、悔やんでいた仕事のことも、メッセージへは書かなかった。

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