第2話 七番機は動かさないで
叔母からの電話は、朝の清掃を終えたところへ来た。
早苗はモップを片付け、受付の椅子に座った。カーテンの向こうで、一番機が回っている。
「七番機のことから、聞いてもいい?」
「ええ。昨日、怖かったでしょう。先に話しておけばよかった」
千鶴の声は、普段のままだった。
水漏れなら業者を呼ぼう、という返事を用意していた早苗は、膝の上で手帳を開いた。
「コードは抜けてた。床も濡れてなかったよ」
「そのままにしておいて。電気を入れて使う機械じゃないの。普通の洗濯には使えない」
「じゃあ、あの音は?」
「私も、空のままで聞いたことがある。音だけで止まったでしょう」
早苗はうなずき、相手に見えないことを思い出して、止まった、と答えた。
叔母は少し間を置いた。
「あれには、服を着ていた日に、言えなかった言葉を届ける働きがあるの」
手帳の上で、ペンが止まった。
千鶴は、冗談だと言い直さなかった。
「過去に?」
「ええ。ただし、その日に本当に言おうとして、飲み込んだ言葉だけ。今思いついたことを送れるわけじゃない」
「叔母さん、何の話をしてるの」
「信じられないのは分かるわ。だから、順番に話す。聞いてから、管理を引き受けるか考え直してもいい」
早苗は受付の外を見た。
洗濯中の客は、入口近くの椅子で雑誌を読んでいる。七番機は昨日と同じように、停止札を下げていた。
それでも、昨夜の音は聞いた。
早苗は、続けて、と言った。
使えるのは、現在その服を持っている本人だけだった。
本人が過去のその場で着ていた、同じ服でなければいけない。写真や切れ端ではだめで、借りた物も使えない。
亡くなった誰かの服を譲り受けても、その日に着ていたのが自分でなければ、言葉を送ることはできないという。
「相手も、その場にいた一人だけ。後から会った人へ届けることはできない」
「何て言うかは、自分で選べるの?」
「当時、飲み込んだ内容の中からね。一文、四十字まで。知らなかったことを過去の自分へ教えることもできない」
くじの番号も、将来起きる出来事も使えない。
千鶴は、暮らしの中の一場面に限った説明をした。誰かの寿命を延ばせる道具として預かっているのではない、とも言った。
早苗はペンを置いた。
「それを言ったら、人生が変わるってこと?」
「変わることはある。でも、聞いた人の返事は選べない」
「謝ってもらえるとか、分かってもらえるとかは?」
「約束できない。怒るかもしれないし、断るかもしれない。その人が決めることだから」
受話口の向こうで、布の擦れる音がした。
千鶴が椅子へ座り直したらしい。
「一人、一生に一回だけよ。服も、一着で一回。別の服で、もう少しいい言い方を試すことはできない」
早苗はその言葉だけ、手帳へ書いた。
一生に一回。
書いてから、これが本当に仕事の説明なのだろうかと、また思った。
「今のことは、どうなるの。二つの人生ができるの?」
「残るのは、変わった後の一つ。その言葉から自然につながることが変わるの。何も関係のない出来事まで、都合よく変わるわけじゃない」
「言わなかった方のことは、忘れる?」
「使った本人は、前と後、両方の記憶を持つ。全部を正確に覚えられるわけじゃないけれど。それ以外の人は、変わった後だけ」
早苗は書きかけた線を止めた。
「私も?」
「ええ。管理していても、特別じゃない」
叔母の声が、はっきり届いた。
人の相談を聞き、服を預かり、機械を動かす。その後で、聞いたはずの話を、自分は覚えていないかもしれない。
早苗は、机の端を指で押さえた。
「それで、どうやって、前のことと比べるの」
「引出しにある、洗濯控え帳を見て。普通の紙とは違うのは、その一冊だけ。服には、送った一文の白い縫い目が残る。変わらず残るのは、帳面と、その縫い目だけよ」
スマホで撮った写真も、録音も、普段のメモも、変わった人生に合わせて更新される。
早苗は、いま手帳に書いた文字を見た。
机の小引出しには、鍵が掛かっていた。
千鶴に教えられ、住居の鍵とは別の、小さい鍵を使う。
中から、紺色の布で表紙を覆った帳面が出てきた。
角は丸く擦れていたが、表紙を開く手に、特別な重さはなかった。
「最初の三頁が、私の使い方の記録。その先は、お客さんの話だから、むやみに読まないで。私の頁は読んでいい。私自身も、一度使ってる」
「叔母さんも、二つ覚えてるの?」
「私が使った、その一度の前と後だけ。ほかの人の前の人生は、帳面と、本人に教えてもらったことしか分からない」
最初の頁には、今聞いた条件が、短い字で並んでいた。
その下に、料金を取らないこと、と書いてある。
通常の洗濯の代金とは、分ける。
使うか迷っている人を、その晩のうちに決めさせない。
言葉を代わりに考えない。
「これ、毎晩、誰かが使うの?」
「いいえ。何か月も使わないこともある。夜、一回までしか動かないけど、毎晩、誰かを入れる必要はないわ」
操作の説明は、拍子抜けするほど短かった。
ポケットを空にして、本人の服だけを入れる。選んだ場面と相手、一文を確かめて、蓋を閉じる。夜、その人が始動の丸いボタンへ一度触れる。
動くなら、電源をつながなくても動く。
条件が合わなければ始まらず、何度押しても変わらない。
終わるまで、およそ三十分。
「壊れないように、手入れは?」
「外側の埃を取るだけ。中を開けたり、部品を替えたり、電気を試したりしないで。普通の設備の保守と混ぜないでね」
早苗は、停止札の掛かった機械を見た。
使わせるための看板を、今日から出す気にはなれなかった。
千鶴も、出してほしいとは言わない。
「分からないことがあったら、その場で電話して。私にも分からないことは、分からないと伝えるから」
「誰かに頼まれたとき、断ってもいい?」
「もちろん。早苗が全部引き受ける契約じゃない。今すぐ決めない方がいい人には、帰って考えてもらって。あなた自身も」
電話を終えるころには、一番機の音が変わっていた。
客が椅子から立つ。
早苗は帳面を閉じ、引出しへ戻して鍵を掛けた。
中央の台へ客の籠が置かれる。濡れたシーツが引き出され、左右の角を合わせて広げられた。
夕方、預かっていたズボンを渡した。
客が仕上がりを確かめ、見積りどおりの代金を払う。
早苗は受取欄へ日付を入れた。こちらの帳面は、ごく普通の受付簿だ。
二冊を取り違えないように、置く場所を分けた。
住居へ戻った後、昨日開けなかった箱のテープを、今度は最後まではがした。
薄紙をめくると、淡い青のブラウスが出てきた。
襟の内側に、うっすらと染みがある。裾には、着ていたころから気になっていた糸の緩みが残っていた。
早苗は表示を見直した。ポリエステルの混じった布で、決められた方法なら水で洗える。
これを着ていた日は、一日ではない。
けれど、思い出したのは、食卓の椅子へ座った、あの晩だった。
別れた夫の尚之の前へ、冷めたお茶を置いた。
話を始めようとして、相手の疲れた顔を見た。
平気ではなかったのに、先に、平気だと答えた。
早苗はブラウスを畳んだ。
いまなら、その前に何か言えたのだろうか。
言えたとして、尚之が何と返すかは、選べない。
朝聞いたばかりの説明が、ここでは急に、服の重さになった。
七番機へは持っていかなかった。
箱へ戻し、薄紙を掛ける。
蓋は閉じたが、テープは貼り直さずにおいた。




