第1話 離婚届のあとの洗濯
洗濯かごの取っ手は、離婚届よりも重かった。
中に入っているのは、タオルが三枚と、昨夜まで着ていた服だけだ。三十五歳の水野早苗は片手から両手へ持ち替え、ガラス戸を肩で押そうとして、やめた。
引く、と目の高さに書いてある。
いったんかごを地面へ置き、左手で戸を開けた。右手でかごを拾い直す。引越しの初日から、店の入口を壊すところだった。
ランドリーひだまり。
黄色い庇の下に、少し色の薄くなった看板が掛かっている。四月の朝の光が、ガラス越しに床へ四角く落ちていた。
洗剤の匂いは思っていたより弱い。右側の乾燥機が一台だけ回っていて、金具が内側へ当たる小さな音がした。
左の壁に洗濯機が三台。中央に畳み台。奥には、白い札を下げた古い一台がある。
七番機、使用停止。
早苗は札を読んだだけで、その横を通った。
西側のカーテンの先が補修受付だった。小さい机と、作業灯と、糸の入った棚。その奥の扉を、叔母の水野千鶴から預かった大きい方の鍵で開ける。
今日から住む部屋には、引越し業者が先に置いた箱が五つ並んでいた。
自分の物だけになると、こんなものだった。
窓を開けてから、かごを台所の床へ置いた。
水野早苗、と油性ペンで書いた箱が、手前にある。
九年間使った姓を書きかけて、線で消した跡が残っていた。上から紙を貼れば隠せたのに、荷造りのときには、その一枚を探すのも面倒だった。
早苗は箱を壁側へ回した。
名前のある面が、見えなくなった。
机の上で、契約書をもう一度開く。
期間は今日から一年。叔母の療養中、店の清掃と管理、夕方の受付を引き受ける。住居部分の家賃は取らない代わりに、何か起きたら連絡がつくようにする。
それは、ずっと店にいろという意味ではないと、叔母は二度言った。
『出かける時刻を、先に自分で決めなさい。住んでいると、仕事の終わりが見えなくなるから』
早苗は契約書の脇へ、まだ何も書いていない手帳を置いた。
管理の報酬は、月六万二千円。
洗濯機へ入る硬貨が、全部自分の収入になるわけではない。通常の洗濯の売上から、光熱費や設備の保守代を払うのは、所有者の叔母だ。早苗は預かった分を集計し、報酬とは分けて扱う。
補修受付の利益を月三万五千円ほど作れれば、当面は暮らせる。
ただし、まだ一件も受けていない。
早苗は電卓へ九万七千と入れ、食費や住居の光熱費、通信費を引いた。
美容院の費用を入れ忘れ、戻って引いた。靴もいつかは買う。
最初の月に足りない分は、貯金から出すしかなかった。
何もしなくても暮らせる部屋を、もらったのではない。
そのことには、少し安心した。
昼前、清掃の手順を書いた紙を持って店へ出た。
乾燥機のフィルターは、利用中の機械を避ける。通常機の異常表示を見つけても、自分で中を開けず、保守先へ連絡する。前の衣料品店で受付をしていたからといって、何でも直せるわけではない。
作業灯を点けると、受付の小机だけが明るくなった。
持ってきた裁縫道具を並べる。糸切りばさみを右側へ置くと、ようやく、前にもしたことのある動きになった。
ボタン付け、三百円から。
裾のほつれは、状態を見て見積り。
大きな直しは、外の専門店へ確認してから。
叔母と相談して作った料金表を、入口の内側へ貼った。
紙の下の角が浮く。貼り直そうとしたところへ、ガラス戸が開いた。
「千鶴さんの、姪御さん?」
白髪を短く切った女性が、入口で足を止めていた。抱えている袋には、花模様の毛布が見える。
早苗はテープを手に持ったまま、頭を下げた。
「水野早苗です。今日から、しばらく管理をします」
「安田です。富美。いつも、ここへ毛布を持ってくるの」
「ありがとうございます。お預かりしましょうか」
「洗うのは、自分でできるから大丈夫。戸だけ、お願いできる?」
早苗は自分が半分ふさいでいた入口を空けた。
富美は袋をいったん台へ置き、毛布の表示を確かめてから、空いている通常機へ運んだ。
受付にいると、すぐ、何かしてあげる手を出したくなる。
頼まれたのは戸だけだった。
「千鶴さん、電話では、退屈だって」
「今朝も、そんなことを言っていました」
「退屈なら、ちゃんと休んでるんでしょう。ここで働いてると、退屈にはならないものね」
富美が料金を入れ、運転を始めた。
その間に、右側の乾燥機が止まった。奥の椅子で待っていた男性が立ち、扉を開ける。
大きいタオルを抱えた彼は、中央の台の前で一度、足を止めた。
「これ、こちらの袋で合ってます?」
手が伸びた先には、富美の花柄の袋があった。
富美は自分の袋を見て、それから男性の足元を指した。
「あなたの、下で待ってるわよ」
椅子の脚に、同じくらいの大きさの青い袋が立てかけてあった。
男性が、あ、と笑う。
「危なかった。家に帰ってから、柄が増えたと思うところでした」
「毛布まで増えたら、また洗いに来ることになるわね」
早苗も笑った。
中央の台から紙を片付け、客の畳む場所を空ける。
夕方までに、受付へ来たのは、作業ズボンの裾を見てほしいという人が一人だった。
その場で金額を決めず、縫い代と傷んだ箇所を確かめる。依頼の内容と見積りを説明してから、預かり票を渡した。
最初の一件は、明日の夕方に渡す約束になった。
早苗は受取日を手帳へ書いた。
空白だった頁に、自分が守る用事が一つできた。
七時に受付の札を裏返し、カーテンを閉めた。
店には、まだ洗濯を待っている人がいる。住居へ戻っても、低い回転音が扉越しに届いた。
早苗は台所で、買ってきたおにぎりを皿へ移した。
皿を使えば夕飯らしくなると思ったが、洗い物が一枚増えただけかもしれない。
それでも、座って食べた。
食器を洗い、持ってきたかごから、今夜洗う服を選んだ。
住居には洗濯機がない。服の表示とポケットを確かめ、通常機へ運ぶ。自分の分の料金を入れると、残り時間の数字が点いた。
待っている間に、タオルの箱を開けた。
洗い上がった服を干す場所も、先に決めておく。裏の小さい物干しへハンガーを掛け、風で隣の物へ寄らないだけの間を空けた。
家事をするたび、知らない部屋の中に、自分が使う場所が一つずつできていった。
スマホに、叔母から短い連絡が来ていた。
『初日はどう。明日の朝、電話してもいい?』
大丈夫、と打ってから、早苗は指を止めた。
仕事の場所も、自分の物の場所も、まだ分からない。
七番機の扱い以外は、もらった紙に書いてあった。困ったことがあれば、朝、聞けばいい。
『暮らす方は、まだ箱のまま。電話、待ってる』
送ってから、残った箱へ手を伸ばした。
肌着の箱と、食器の箱を開ける。
最後の一つは、衣類とだけ書いてあった。
中には季節の違う服と、薄い紙へ包んだブラウスがあるはずだった。
離婚の話を始めた日に着ていた服だ。
水洗いできる表示を見て買った。長く使うつもりだった。
袖を通さなくなってからも、捨てる袋には入れられなかった。
早苗は箱のテープの端へ爪を掛け、はがしかけた所で手を離した。
今夜、全部を片付ける必要はない。
それが本当なのか、また先へ送っているだけなのかは、分からなかった。
十時過ぎ、早苗は受付へ置き忘れた手帳を取りに出た。
さっき最後の客が帰り、動いている通常機はなかった。
手帳を取った後、中央の台へ残った空のかごも、いつもの置き場所へ戻す。入口のマットが、片側だけ浮いていたので、足が引っ掛からないよう直した。
初めて店番をした一日の用事が、まだ少し、手の中へ残っている感じがした。
床は乾いていた。
一番機も、二番機も、三番機も、表示は消えている。
奥の七番機から、一度だけ、かすかな水音がした。
早苗は足を止めた。
白い停止札が下がり、電源コードは抜かれたまま、壁のフックへまとめられていた。
故障の報告先の番号を、スマホへ表示した。
その間に音は消えた。
機械へは触らず、床へ漏れた水がないことを、もう一度確かめる。
早苗は叔母への連絡に、一行を足した。
『七番機から、水の音がした。明日、これも教えて』




