第29話 普通の洗濯機で
ブラウスを洗う日は、二月の水曜にした。
早苗は誰かに使うかと聞かれたのではなく、自分の手帳へ書いた。
朝の清掃を済ませ、補修受付の休みの札を確かめる。
七番機は、奥のいつもの場所にあった。
白い停止札も、まとめたコードも、そのままだった。
早苗は住居の棚を開け、淡い青のブラウスを取り出した。
裾の糸が、指へ触れる。
洗う前に、どこまで緩んでいるかを確かめた。大きくほどける状態ではなかったが、引っ掛けないように扱う必要がある。
襟の染みも、窓の方へ向けて見た。
長い間置いた物だから、普通に洗っただけで全部落ちるとは限らない。
表示を読んだ。
洗濯機で弱く洗える、水洗い可能な素材だった。
表示に合う方法と、使う物を選ぶ。ポケットはないが、畳んだ所に何か残っていないか、広げて確かめた。
初めに包んでいた薄紙も、ボタンの袋も、一緒には入れない。
早苗は服をネットへ収め、ファスナーを端まで閉じた。
店側へ出ると、一番機が空いていた。
普通の料金を、自分の分として用意する。
洗濯槽を確認し、表示に合うコースを選んだ。
通常機の操作の表示が、指を置いた順番に変わる。
七番機の前へ寄る必要はなかった。
早苗は一度、服を入れた所を見た。
この先も着る服を、一着、洗っている。
そう思っても、手を動かすのに少し時間がかかった。
開始のボタンを押すと、いつもの水が入る音がした。
残り時間が表示される。
控え帳を出さず、早苗は受付の椅子ではなく、客の待つ方の椅子へ座った。
手元の籠には、後で干すためのハンガーが入っている。
途中で富美が来て、毛布を空いている機械へ入れた。
早苗の籠を見て、今日は自分の分ね、と言う。
「はい。しばらく、洗いそびれていた服です」
「自分の物は、後になるわね。私も、直そうと思った所、いつまでも見てるだけで」
富美は自分の袋の端を示した。
持ち手の縫い目が、少し緩んでいる。
早苗は状態を見て、受付の開く日に相談できると伝えた。
富美はその場で今やってと言わず、次に使うまで余裕があるから、と、曜日を確かめた。
店の中には、二台の回る音があった。
富美は持ってきた本を開き、早苗は少し窓の外を見た。
奥の七番機は止まっている。
洗濯が終わると、早苗はネットを取り出し、ブラウスを両手で支えた。
襟を確かめる。
染みは薄くなったが、光に向ければ、わずかに残っている所があった。
力を込めてこすったりせず、今日はここまでとした。
乾燥機へは入れず、表示に合うよう、住居の物干しへ持っていく。
形を整え、ハンガーへ掛けた。
袖の先から、床へ水を落とさないよう、位置も確かめる。
普通の洗濯は、音が止まった後にもすることがあった。
干し、乾くのを待ち、必要なら直す。
早苗は空いたネットを広げ、服とは別に掛けた。
午後は、千鶴との契約の話をした。
一年の期限は、来月の終わりだった。
千鶴から、続けてほしいと先に頼まれるのを待たず、早苗から時間を取ってもらった。
通常の店の会計と、自分の仕事の記録を、机の上で分ける。
次の一年も引き受けたいと、最初に言った。
「ただ、今と同じやり方を、何も考えずに続けるのではなくて。少し、変えたい所があります」
電話の向こうで、千鶴は、聞かせてと答えた。
早苗は用意した項目を見た。
水曜の補修受付は、これからも休む。
外へ持っていく仕事が増えたので、別の日にも、先に日時を出して、受付を閉める時間を作る。
その代わり、預かる前に仕上がりの見通しを伝え、受け取る時刻を相談する。
「普通の洗濯の方は、できるだけ今のまま。でも、私が一日出かける日は、清掃をどうするか、先に決めたい」
「その分の清掃は、こちらの運営費で頼みましょう。頼む先も、一緒に探して」
千鶴の返事を、早苗は項目の横へ書き足した。
月六万二千円の報酬と住居の扱いは、次の一年も変えない。補修の利益には波があるので、依頼を増やすだけで暮らそうとはしなかった。
「引き受けられない物を、断ることが、少し分かってきたの」
早苗が言うと、千鶴は笑った。
「増えたのが仕事だけじゃなくて、よかった」
早苗も笑い、話した内容を書面にして、次に持っていくと伝えた。
「七番機の方は、続けて預かります」
最後に、早苗が言った。
相談は通常の受付と分け、これからも、使う人が自分で決められる時間を取るつもりだった。
「早苗は、使わないと決めたの?」
千鶴が尋ねた。
早苗は、うん、と答えた。
「尚之と、話した。あのとき言えなかったことを、今、言った。それでも、戻らないと、二人で話せた」
千鶴はしばらく黙った。
それから、そう、と返した。
「ほかの人が使うかは、その人が決めることだから。私が使わなかったので、おしまいにはしない」
千鶴は、分かった、と答えた。
機械を残すのが血縁の役目だとは言わなかった。
早苗が仕事として引き受ける範囲を、今日も、一緒に確認した。
翌日、乾いたブラウスを、早苗は作業台へ広げた。
自分の服なので、受付票は付けない。
裾の緩んだ糸を確かめ、必要な所だけを直す。
長く出た糸を引く前に、どこへ続くか見て、針を入れた。
淡い青に近い糸は、以前、材料を買いに行った日に選んであった。
使うかどうか決められない服のためにも、買っておいた糸だった。
糸を並べたときの自分を、早苗は覚えていた。
二駅先の材料店で、青を二つ、窓の方へ持っていった。棚の灯りの下だけで選ぶと、違う色に見えることがある。
結局、少し暗い方にした。
買ったときに、洗う日まで決められていたわけではなかった。それでも、使えるようにしておきたい気持ちは、あの時からあったのかもしれない。
早苗は今日の布へ糸を重ね、浮いて見えないことを確かめた。
裾を短くしたり、形を変えたりせず、緩んだ部分を留める。
針を動かす手は、客の服を扱うときと、大きく違わなかった。
縫い終え、表へ返す。
白い文字は、どこにもなかった。
残っているのは、自分がいま留めた、小さい縫い目だけだ。
早苗は裾を一度、指で整えた。
全部を昔と同じ状態へ戻せたわけではない。
それでも、次に着るための手入れは終わった。
受付を開ける前に、袖を通した。
襟を合わせ、鏡を見る。
いまの早苗が、少し見覚えのある服を着て立っている。
上から普段の仕事用の物を重ね、針山と糸を片付けた。
作業灯を点け、入口の受付札を表へ返す。
この服で、今日の客を迎えられた。
数日後、早苗はもう一度、千鶴を訪ねた。
電話で確認した内容をそろえた、次の一年の書面を持っていくためだった。
四月から翌年三月末までの書面を、千鶴と並んで読んだ。清掃の依頼先も決まり、早苗は連絡先を手帳へ写した。
休みについて書いた所で、ペンを止める。
「ここ、私が休むのは、補修の受付の方。普通の店が休むわけではないと、もう一度、書いておきたい」
早苗が言うと、千鶴はうなずいた。
実際に客へ出す案内とも、同じ意味になるように確認する。
分からない所がなくなってから、二人で更新を済ませた。
水野早苗、と自分の名前を書く。
引越しの箱に書きかけたときのように、前の姓を線で消すことはなかった。
自分で選んだ次の一年の用紙に、現在の名前が入った。
「来年の今頃、同じことをしたいかは、また、そのとき話そう」
早苗が言うと、千鶴は、ええ、と答えた。
「次はどうしたいか、先に言ってくれていいのよ。辞める話でも、続ける話でも」
早苗はうなずき、自分の分を鞄へしまった。
引き受けたから、ずっとここへいなければならないわけではない。
その自由があることを確認した上で、今回は、続けると決めた。
帰りの電車で、早苗は窓に映る襟元を見た。
今日も、そのブラウスを着ていた。
千鶴は気づいていたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。
特別な服を着て来たねと、説明してもらう必要はなかった。
自分の手で手入れした物が、いま着て帰る服になっている。
早苗は上着の前を少し直し、降りる駅の表示を確かめた。




