第28話 それでも、戻らない
新しい紅茶は、一杯目よりゆっくり飲めた。
早苗はカップを置き、尚之の前にある水のグラスを見た。
「今日、どんな返事を聞きたかったのか、来る前は、自分でもよく分かってなかった」
早苗が言うと、尚之は顔を上げた。
そのまま、続く言葉を待った。
「あの日の私を、見つけてほしかったのかもしれない。平気じゃないと分かってくれて、あの頃のことが、何か、失敗だけではなかったって」
尚之は、机の端の伝票を少し動かし、カップの下へ入らない場所へ置いた。
手を戻してから、聞いた。
「もう一度、一緒に、ということ?」
早苗はその問いを、相手が望んでいる答えとして受け取らなかった。
「そこを、分けて考えられていなかった。でも、今は、同じ家へ戻りたいという話ではないと、分かる」
言うと、少し胸が痛んだ。
言えたら痛くなくなる答えではなかった。
九年間使った物や、二人で決めた小さい予定を、早苗はまだ覚えている。
「店に帰ったら、明日の仕事があるの。叔母と決める契約もある。私が、誰かに先に答えを合わせないで、作っていきたい暮らしが、少しずつできてる」
早苗は、店さえあればよいという意味ではないと付け足した。
いまの自分が、帰りたい部屋のことだった。
「尚之にも、今の暮らしがあるでしょう。さっき、棚の場所を聞いて、初めて、私のいない間の仮の生活じゃないんだと、分かった」
尚之はゆっくりうなずいた。
「俺も、今日会ったら戻る話をしようと思って、来たわけじゃない。何を言われるのかは、正直、怖かったけど」
早苗はその声を聞いた。
相手にも、来る前の時間があった。
「いま、話せたから、前より分かることは増えた。でも、それで、同じ所へ戻って、今度は間違えないって、簡単には言えない」
尚之が続けた。
早苗は、同意してもらうためではなく、自分の答えとして、うなずいた。
「うん。戻って確かめなければ、この話が無駄になるとは、思わない」
尚之は、うん、と答えた。
早苗は新しい紅茶を飲んだ。まだ、飲み終わるまで座っていたかった。
尚之はカップの置かれていた輪の跡へ目を落とした。
早苗は、相手が何を考えているかを、待っている間に決めなかった。
やがて、彼は顔を上げた。
「親の用事も、前みたいに、自分は動けないから誰かが、で終わらないようにはしてる。相談する所も、聞き直した。でも、忙しいと、また、先へ送ろうとする」
尚之は自分の仕事の予定を、指先で数えるように、机へ指を置いた。
「昨日も、電話、後でかけようと思って、そのままにした。今日の帰りに、かける」
尚之はそう言い、鞄の方へ目を向けた。
早苗は自分の紅茶を飲んだ。
会う前に考えていた返事のいくつかは、もう言う必要がなかった。
「結婚したことまで、間違いだったとは、俺は思ってない」
尚之が言った。
早苗は少し目を伏せた。
その返事が欲しかった気もした。
同時に、相手にそう言ってもらわなければ、自分の九年に意味がなくなるわけでもないと思った。
「私も。笑ったことも、うれしかったことも、ちゃんとあった。でも、別れたことが間違いだったとも、今は思わない」
尚之は、うん、と返した。
「初めに買ったカーテン、長すぎたの、覚えてる?」
尚之が、窓へ目を向けたまま聞いた。
早苗は思い出し、少し笑った。
「引越した日に。二人とも、測ったつもりで、違う所を測ってた」
「その日は、裾を折って留めたんだよね」
「うん。次の日、ちゃんと直すつもりで、そのまま一週間」
早苗は、二人で椅子に乗る順番を替えたことも覚えていた。
窓の下だけ妙に厚くなった布を見て、立派になったねと笑った。
「あの頃も、全部できてたわけじゃないのに」
早苗が言い、尚之も笑った。
「一週間だった? もっと長くなかった?」
「一週間だよ。休みの日に直したから」
「窓を拭くとき、洗濯ばさみが邪魔だって、言ってた気がする」
「それは、別のカーテンじゃない?」
尚之は窓の方を見て、そうだったかな、と言った。
早苗も思い返したが、その窓を拭いた日のことは出てこなかった。
笑った後に、しばらく静かな時間があった。
「その話も、覚えててよかった」
早苗は自分から言った。
飲み終えた紅茶のカップを、早苗は両手から離した。
机の上へ置いた物が、少しずつ空いている。
尚之が時計を見たので、早苗も時刻を確かめた。
「そろそろ、出ようか」
早苗が言うと、尚之は、そうしよう、と答えた。
それぞれの飲んだ物を確かめ、会計の所で支払った。
早苗は鞄から手袋を取り、上着の前を留めた。
尚之は先に扉へ行き、開けて待った。
早苗は礼を言って外へ出た。
冷たい空気が、頬へ当たった。
店の中で話していた時間とは、違う音がする。
駅の方へ歩く人と、商店の前で止まる人が、二人の横を通り過ぎた。
早苗は通り道の端へ寄った。
尚之も隣へ立ち、鞄を持ち直す。
「封書みたいに、また、何か確認が必要だったら、そのときは連絡する」
彼が言い、早苗はうなずいた。
「うん。こちらも、必要なことがあったら」
「分かった」
「今日は、時間を取ってくれて、ありがとう」
早苗が言った。
尚之も、話してくれてありがとう、と返した。
それから、短く、気をつけて、と言った。
尚之は駅へ向かい、早苗は買物をしてから帰る方を選んだ。
歩き出した後、一度だけ振り返った。
相手も振り返っていて、小さく会釈した。
どちらも、足を戻さなかった。
食料品の店で、早苗は夕飯に使う野菜を選んだ。
一つの袋へ、思ったより多く入っている。
今週使い切れるかを考え、少ない方へ替えた。
自分の部屋の冷蔵庫へ入る量は、もう分かっていた。
店へ帰ると、通常機が一台、回っていた。
受付の休みの札は、そのままだった。
忘れ物の箱には、今朝の手袋が二つ、そろっていた。
早苗は箱を閉じた。
自分が出かけている間にも、誰かの洗濯は終わり、家へ帰っていた。
住居へ入り、鞄をいつもの椅子へ置く。
手袋を二つ、そろえて出した。
尚之へ追加の長い文を送る用事は、なかった。
まだ胸が痛むなら、痛むまま、今夜を過ごせばよかった。
早苗は買ってきた物を冷蔵庫へ入れ、台所の窓を少しだけ開けた。
棚の中のブラウスは、七番機へ入れないまま、ここにある。
あの日の自分が着た服で、いまの自分が持っている服だった。
窓を閉め、夕飯の支度を始める。
帰ってきた部屋の灯りを、自分の手で点けた。




