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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第5章 今日着る服

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第27話 平気ではなかった

「平気じゃなかった」


 早苗は言って、息を継いだ。

 声が少し細くなったが、尚之には聞こえた。

 彼はカップへ伸ばしかけた手を、机へ置き直した。


「これからのことを、一緒に考えてほしかった」


 早苗は相手の顔を見た。


「平気だって、何度も言ったけど。言った後で、いつか分かってくれると思ってた。自分が何を引き受けて、何が難しいのか、ちゃんと話さないまま」


 尚之はしばらく黙っていた。

 早苗の紅茶から、もう湯気はほとんど出ていない。

 窓に近い席で、誰かが椅子を引く音がした。


「俺の親のことも?」


 尋ねられ、早苗はうなずいた。


「それも。用事を一つ頼まれたとき、その一つだけなら、できた。でも、勤務を替わってもらったり、次の約束を動かしたりするのは、その後にあった」


 尚之は、頼んだ日時を覚えている所だけ話した。

 自分の仕事が動かしにくい日だった。

 早苗へ聞き、できると返ってきたから、そのまま任せた。

 その返事の前後に、何を動かしたかは、聞かなかった。


「言ってくれれば、とは、思う」


 尚之の声は、早苗へ強く当てるようなものではなかった。

 それでも、その言葉を聞くと、胸の内側が硬くなった。

 やはり自分が言わなかったせいだった、と先に話を閉じたくなる。

 早苗は膝の上で両手を押しつけず、指を離した。


「うん。私も、言えばよかったと思ってる。でも、それだけで終わると、今日も同じ所へ戻ってしまう」


 尚之は顔を上げた。


「言わなかったのは私。でも、何でも平気だと思われるのは、つらかった。どこまでならできるのか、二人で考えたいと言いたかった」


 早苗は一度、水を飲んだ。

 グラスの冷たさを、指先で確かめる。

 もういい、と言えば、この先は話さずに帰れる。

 早苗はグラスを置いた。


 尚之は口を開きかけ、閉じた。

 それから、自分のカップを少し脇へ移した。


「俺は、できないと言われなければ、できるんだと思ってた。無理をさせてるか、何回も聞くのも、信用してないみたいになると思って」


 早苗はその言い方を初めて聞いた。


「それで、聞かない方を選んだの?」


「うん。聞かない方が、俺も楽だったと思う。仕事で決まったことを、家へ持ってきて、じゃあどうするって、そっちへ渡してた」


 早苗は返事を探した。

 いま、全部分かってもらえたと、話を終わらせたくなる。

 けれど、一つ認めてもらったから、残りの九年も同じ説明で済むわけではなかった。

 早苗は転勤の話を出した。

 決まる前から、自分がどうするかを考えた。

 仕事を続けるか、暮らす場所をどうするか。何を先に聞けばいいか分からず、まず、尚之の都合を確かめた。


「そのときも、私は、あなたの仕事が大事だからって言った。本当に、大事だと思ってた。でも、自分の仕事は、それより軽く扱っていいと思ってたわけじゃない」


 尚之はうなずいた。

 それから、すぐにうなずいたことを、自分で止めるように、待って、と言った。


「いや、待って。俺、そこで、もう相談は終わりだと思ってたんだ」


 早苗は顔を向けたまま、聞いた。


「早苗が合わせると言ったから、合わせてくれるんだと。その間、何を失うかとか、俺がどこを動かせるかは、話してなかった」


 尚之は一度、店の奥へ目を向けた。

 視線を戻すまで、早苗は待った。


「俺の仕事は、決まったことだからって。それで、早苗の方を、動かしてもらうつもりだった」


 あのとき、この話ができていたら。

 早苗は、うなずく前にそう思った。


「私も、迷惑をかけないようにすれば、大事にされると思ってたのかもしれない」


 早苗は机の木目を見た。


「望む返事を、先に選んだ。平気だって言えば、あなたが疲れた顔をしないと思った。そういう自分でいることを、自分で決めて、後で、何で分かってくれないんだろうって思ってた」


 尚之は、疲れた顔、という所で、小さく息を吐いた。


「してたと思う。仕事の話の後で、家でも考えることを出されるのが、しんどいって。自分から話してきたのに」


 早苗は首を少し振った。


「いつも、話しかけられない人だったという意味じゃない。笑って話した日もあったし、用事をしてくれた日もあった。だから、全部悪かったことにもできなくて」


「一度、夜に話そうって決めた日、覚えてる?」


 早苗が尋ねると、尚之は少し考えた。


「帰るのが遅くなった日?」


「うん。ずっと待ってた。でも、帰ってきたら疲れてると思って、先に、ご飯にしようって」


「あの日は、話、終わったんじゃなかった?」


 早苗は尚之を見た。


「終わってない」


「でも、その後に、もう遅いからって。明日も早いし、それなら今日はいいって」


「次にしようって言ったの。いいって、そういう意味で」


 思ったより大きい声になった。

 尚之がカップへ目を落とす。

 早苗は窓の方を見てから、彼へ戻した。


「あの日、私、待ってたんだよ」


「うん。それは、今、聞いた」


「今、じゃなくて」


 そこまで言って、早苗は止まった。

 尚之は両手を机の下へ引いた。


「俺は、食べた後で早苗が笑ったのを覚えてる。それで、ひとまず、大丈夫なんだと思った」


 早苗には、食器を洗ったときの水のぬるさが残っていた。

 何を笑ったかは、思い出せない。


「笑ったかもしれない。でも、話したかったことは、なくなってなかった」


 尚之はすぐにうなずかなかった。

 早苗も、続きを急がなかった。

 隣の席で椅子が引かれ、店員が通る。二人はその人が通り過ぎるまで、黙っていた。


「次の日を、決めなかったね」


 尚之が言った。


「俺は、もう済んだつもりでいたから。早苗の方には、まだ残ってた」


「私も、いつにするって、聞かなかった。次、って言ったのに」


 尚之は机へ手を戻した。

 しばらく、コーヒーには手をつけていなかった。


「最後の方は、話し始める前から、どうせ同じになると思ってた」


 尚之が言った。


「早苗が黙ると、もう話したくないんだと思った。俺も、じゃあ今日はやめようって、切った。先に終わらせれば、何も悪くならない気がして」


「私も。黙れば、傷つけることを言わずに済むと思った。でも、黙ったまま、遠くなった」


 二人の間で、声が途切れた。

 尚之は早苗の水のグラスを見たが、手は出さなかった。

 早苗は自分で少し飲み、置いた。


「ごめん。言わないなら大丈夫って、俺が決めた。あのとき、考える用事を、片方へ渡しっぱなしにした」


 尚之が言った。

 早苗はすぐに、私も悪かったからいい、と返さなかった。

 謝った言葉を聞き、少し時間を置いた。


「うん。聞けて、よかった。私も、ごめん。自分が欲しかったことを、言わないまま、あなたが気づかなかった分を数えてた」


「今、言っても、あの日の私が、同じ返事を聞けるわけじゃないんだね」


 早苗はつぶやくように言った。

 尚之は、そうだね、と答えた。


「でも、いまの俺は、聞いた。平気じゃなかったって」


 早苗は顔を上げた。

 尚之の目が、こちらを見ていた。

 ずっと待っていた返事に似ていた。

 早苗は一度目を伏せてから、うん、と答えた。


 尚之が、冷めたコーヒーを飲み干した。


 空いたカップを、店員が下げに来た。

 二人で顔を見合わせ、もう少し、何か飲むかと確かめた。

 早苗は同じ紅茶を頼み、尚之は水だけで少し待つと答えた。

 早苗は新しいカップを置く場所を空け、自分の次の言葉を考えた。

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