第27話 平気ではなかった
「平気じゃなかった」
早苗は言って、息を継いだ。
声が少し細くなったが、尚之には聞こえた。
彼はカップへ伸ばしかけた手を、机へ置き直した。
「これからのことを、一緒に考えてほしかった」
早苗は相手の顔を見た。
「平気だって、何度も言ったけど。言った後で、いつか分かってくれると思ってた。自分が何を引き受けて、何が難しいのか、ちゃんと話さないまま」
尚之はしばらく黙っていた。
早苗の紅茶から、もう湯気はほとんど出ていない。
窓に近い席で、誰かが椅子を引く音がした。
「俺の親のことも?」
尋ねられ、早苗はうなずいた。
「それも。用事を一つ頼まれたとき、その一つだけなら、できた。でも、勤務を替わってもらったり、次の約束を動かしたりするのは、その後にあった」
尚之は、頼んだ日時を覚えている所だけ話した。
自分の仕事が動かしにくい日だった。
早苗へ聞き、できると返ってきたから、そのまま任せた。
その返事の前後に、何を動かしたかは、聞かなかった。
「言ってくれれば、とは、思う」
尚之の声は、早苗へ強く当てるようなものではなかった。
それでも、その言葉を聞くと、胸の内側が硬くなった。
やはり自分が言わなかったせいだった、と先に話を閉じたくなる。
早苗は膝の上で両手を押しつけず、指を離した。
「うん。私も、言えばよかったと思ってる。でも、それだけで終わると、今日も同じ所へ戻ってしまう」
尚之は顔を上げた。
「言わなかったのは私。でも、何でも平気だと思われるのは、つらかった。どこまでならできるのか、二人で考えたいと言いたかった」
早苗は一度、水を飲んだ。
グラスの冷たさを、指先で確かめる。
もういい、と言えば、この先は話さずに帰れる。
早苗はグラスを置いた。
尚之は口を開きかけ、閉じた。
それから、自分のカップを少し脇へ移した。
「俺は、できないと言われなければ、できるんだと思ってた。無理をさせてるか、何回も聞くのも、信用してないみたいになると思って」
早苗はその言い方を初めて聞いた。
「それで、聞かない方を選んだの?」
「うん。聞かない方が、俺も楽だったと思う。仕事で決まったことを、家へ持ってきて、じゃあどうするって、そっちへ渡してた」
早苗は返事を探した。
いま、全部分かってもらえたと、話を終わらせたくなる。
けれど、一つ認めてもらったから、残りの九年も同じ説明で済むわけではなかった。
早苗は転勤の話を出した。
決まる前から、自分がどうするかを考えた。
仕事を続けるか、暮らす場所をどうするか。何を先に聞けばいいか分からず、まず、尚之の都合を確かめた。
「そのときも、私は、あなたの仕事が大事だからって言った。本当に、大事だと思ってた。でも、自分の仕事は、それより軽く扱っていいと思ってたわけじゃない」
尚之はうなずいた。
それから、すぐにうなずいたことを、自分で止めるように、待って、と言った。
「いや、待って。俺、そこで、もう相談は終わりだと思ってたんだ」
早苗は顔を向けたまま、聞いた。
「早苗が合わせると言ったから、合わせてくれるんだと。その間、何を失うかとか、俺がどこを動かせるかは、話してなかった」
尚之は一度、店の奥へ目を向けた。
視線を戻すまで、早苗は待った。
「俺の仕事は、決まったことだからって。それで、早苗の方を、動かしてもらうつもりだった」
あのとき、この話ができていたら。
早苗は、うなずく前にそう思った。
「私も、迷惑をかけないようにすれば、大事にされると思ってたのかもしれない」
早苗は机の木目を見た。
「望む返事を、先に選んだ。平気だって言えば、あなたが疲れた顔をしないと思った。そういう自分でいることを、自分で決めて、後で、何で分かってくれないんだろうって思ってた」
尚之は、疲れた顔、という所で、小さく息を吐いた。
「してたと思う。仕事の話の後で、家でも考えることを出されるのが、しんどいって。自分から話してきたのに」
早苗は首を少し振った。
「いつも、話しかけられない人だったという意味じゃない。笑って話した日もあったし、用事をしてくれた日もあった。だから、全部悪かったことにもできなくて」
「一度、夜に話そうって決めた日、覚えてる?」
早苗が尋ねると、尚之は少し考えた。
「帰るのが遅くなった日?」
「うん。ずっと待ってた。でも、帰ってきたら疲れてると思って、先に、ご飯にしようって」
「あの日は、話、終わったんじゃなかった?」
早苗は尚之を見た。
「終わってない」
「でも、その後に、もう遅いからって。明日も早いし、それなら今日はいいって」
「次にしようって言ったの。いいって、そういう意味で」
思ったより大きい声になった。
尚之がカップへ目を落とす。
早苗は窓の方を見てから、彼へ戻した。
「あの日、私、待ってたんだよ」
「うん。それは、今、聞いた」
「今、じゃなくて」
そこまで言って、早苗は止まった。
尚之は両手を机の下へ引いた。
「俺は、食べた後で早苗が笑ったのを覚えてる。それで、ひとまず、大丈夫なんだと思った」
早苗には、食器を洗ったときの水のぬるさが残っていた。
何を笑ったかは、思い出せない。
「笑ったかもしれない。でも、話したかったことは、なくなってなかった」
尚之はすぐにうなずかなかった。
早苗も、続きを急がなかった。
隣の席で椅子が引かれ、店員が通る。二人はその人が通り過ぎるまで、黙っていた。
「次の日を、決めなかったね」
尚之が言った。
「俺は、もう済んだつもりでいたから。早苗の方には、まだ残ってた」
「私も、いつにするって、聞かなかった。次、って言ったのに」
尚之は机へ手を戻した。
しばらく、コーヒーには手をつけていなかった。
「最後の方は、話し始める前から、どうせ同じになると思ってた」
尚之が言った。
「早苗が黙ると、もう話したくないんだと思った。俺も、じゃあ今日はやめようって、切った。先に終わらせれば、何も悪くならない気がして」
「私も。黙れば、傷つけることを言わずに済むと思った。でも、黙ったまま、遠くなった」
二人の間で、声が途切れた。
尚之は早苗の水のグラスを見たが、手は出さなかった。
早苗は自分で少し飲み、置いた。
「ごめん。言わないなら大丈夫って、俺が決めた。あのとき、考える用事を、片方へ渡しっぱなしにした」
尚之が言った。
早苗はすぐに、私も悪かったからいい、と返さなかった。
謝った言葉を聞き、少し時間を置いた。
「うん。聞けて、よかった。私も、ごめん。自分が欲しかったことを、言わないまま、あなたが気づかなかった分を数えてた」
「今、言っても、あの日の私が、同じ返事を聞けるわけじゃないんだね」
早苗はつぶやくように言った。
尚之は、そうだね、と答えた。
「でも、いまの俺は、聞いた。平気じゃなかったって」
早苗は顔を上げた。
尚之の目が、こちらを見ていた。
ずっと待っていた返事に似ていた。
早苗は一度目を伏せてから、うん、と答えた。
尚之が、冷めたコーヒーを飲み干した。
空いたカップを、店員が下げに来た。
二人で顔を見合わせ、もう少し、何か飲むかと確かめた。
早苗は同じ紅茶を頼み、尚之は水だけで少し待つと答えた。
早苗は新しいカップを置く場所を空け、自分の次の言葉を考えた。




