第26話 尚之との待ち合わせ
会う場所は、早苗から送った。
駅の改札で待ち合わせてから決めるのではなく、時間をかけて話せる店を一つ選び、相手が来られるか尋ねた。
尚之は場所を確認し、水曜の二時なら行けると返した。
早苗も、その時刻で、と答えた。
どちらでも大丈夫、という一文にしなくて済んだ。
一月の終わり、朝の清掃をしていると、乾燥機の前に忘れ物の手袋があった。
片方ではなく、二つそろっていた。
早苗は番号と見つけた場所を控え、いつもの箱へ入れた。
手を離す前に、自分の手袋も鞄へ入っているか確かめる。
今日の午後は、店の外で過ごす予定だった。
水曜は補修受付が休みで、通常の機械は使える。
入口の案内を確認し、必要な連絡が届くようにしてから、早苗は住居へ戻った。
家を出るまで、まだ二時間以上ある。
何を着るかを、昨夜のうちには決めていなかった。
棚を開くと、淡い青のブラウスが、手前近くに掛かっていた。
紘子の話を聞いた後で、少しずらした位置のままだ。
裾の糸も、襟の染みも、そのまま残っている。
早苗は一度、袖へ手を添えた。
着ていけば、あの日のことを思い出してもらえるだろうか。
そんな考えが浮かび、指を離した。
あの日、この色を着ていたと、尚之は覚えているだろうか。
覚えていたら、何を話してほしいのだろう。
早苗は別の、落ち着いた色のニットを選んだ。
洗ってある物を取り、袖を通す。
ブラウスは棚へ戻した。
台所で早めの昼食を取った。
緊張して食べられないと考えていたが、温かい汁を飲むと、思ったより普通におなかがすいていた。
早苗はもう少しご飯を足した。
食器を洗い、机へ残っていた受付簿を、仕事の引出しへ戻す。
持っていくのは、鞄と、自分の手帳だけだった。
七番機の控え帳は、施錠したままだ。
尚之へ、それを見せて説明するつもりはなかった。
ほかの人の一言や、変わった人生を、今日の会話の根拠へ持っていく必要はない。
早苗自身が、平気ではなかった。
それを、自分のこととして話したかった。
家を出る前、玄関の手前で、早苗はスマホを見た。
匡史からの連絡は来ていない。
自分が誰と会うかを話したから、見送る言葉を待っていたのかもしれなかった。
彼には、水曜の用事がある。
早苗は画面をしまい、鍵を掛けた。
駅の向こうの喫茶店は、昼の客が少し引いたところだった。
早苗は予約していた名前を伝え、壁側の二人席へ案内された。
入口と少し離れ、隣の席の声が、そのまま混じる距離ではない。
椅子へ鞄を置く前に、上着を脱いだ。
手袋はポケットへ入れず、鞄の内側へ、二つ一緒にしまう。
五分ほどして、尚之が来た。
先に早苗を見つけ、足を止める。
目が合うと、片手を小さく上げた。
「待った?」
「今、来たところ。ここ、分かりにくくなかった?」
「入口を一回通り過ぎた。裏にもあるかと思って」
早苗は、表の方だけだったね、と答えた。
店を選んだのに、入口の説明は足していなかった。
小さいことを一つ聞き直し、二人で席へ着いた。
尚之はメニューを開き、コーヒーを選んだ。
早苗は紅茶と答えてから、ミルクを付けてもらった。
昔なら、相手と同じ物にして、一度で注文を終えた日も多かった。
尚之は違う注文を、ただ店員へ伝えた。
「送ってもらった物、全部、こちらで手続きしました。もう、その送り主からは、前の所へ行かないと思う」
早苗が伝えると、尚之はうなずいた。
「こっちに残ってた物は、前に渡した分で、終わりだと思う。もし、また何かあったら、そのとき確認する」
「うん。ありがとう」
それで終えられる用件だった。
尚之も、まだ何かを言いたそうに、早苗を見ることはしなかった。
先に、この時間を頼んだのは自分だった。
早苗は鞄から手帳を出しかけ、やめた。
「今、店の方は、どう?」
尚之が尋ねた。
早苗は生活のことから答えた。
奥の部屋へ住み、朝の清掃と、夕方の補修受付をしている。
水曜は受付を休むと決め、通常の店だけ動かしている。
直接直せない物は、外へ頼むか、客へできない範囲を伝える。
「全部、自分でやる店ではないんだ」
「うん。できることを増やすより、どこまで引き受けるかを、先に話すことが多い」
言ってから、早苗は自分の仕事の説明だけをしていたと気づいた。
そこから夫婦の反省へ、尚之がつなげてくれるのを待つことはできない。
尚之は、それは大事だね、と答えた。
「尚之の方は?」
尋ねると、年末の仕事が、ようやく落ち着いたという。
家では、前より買物をする回数が増えた。
多く作って残す量と、次の日に食べられる量が、最初は合わなかった。
早苗はその話を聞き、尚之が一人で使う台所を想像した。
昔の台所へ、空いた席だけを置いた形ではなかった。
相手にも、もう、その暮らしのやり方がある。
尚之が話す、食べ物を置く棚の位置を、早苗は知らなかった。
以前なら、どの戸の中に何があるか、話されなくても分かった。
いまは、聞いた分の形しか分からない。
それを寂しいと思い、同時に、知らないことがあって当然なのだと考えた。
自分の部屋の棚も、尚之は見たことがない。
早苗は、いつの間にか、相手の一人暮らしを、こちらのいない間の仮の暮らしのように思っていたのかもしれなかった。
「物を探すのに、今でも、前の場所を開けることある?」
早苗が聞くと、尚之は少し考えた。
「最初はあった。でも、今は、今の所へ置いてる。そっちは?」
「私も。引っ越してすぐは、箱を開けるのに、時間がかかったけど」
尚之は、そっか、と答えた。
その短い返事の後を、早苗は待っていた。
大変だったね、気づけなくてごめん。あのとき本当はつらかったんだね。
そこまで相手が自分から話してくれれば、こちらも、ようやく話せる気がしていた。
待っている自分に気づき、机へ視線を落とす。
待つ間に、尚之はコーヒー用の砂糖を脇へ寄せた。
使わないのは昔からだった。
早苗は手帳を鞄へ戻し、膝の上へ両手を置いた。
「何を買うか、前は、考える前に、家にあったんだなと思った」
尚之が言った。
早苗は、それを待っていた謝罪の代わりとして、すぐ受け取らないようにした。
今の生活をして、相手が気づいたことだった。
飲み物が来ると、二人とも一度、カップへ手を伸ばした。
早苗は熱さを確かめ、ミルクを少し入れた。
スプーンを置く音が、思ったより大きく聞こえる。
尚之はカップを机へ戻し、早苗を見た。
「今日、話したかったのは」
尋ねられ、早苗は息を吸った。
寂しかったと言えば、相手は何と返すのだろう。
自分が戻りたいと言っていると受け取られるのは、怖かった。
でも、違う意味にされたくないから、何も言わないまま帰るのでは、今日来た意味がない。
「離婚の話をした日のこと。言えなかったことが、あるの」
尚之は、すぐに謝らなかった。
それが、今は、ありがたかった。
「あの日だけでなく、その前にも。平気だって、私、何度も言ったと思う」
尚之はうなずいた。
早苗は紅茶を一口飲んだ。まだ熱く、急いでカップを戻す。
尚之が何か言いかけた。
「先に、言ってもいい?」
彼は口を閉じ、うなずいた。
早苗は顔を上げた。




