第25話 使わない人の理由
年が明けても、洗濯機の回る音は同じだった。
早苗は入口の日付の案内を外し、いつもの受付時間の札へ戻した。
休みの間に必要な案内は出してあったが、それでも、明日開いていますかと聞かれることはあった。
聞いてもらえる方が、間違ったまま来てもらうよりよかった。
一月最初の週、匡史は作業着の袋と、薄いノートを持ってきた。
洗濯機へ服を入れる前に、ポケットから短い鉛筆を取り出す。
もう片方も確かめると、小さい紙が出てきた。
「また、シールですか」
「今日は、粉を量ったときのメモです。洗って完成する配合じゃないので、助かりました」
早苗は笑い、受付の机へ目を戻した。
年末に預かった上着の返却が、あと一件残っている。
匡史は運転を始め、待つ間に、椅子でノートを開いた。
表と数字が、見える範囲にあった。
早苗が尋ねる前に、彼の方から話した。
「店の話、父と母へ、少し出しました」
早苗は糸切りばさみを置いた。
彼が、春から何度か話していたことだった。
家業を継ぐか、自分で別の店を作るか。
その二つを一度で選ぶ話が、ようやく始まったのだろうかと思った。
「何て、話されたんですか」
「いまの店で焼く物とは別に、自分で考えたパンを、定期的に売ってみたいって。先に店を借りると言ったら、何をどれだけ作るかの前に、場所の話で終わりそうだったので」
ノートを閉じ、匡史は膝へ置いた。
父から最初に返ったのは、いまの店の客をどうする、という問いだった。
匡史は、それが、やめろという意味に聞こえた。
でも、父は、いまの仕事を誰がどこまで続けるか、まず聞きたかったらしい。
「そこを、俺が決めないで、好きにやりたいだけ言うと、残った人が全部やる話になるんですね」
彼は少し苦く笑った。
早苗は、だからやめるんですか、と先に聞かなかった。
匡史は自分で続きを話した。
「母には、材料と、試して売る分の数を、ちゃんと出してって言われました。好きだって話と、何個置けるかは、別だからって」
家で話す前に、自分で分けておく必要があり、空いた時間に書いていたのだという。
早苗はノートの中身へ手を伸ばさなかった。
「それで、どうすることになりました?」
「まず、今の店の定番は、続けます。自分の試作を置く日を、少なく決めて、どのくらいの手間になるかも見ます。独立しないと決めたわけではなくて、その前に、自分がやりたい物を形にして」
すぐ店が一つできる話ではなかった。
父も母も、全面的に賛成したと、匡史は言わなかった。
次に相談する日までに、何を確かめておくかが、少し決まったという。
「話して、すっきりしましたか」
早苗が尋ねると、匡史は首を傾けた。
「半分くらい。言う前より、調べることは増えました」
二人で笑った。
早苗は受取済みの札を外し、棚へ戻した。
匡史のノートの厚さは、話す前と変わらないが、中に書くことは増えていた。
最後の客が上着を取りに来た。
早苗は仕上がりを確認してもらい、代金を受け取った。
匡史はそれまでノートへ目を戻していた。
客が帰ってから、早苗は自分で話の続きを尋ねた。
「もっと前に話していれば、と思うこともありますか」
「ありますよ。店へ戻ると決めたとき、自分でもやりたい気持ちがあるって、ちゃんと言っておけばって」
匡史は店の奥へ目を向けた。
七番機の白い札が、夕方の灯りの中で見えている。
「そのとき着てた上着も、まだ持ってます。本当に言おうとして、やめたことなので、話は、条件に合うのかもしれないですね」
早苗はすぐに、使いますかとは尋ねなかった。
彼は服を持ってきていないし、説明をもう一度求めてもいない。
ノートの角を指でそろえ、匡史は自分の言葉で答えた。
「でも、俺は、いま、話したいです。あの日に言った返事を、いまの父へ、先に覚えさせるより」
早苗は、その意味を少し考えた。
昔の父へ言葉を届ければ、いまの父は、言われた後の人としてここにいる。
匡史だけが、言わなかった人生も覚える。
「それが、使う方より、正しいって話ではないです」
匡史が付け足した。
「いま話せる相手がいて、まだ、言った続きを聞けるので。俺は、こっちでやってみたい」
早苗はうなずいた。
「父に、嫌な顔をされない文を考えてる時間は、長かったです」
彼は少し笑う。
「でも、今、同じ家の店にいるなら、嫌な顔された後も、明日の仕事があるので。聞き直す機会はあるかなと」
早苗は、尚之の顔を思い浮かべた。
自分は同じ家へ戻るために話したいのだろうか。
それとも、同じ家にいない現在でも、伝えておきたいことがあるのだろうか。
匡史に決めてもらうための問いには、しなかった。
「私も、会って話す予定を作りました。前の夫と」
初めて、その約束を口にした。
匡史は一度、顔を上げ、そうなんですねと答えた。
相手に戻るのですかとも、やめた方がいいとも言わなかった。
「何を言うか、もう、決めてるんですか」
「言えなかったことは、分かっています。でも、今の相手へ、どう話すかは、まだ」
早苗は棚の扉の方を見ないで答えた。
洗濯が終わり、匡史が立つ。
作業着を取り出し、乾燥へ移す物と、家で干す物を分けた。
早苗は受付を閉め、カーテンの端をそろえる。
自分の今日の仕事は、ここまでだった。
「試作、次は、何を作るんですか」
尋ねると、匡史はノートを持ち上げた。
「甘くない方です。りんごの端の話を、ずっと考えてて。端だけでも、食べる意味がある物を」
「最初の一口も、最後も」
「はい。でも、真ん中を手抜きしていい話じゃないので、忙しいです」
早苗は笑った。
その週の水曜、早苗は二駅先へ材料を買いに行った。
必要な糸の番号は、先に書いてあった。
買い終えると、いつもの改札へ戻らず、通りの小さい店の席へ座った。
昼に何を食べるか、家からは決めてこなかった。
メニューを見て、温かい物を選ぶ。
端末の画面を伏せたまま、自分の食事が来るのを待った。
尚之へ次の連絡をする日は、手帳にある。
その日に、会う場所と時間を、自分から相談する。
いま話せる相手へ、いまの言葉を持っていく。
帰りに三枝ベーカリーの前を通ると、水曜の札が下がっていた。
中の様子を、ガラスへ顔を寄せて確かめるのはやめた。
休みの店には、休みの時間がある。
匡史が店の中にいても、出かけていても、それは彼が決めればよかった。
早苗は買った糸の袋を持ち直し、自分の部屋のある方へ歩いた。
家へ帰れば、今日は、客の分ではないタオルを畳むつもりだった。
土曜の朝、清掃を終えた後、早苗はパン屋へ行った。
新しい物を少しだけ置く最初の日だと、匡史から聞いていた。
店先の棚には、見慣れた定番と、手書きの小さい札が並んでいる。
試作は、角に切れ込みのある塩味のパンだった。
早苗は一つ選び、ほかに昼に食べる物も一つ取った。
「昨日、まだ、札の字を直してました」
会計の所にいた匡史が言った。
その奥では、年上の男性が、定番のパンを棚へ補充している。
匡史が父ですと紹介したので、早苗はいつも利用している礼を言った。
父親は会釈し、今日の分は息子が数を決めたとだけ話した。
「最初に十個って、全部で十個なのか、一種類で十個なのか、家で話が違ってたんです」
匡史は小声で笑った。
「数を出したつもりでも、まだ確認が要りました」
早苗は料金を払い、袋を受け取った。
伝えた後も、聞き違いがあれば戻って確かめる。その作業が、彼の今の店にもある。
帰って食べると、角の部分は薄く、軽い音がした。
真ん中は少し柔らかく、端と同じ味ではない。
早苗は次に会ったときに言おうと思った。売れるかどうかを判定するためではなく、自分が好きだった場所を、また、自分の言葉で伝えるために。




