第23話 別れる前に言いたかった
卒業式は、今年の三月だった。
紘子が一文を送りたいと言ったのは、その日ではなかった。
早苗は控え帳の日付の欄を空けたまま、本人の説明を聞いた。
「二年前の、十二月十日です。日曜の夕方。離婚する前に、家で話しました」
同じワンピースを着て、買物から戻った後、夫と向かい合った日だった。
紘子はその服を前年に自分で買い、仕事の後に人と会うときにも、少しきちんとしたい休日にも着ていた。
卒業式にもう一度選んだのは、まだ着心地がよく、持っている上着にも合ったからだった。
「この服が、結婚してた頃だけの物になるのは、嫌だったんです」
紘子は布を広げた。
早苗が直した裾は、波打たずに机へ置けた。
現在の所有者は本人で、借り物でも、譲られた物でもない。
過去のその日も、同じ実物を着ていた。
話した場所は、当時の家の食卓だった。
子どもは別の部屋にいて、相手は、向かいに座った夫一人。
紘子は、何を頼むか、どんな用事があるかを、先に書いていたという。
「冷蔵庫に、連絡の紙を貼ってたんです。読んでおいてほしいことと、その日に必要な物。返事がなかったら、私がまた聞く。その繰り返しで」
夫が何もしなかったという話ではない、と紘子は付け足した。
頼んだことをしてくれた日もあった。
でも、暮らしの中で自分が寂しいと感じることを、用件の数へ替えて説明しようとすると、どちらが何をしたかという話になった。
「自分の方が、たくさんしてるって、証明したかった日もあります。でも、あのとき、言いたかったのは、数ではなくて」
紘子は目を上げた。
「あなたと暮らすと、私はずっと寂しい」
早苗はその一文を、控え帳へ写した。
十七字。
紘子へ向けると、彼女は少し長く読んだ。
「私、って、ちゃんと入ってるんですね」
早苗は書いた文へ、目を戻した。
「この文で合っていますか。いま、別のことを付け足すためではなく、その日に、飲み込んだ内容として」
「合っています。私は寂しいって、言おうとしました」
紘子は一文から目を上げた。
「離婚しない結果を選びたいわけではありません。ただ、離婚するから、もう言わなくていいとしたことを、言いたいです」
早苗はその返事を聞き、少し息を吐いた。
別れると分かっている人へでも、言いたいことは残る。
「結果によっては、暮らしが思っていた方と違う形になるかもしれません。届いた文の後、相手とご本人が何を選ぶかは、指定できません」
紘子は机の上の服を見た。
指を滑らせ、裾の裏を確かめる。
「子どものことを、どう決めてたかも、変わるかもしれないんですね」
「はい。お子さんの暮らしも、変わる可能性はあります」
紘子はしばらく黙った。
早苗は待った。
「一人で決めるのが、怖いです」
紘子が言った。
「でも、あの日の一言を選ぶのは、私なんですね。今の子どもに、使っていいか決めてもらう話には、したくないです」
早苗はうなずいた。
紘子は利用の条件を読み返し、記憶の説明の所へ指を置いた。
「私が、前はこうだったって話したとき、水野さんは、帳面で確かめるんですね」
「はい。ここへ残した、了承頂いた範囲で。覚えていないことを、覚えているふりはできません」
紘子は、分かりました、と答えた。
利用前の状況を記す。
離婚後、子どもの行事を分担しているが、連絡が行き違い、確認を重ねることがある。
元夫の性格について、早苗が判断した説明は書かなかった。
紘子が読んで、必要なことはそこまででよいと答えた。
紘子は、その先の空白を指で示した。
「終わった後、私が話した分を、ここへ書くんですね」
「はい。残す前に、確認します」
早苗は答えた。
紘子はうなずき、空白から手を離した。
受付の外で、乾燥機の終了音が鳴った。
紘子は一度、カーテンの方を見た。
誰かが普通の洗濯物を持ち帰る音がする。
自分も今日は、服を一枚持って、ここへ来ただけなのだと、確かめるような顔だった。
「使います」
紘子が、自分から言った。
早苗は日付と時刻を確認し、今夜、ほかの利用がないことを見た。
服の中に物が残っていないか、本人が広げて確かめる。
ポケットはないが、畳んだ間に、預かり票が挟まっていた。
紘子はそれを取り出し、鞄へしまった。
「これは、こっちに」
その小さい仕分けを、早苗も一緒に見た。
紙を服と一緒に入れて、過去へ何かを持たせることはできない。
服の実物と、そのときの本人の言葉だけだった。
七番機の蓋を開ける。
紘子は自分で服を入れ、裾が外へ残っていないことを確かめた。
閉める前に、もう一度、紺色の布を見た。
「卒業式の日の方も、私には、覚えていられるんですよね」
「ご自身の記憶として、前と後を持ちます。ただ、どの出来事も、全て正確に覚え続けられるわけではありません」
紘子はうなずき、蓋を閉じた。
早苗が横へ退くと、本人の指がボタンへ触れた。
水音がして、紘子は息を止めたように、少し動かなくなった。
やがて一歩下がり、受付へ戻った。
待つ間、早苗は控え帳を閉じなかった。
紘子は椅子へ座り、鞄の中の本へ手を伸ばしかけた。
取り出さずに、笑う。
「さすがに、今は、頭に入らなさそうです」
早苗も少し笑った。
何か気の利いた話をして、三十分を短く感じさせる必要はなかった。
コップの水を、机へ一つずつ置く。
紘子は自分の方のコップを取り、少し飲んだ。
「子どもが、中学で使う物を選ぶとき、自分で決めた色があるんです。私が勧めた方じゃなくて。それが今でも、ちゃんと好きみたいで」
早苗はうなずいて聞いた。
「親のことは親で話して、あの子が自分の用事を考えられる時間は、残したいです」
早苗は、利用後の結果として先にその希望を書かなかった。
いまの紘子が大事にしたいこととして、そのまま聞いた。
自分の九年間にも、尚之の現在にも、互いの話だけではない時間がある。
そこまで変えたいのかを、早苗はまだ、自分へ聞いていなかった。
水の音が静かになると、二人とも、自然に顔を上げた。
早苗は時刻を見た。
机の上の十七字は、書いた位置に残っている。
その文から先のことは、今度は、紘子本人の話を聞かなければ分からなかった。




