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人生で一度だけ、あの日へ言葉を届ける洗濯機  作者: 雨宮 弦
第4章 同じ結末、違う道

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第22話 卒業式のワンピース

 ワンピースの裾に引っ掛かった糸は、遠目には見えなかった。

 佐伯紘子(さえきひろこ)は指で場所を示し、少しかがんで、ここです、と言った。

 早苗も作業灯へ近づけ、初めて、小さい輪が出ているのを見つけた。


「自分で切ろうかと思ったんです。でも、どこまでほどけるか、分からなくて」


 早苗は切らずにいてよかったと伝え、裏側を確かめた。

 落ち着いた紺色の、飾りの少ない服だった。

 そのまま着ることも、上から一枚羽織ることもできそうだった。

 表示を確かめると、決められた方法で水洗いのできる物だった。

 早苗は補修と、今後の手入れの注意を分けて話した。


「卒業式に着たんです。今年の春。自分では、一番、ちゃんとしたつもりの服です」


 紘子が少し笑った。

 十二月の店には、洗い終わった毛布を抱える客がいた。

 小さい子どもの靴下が落ちていないか、早苗は畳み台を見るのが癖になっていた。

 紘子は子どもを連れず、一人で来ている。


「ご卒業、おめでとうございます」


「ありがとうございます。もう、中学の物ばかり、毎日探してますけど」


 式の前に準備した物より、入学した後で要る物の方が多かったという。

 紘子は受付票へ受取日を書き、曜日を確かめてから、もう一度、自分のスマホを見る。


「その日は、向こうに頼んでた用事が、変わったかもしれなくて。確認してから、お返事でもいいですか」


「はい。お急ぎの仕上がりでなければ、お受取りの日は、後からでも」


 紘子は、元夫なんです、と説明した。

 離婚後も、子どもの行事や、必要な連絡を分けている。

 その都度話せば分かることでも、どちらが何を確認したかが抜けると、同じ連絡を重ねてしまうという。


「この前も、私が学校へ返したと思ってた物を、向こうも用意してて。二つあって、どっちも日付が違うんです。子どもへ聞けば、あっちはこう言ったってなるし」


 早苗は、間に入る子どもの顔を勝手に想像するのをやめた。

 紘子も、子どもに判断してもらうのは違うと考え、親同士で確認し直したという。


「離婚する前に、もう少し話せてたら、って思います。今の連絡の仕方を、決める前にも」


 早苗はそこで、顔を上げた。

 紘子は裾を見たまま、続けた。


「この服、卒業式だけのために買ったんじゃないんです。前から持っていて、大事な話をした日にも着てて。その日のことを、たまに、思い出します」


 元夫との話し合いだったという。

 その日、言おうとして言わなかった言葉があった。

 紘子は、今度こそ言おうと自分で決めていたのに、話の途中で、用件の方へ戻してしまったと話した。

 早苗は作業台の端の糸くずを、指でつまんだ。

 何も直さなくても言える、自分の答えが頭へ浮かんでいた。


「言っていたら、お二人で、やり直せたかもしれないと」


 口にした後で、早苗は紘子の顔を見た。

 彼女の表情が少し変わる。


「いえ。それは、考えていません」


 はっきりした返事だった。

 早苗の方が、次の言葉を失った。


「すみません。私が、先に決めつけました」


 紘子は、首を少し振った。


「そう聞こえる話し方だったかもしれません。でも、結婚を続けたかった、とは違うんです。別れる前に、そこだけは、言いたかった」


 早苗は糸くずを小さい箱へ入れた。

 自分の手元へ、急に戻ってきた感じがした。

 紘子の服ではなく、淡い青のブラウスを、机の上へ置いてしまっていたのかもしれない。

 目の前の人が着たのは、この紺色のワンピースだった。


「今のお話を、もう少し聞いてもいいですか。ほかの方へ聞こえない時間の方がよろしければ、後ほどでも」


 紘子は周りを見て、次に受け取りに来るとき、時間を取れるかと尋ねた。

 早苗は引き受け、補修の用事を先に終えた。

 袖のない服だったので、裾を広げると、全体の形がよく分かった。

 糸を戻す場所と、仕上がりの見通しを説明し、預かり票を渡す。

 紘子はそれを鞄へ入れ、今日は帰っていった。


 夕方の終わり、早苗は裾の出ていた糸を戻した。

 小さい輪ができているからといって、余計な糸だと切り捨てれば、別の所までほどける。

 服を見れば、先に確かめることがあると分かる。

 人の話になると、言われていない結論を、なぜ先に用意したのだろう。

 早苗は縫い終わりを確かめ、服を棚へ掛けた。


 受取の日、紘子は六時半に来た。

 七時まで待つつもりで、早めに着いたという。

 早苗が仕上がりを見せると、裾を光へ向け、糸が見えなくなった所を探した。


「ここの線を、覚えておけばいいと思ったんですけど。もう、どこだったか分からないです」


 紘子が笑い、早苗も場所を示した。

 代金の支払いを終え、時間になるまで、彼女は店の椅子で本を開いた。

 見出しを追い、途中で一度、笑う。


 七時になり、早苗が声をかけると、紘子は本へ栞を挟んだ。


「待っていて頂いて、すみません」


「いえ。家だと、ここまで続けて読めないので。ちょうど、読みたかった所まで行きました」


 小さい旅行記だった。知っている街で、作者が何度も道を間違えるのを読んで、笑っていたのだという。

 紘子は、私もここで迷ったことがあって、と地図の一か所を示し、本を閉じた。

 早苗はカーテンを引く前に、入口の受付札を確かめた。終わった仕事と、これから聞く話の場所を、自分でも区切った。


 受付のカーテンを閉めた後、紘子は話を戻した。

 二年前、まだ一緒に暮らしていたころ、元夫と家のことを話し合った。

 互いに用事をこなす話はしても、自分がその暮らしでどう感じていたかは、後へ送った。


「子どもが何時に帰るかとか、何を持っていくかは話せるんです。でも、自分が寂しいって言うのは、言いにくくて」


 早苗は、今度こそ、戻りたいという意味へ取り直さずに聞いた。

 紘子はあの話し合いの後も、暮らしを考える時間を持ち、離婚した。

 現在の分担の混乱をなくすことと、結婚を続けることは、同じ望みではなかった。


「あのとき、何を言わないで用件へ戻したのか。相手にも、知っていてほしかったんです」


 そこで早苗は、七番機について、聞くかどうかを尋ねた。

 先に、自分が彼女の望みを取り違えたまま話すのではなく、確認したかった。

 服を着ていた日の言葉が届けられるが、相手の答えや、その後の暮らしは指定できない。

 紘子は説明を聞き、何度か問い返した。


「離婚を、しなかったことにする操作ではないんですね」


「はい。そのような結果を指定することはできません」


「それなら、送る言葉と、別の願いを混ぜないようにしないと」


 紘子は畳んだワンピースへ手を置いた。

 早苗が話す条件を聞く間も、自分の受け取り方を確かめているようだった。

 一生に一回という説明の所で、彼女は少し黙った。


「今日は、持って帰ります。考える時間をもらってもいいですか」


「もちろんです」


 早苗は控え帳を出さなかった。

 紘子は補修済みの服を袋へ入れ、次に連絡するときの時刻を尋ねた。

 早苗は受付時間と、事前に相談して決められる時間を、分けて伝えた。


 帰る前、紘子は、卒業式は良い日でした、と言った。


「あの服を着たから、昔のことばかり考えていたわけじゃないんです。その日は、本人の行きたい所へ帰りに寄って、疲れて、帰って」


 早苗は、そうだったんですね、と答えた。

 紘子が袋を持ち、戸を開けるのを見送った。

 住居の棚を開けるのは、今夜はやめた。

 他人の離婚に、自分の答えを先に探したことを、もう少し、自分の所へ置いておきたかった。

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