第22話 卒業式のワンピース
ワンピースの裾に引っ掛かった糸は、遠目には見えなかった。
佐伯紘子は指で場所を示し、少しかがんで、ここです、と言った。
早苗も作業灯へ近づけ、初めて、小さい輪が出ているのを見つけた。
「自分で切ろうかと思ったんです。でも、どこまでほどけるか、分からなくて」
早苗は切らずにいてよかったと伝え、裏側を確かめた。
落ち着いた紺色の、飾りの少ない服だった。
そのまま着ることも、上から一枚羽織ることもできそうだった。
表示を確かめると、決められた方法で水洗いのできる物だった。
早苗は補修と、今後の手入れの注意を分けて話した。
「卒業式に着たんです。今年の春。自分では、一番、ちゃんとしたつもりの服です」
紘子が少し笑った。
十二月の店には、洗い終わった毛布を抱える客がいた。
小さい子どもの靴下が落ちていないか、早苗は畳み台を見るのが癖になっていた。
紘子は子どもを連れず、一人で来ている。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます。もう、中学の物ばかり、毎日探してますけど」
式の前に準備した物より、入学した後で要る物の方が多かったという。
紘子は受付票へ受取日を書き、曜日を確かめてから、もう一度、自分のスマホを見る。
「その日は、向こうに頼んでた用事が、変わったかもしれなくて。確認してから、お返事でもいいですか」
「はい。お急ぎの仕上がりでなければ、お受取りの日は、後からでも」
紘子は、元夫なんです、と説明した。
離婚後も、子どもの行事や、必要な連絡を分けている。
その都度話せば分かることでも、どちらが何を確認したかが抜けると、同じ連絡を重ねてしまうという。
「この前も、私が学校へ返したと思ってた物を、向こうも用意してて。二つあって、どっちも日付が違うんです。子どもへ聞けば、あっちはこう言ったってなるし」
早苗は、間に入る子どもの顔を勝手に想像するのをやめた。
紘子も、子どもに判断してもらうのは違うと考え、親同士で確認し直したという。
「離婚する前に、もう少し話せてたら、って思います。今の連絡の仕方を、決める前にも」
早苗はそこで、顔を上げた。
紘子は裾を見たまま、続けた。
「この服、卒業式だけのために買ったんじゃないんです。前から持っていて、大事な話をした日にも着てて。その日のことを、たまに、思い出します」
元夫との話し合いだったという。
その日、言おうとして言わなかった言葉があった。
紘子は、今度こそ言おうと自分で決めていたのに、話の途中で、用件の方へ戻してしまったと話した。
早苗は作業台の端の糸くずを、指でつまんだ。
何も直さなくても言える、自分の答えが頭へ浮かんでいた。
「言っていたら、お二人で、やり直せたかもしれないと」
口にした後で、早苗は紘子の顔を見た。
彼女の表情が少し変わる。
「いえ。それは、考えていません」
はっきりした返事だった。
早苗の方が、次の言葉を失った。
「すみません。私が、先に決めつけました」
紘子は、首を少し振った。
「そう聞こえる話し方だったかもしれません。でも、結婚を続けたかった、とは違うんです。別れる前に、そこだけは、言いたかった」
早苗は糸くずを小さい箱へ入れた。
自分の手元へ、急に戻ってきた感じがした。
紘子の服ではなく、淡い青のブラウスを、机の上へ置いてしまっていたのかもしれない。
目の前の人が着たのは、この紺色のワンピースだった。
「今のお話を、もう少し聞いてもいいですか。ほかの方へ聞こえない時間の方がよろしければ、後ほどでも」
紘子は周りを見て、次に受け取りに来るとき、時間を取れるかと尋ねた。
早苗は引き受け、補修の用事を先に終えた。
袖のない服だったので、裾を広げると、全体の形がよく分かった。
糸を戻す場所と、仕上がりの見通しを説明し、預かり票を渡す。
紘子はそれを鞄へ入れ、今日は帰っていった。
夕方の終わり、早苗は裾の出ていた糸を戻した。
小さい輪ができているからといって、余計な糸だと切り捨てれば、別の所までほどける。
服を見れば、先に確かめることがあると分かる。
人の話になると、言われていない結論を、なぜ先に用意したのだろう。
早苗は縫い終わりを確かめ、服を棚へ掛けた。
受取の日、紘子は六時半に来た。
七時まで待つつもりで、早めに着いたという。
早苗が仕上がりを見せると、裾を光へ向け、糸が見えなくなった所を探した。
「ここの線を、覚えておけばいいと思ったんですけど。もう、どこだったか分からないです」
紘子が笑い、早苗も場所を示した。
代金の支払いを終え、時間になるまで、彼女は店の椅子で本を開いた。
見出しを追い、途中で一度、笑う。
七時になり、早苗が声をかけると、紘子は本へ栞を挟んだ。
「待っていて頂いて、すみません」
「いえ。家だと、ここまで続けて読めないので。ちょうど、読みたかった所まで行きました」
小さい旅行記だった。知っている街で、作者が何度も道を間違えるのを読んで、笑っていたのだという。
紘子は、私もここで迷ったことがあって、と地図の一か所を示し、本を閉じた。
早苗はカーテンを引く前に、入口の受付札を確かめた。終わった仕事と、これから聞く話の場所を、自分でも区切った。
受付のカーテンを閉めた後、紘子は話を戻した。
二年前、まだ一緒に暮らしていたころ、元夫と家のことを話し合った。
互いに用事をこなす話はしても、自分がその暮らしでどう感じていたかは、後へ送った。
「子どもが何時に帰るかとか、何を持っていくかは話せるんです。でも、自分が寂しいって言うのは、言いにくくて」
早苗は、今度こそ、戻りたいという意味へ取り直さずに聞いた。
紘子はあの話し合いの後も、暮らしを考える時間を持ち、離婚した。
現在の分担の混乱をなくすことと、結婚を続けることは、同じ望みではなかった。
「あのとき、何を言わないで用件へ戻したのか。相手にも、知っていてほしかったんです」
そこで早苗は、七番機について、聞くかどうかを尋ねた。
先に、自分が彼女の望みを取り違えたまま話すのではなく、確認したかった。
服を着ていた日の言葉が届けられるが、相手の答えや、その後の暮らしは指定できない。
紘子は説明を聞き、何度か問い返した。
「離婚を、しなかったことにする操作ではないんですね」
「はい。そのような結果を指定することはできません」
「それなら、送る言葉と、別の願いを混ぜないようにしないと」
紘子は畳んだワンピースへ手を置いた。
早苗が話す条件を聞く間も、自分の受け取り方を確かめているようだった。
一生に一回という説明の所で、彼女は少し黙った。
「今日は、持って帰ります。考える時間をもらってもいいですか」
「もちろんです」
早苗は控え帳を出さなかった。
紘子は補修済みの服を袋へ入れ、次に連絡するときの時刻を尋ねた。
早苗は受付時間と、事前に相談して決められる時間を、分けて伝えた。
帰る前、紘子は、卒業式は良い日でした、と言った。
「あの服を着たから、昔のことばかり考えていたわけじゃないんです。その日は、本人の行きたい所へ帰りに寄って、疲れて、帰って」
早苗は、そうだったんですね、と答えた。
紘子が袋を持ち、戸を開けるのを見送った。
住居の棚を開けるのは、今夜はやめた。
他人の離婚に、自分の答えを先に探したことを、もう少し、自分の所へ置いておきたかった。




